美味しいつまみと交換
耳に押し当てたスピーカーから、呼び出し音が響く。それが途切れた瞬間、かけたはずの人物とは違う声が聞こえた。
『もしもーし』
「……は?」
一瞬画面を見直すけれど、相手を間違えたわけではない。
「オレ、涼にかけたはずなんだけど」
『涼でーす』
「ちげーだろふざけんな」
『こっわ』
「龍臣」
『ふはははは、お前の大切なわんこは預かった。返して欲しくば最高級のつまみを用意して隣の部屋へ来るがよい』
「はぁ? ちょっ、」
文句を言わせてもらえないまま通話が切れた。
なんで涼が龍臣の部屋にいるんだ。
ふざけた要求しやがってとイラつきながら、なんだかんだ冷蔵庫を漁ってしまう。
最近買ったからすみを引っ掴むと、舌打ちしながら乱暴にドアを閉めた。
同じフロアに2部屋しかなくてよかったと思うのは、こういう時だ。
何にも気にせずにイラつくまま隣のインタホーンを連打すると、待ち構えていたように玄関が開かれた。
「お前結構過激派だよな」
「涼は?」
「その前に美味いつまみを……ぶっ」
龍臣の顔面にからすみを押し付けて玄関に押し入ると、構造上同じ間取りの廊下を早足に進み、リビングのドアを開く。
「ユキさん……」
「……」
ダイニングテーブルでタブレットを持ったまま号泣している涼を見つけて、後ろにいる男を振り返る。
なに泣かせてんだと睨みつけると、龍臣はからすみを持ったまま両手と首を横に振った。
「いやいや、俺のせいじゃねーから」
「お前なに言った」
「何って、はちゃめちゃに出来のいい新曲MVを見せてる」
「ユキさぁん」
「うわっ」
いつの間に席を立ったのか、背後からいきなり抱きつかれた。
「りょ、涼?」
「ごめんなさい……ホントに、ごめん」
「……いや、オレこそ」
形のいい頭をそっと撫でて振り返ると、ぐしゃぐしゃに濡れた瞳とかち合う。
イケメンが台無しだなと笑って頬を拭ったら、涼はまたボロボロに泣いてオレを抱きしめた。
「好き、大好きです」
「うん」
「愛してます。ユキさんの音楽も、何もかも、全部っ」
「うん」
全身で必死に伝えてくれるこの男に、愛しさが募る。嫉妬も不安も、いくらだって取り除いてやりたいと思えるようになる日が来るなんて予想もしていなかった。
この年下の恋人の前では、少しだけ格好をつけていたい。
「涼」
「はいっ……」
「金輪際、後ろの男とは会わないって約束する」
「うぉい待て待て本人の前で約束すんな!」
後ろがうるさいのは無視して涼の瞳を真っ直ぐに見つめたら、鳩が豆鉄砲を食ったとはこのことかというほど目を見開いていた。
「え……えっ!?」
「涼を不安にさせるなら、あの男とは会わない」
「おい無視か!」
ひとしきりパチクリと瞬きをして、涼は一旦呼吸を落ち着けたあと、オレの頬に触れて笑う。
「ユキさん、俺ね、ユキさんに大切なものを捨てさせたくはないです」
「……」
「だって、幸せだった思い出もあるでしょ。アンタにとって美しい瞬間も、楽しかった出来事も、嬉しかった気持ちも……悔しいけど、嫉妬も、しちゃうけど、あの人と過ごしてきた時間が、ユキさんにとって愛おしいものだったって、わかります」
「涼……」
「だから、捨てないでいて下さい。その分、俺が強くなるから」
吸い込まれそうに深い夜色をした瞳が、澄んだ星空のようにキラキラしていた。
「アンタを構成するもの全部、受け止められるくらいイイ男になってみせます」
それに、射抜かれる。
初めて涼に会った夜の、あの真夏の残響を思い出す。
「ふ、ふふっ……ふっ、く……ははっ」
「えぇ!? なんで笑うんですか!」
「あはは」
「光属性こわぁ」
「はぁ!?」
背後で龍臣がげんなりした声を出していて、それがまたおかしくて笑った。
涼はいつも、こちらの想像をいとも簡単に飛び越えてくる。
その強さに救われて、眩しさに叱咤されて、しゃんとしなければと背筋が伸びる。
「はぁー、やってらんねー。帰れ帰れー」
「アンタが無理矢理連れてきたんでしょ!」
「いやーちょっと、ボクニハヒカリガツヨスギマス」
「え、なに!?」
「ぶっ、ふふ、はっ」
「ねえユキさんのツボわかんないんですけどぉ!?」
「ダイジョウブソノウチワカルヨ」
「さっきからなんなんすか!?」
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
誰かのために音楽を作って、悩んで、格好つけて。
そんなことができるようになったのは、涼のおかげだ。
「あ、」
「え、どうしたんですか?」
ふと、頭の中で音が響く。
「書き直したい」
「え、何を?」
「涼の曲」
「今ぁ!?」
唖然とする涼に笑って返したら、グッと押し黙った後に呻いていた。
「もおぉ!」
「ふは、ごめん」
きっとこの夜のことも、忘れないでいるんだろう。
そんな気がした。
涼と再会して一年後の、春の夜。