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ヨーの罪悪


 これから起こる不運な運命の知らせのような我が子の泣き声。


 涙を拭いてやりながら熱病に侵される愛しい我が子に山羊のミルクを飲ませる。

 画商の夫曰くこれが熱病には聞くそうなのだ。

 私は我が子が心配でならない。

 彼の心の中には今熱病に侵される我が子と三日後に我が家を訪れるであろう義兄の二つが希望と絶望のように折り重なっているのだろう。

 だが、その時の私にはどちらも不安の種にしか見えなかった。

 

 アーモンドの若木の匂いがほんのりと香る薄黄色の我が家に不安は一つもなかった、夫の兄のことを除けば。

 義兄は南フランスで画家をやっているが、鳴かず飛ばずな絵を描くせいで収入がない。

 

 義兄は聖職者を目指していたらしいが、上手くいかず画家になったという。ベルギーの修道院から修道者としての資格はないと言い渡され、弟と同じ画商に一時は務めるとも彼の変わった性格のせいで辞職し、最後に残った絵に心身生命の全てを注いでいる。

 変わった性格というのは、人に施す聖職者のようでありながら、一方で病的な精神を持った頑固者でもあるところだ。道端の物乞いに着ていた服を全てやったこともあると聞いた。

 そんな空回りな喜捨が異常だと判断されたらしい。


 優しさと頑固さと惚れっぽさと精神病とのグラデーションのような人格を持った怪人を、しかしながら我が夫はまるで太陽を見る向日葵のようにずっと顔を向けている。


 お金を工面して義兄の生活費をだしたかと思えば、義兄のアトリエの建築費も勝手に拠出するものだから、我が家の家計は燃え盛るばかり。

 一人目の子供がまだ不安定な状態なのに夫の中の優先順位は固く重く兄が一番のようだった。

 少し前は兄とは方向性の違いを感じて距離を置きたいとぼやいていたのに、距離を置いたとたんに恋しがって手紙を緻密に書いていた。

 そのときに、きっとこの兄弟は何か見えない重力のようなもの、或いは見えない臍の緒がつながっていてお互いにはなれることはできないのだろうと私も腹積もりを決めていた。


 しかし、今日こそ我慢が出来なくなる。


「テオ。フィンが山羊のミルクを飲みほしたわ。あなたはどうしてそう落ち着きなく動き回っているのかしら。あなたの不安の種がフィンであるというのなら私の代わりにここに座ってジッと抱きかかえてやってくれないかしら」

「あぁ……すまない、ヨ―……代わるよ」


 窓際でいそいそと思索を巡らせて足をもつれさせていたテオはその足取りに落ち着きを取り戻し、愛しい萌芽のフィンをその手に抱いた。

 農民よりもずっと綺麗で、貴族よりは仕事の汚れが見えるその薄いベージュ色の手で。


「おぉ、フィン。どうだ? 山羊のミルクで熱病は下がりそうか?」


 フィンの眼を見ようと顔を覗き込むが涙と涎とでてかてかになった赤子は疲れて眠ってしまっていた。夜の青とは真逆の熟れた桃のような顔をテオは慎重に、陶器を触るようにして触れた。


「うん、熱は下がったみたいだ。良かった……」


 テオは深緑色の目に安堵を灯した。

 強張った彼の顔に柔らかみが戻り色も少し明るくなったように見えた。

 どこかで信用しきれなかった彼もまた私と同じ子の親であるということを確認させられる。

 彼の夕日のように暖かな愛は確かにこの子に流れている、だから私も傍によって行こうとしたが。


「これなら兄さんに会わせられるな」


 彼の口から発せられた言葉で私の中で一つ前の言葉が怪しくエメラルドグリーンと葡萄畑の赤で彩られる。それは私の脳内に愛の暗い部分を理解させた。


 またしてもこの人は自分の兄を選ぶのか。

 さっきの言葉も、その優しそうな表情も全て私たちに、この家の中で完結するものではなかったのか。


 憎らしさが止まらない。

 愛するテオや愛しいフィンにではない。

 あの奇怪な画家、私の義兄ウィレムにだ。


 どうして彼を私や私の子供から奪うのだ。いつまで義兄に注意を払った生活をしなければならないのだ。


 ふと義兄の顔はどこかメランコリックだが、か弱さの感じさせない神学者のようなものだったことを思い出された。テオに似てるけれども違う井戸の底を覗き込んだような深緑色の瞳とクマのような焦げ茶色の顎髭。その見た目は堅物感を想起させるが、物腰は柔らかくどこか間抜けのよう。

 実際に会ったのは数えて六度ほどで残りは手紙でのやり取りの方が印象深かった。


 芸術家らしい私的な表現をふんだんに交えながら、私たちに気を使ったような物言いをするのだ。よく手紙の上では私のことを太陽のようだと形容したり、負担になってないかと確認したりする素振りがあった。常識的な人だと思ったが、それは違う。妄信的な弟が彼の過ちを漏らさず静謐に飲み込んでしまうのだ。

 負い目を感じる義兄に感じる必要はないと弟は励ますが、実際の問題は少しも変わってない。

 今もそう。フィンの熱病は下がってなんていないはずなのにテオは兄が我が家を訪問する日を延期しようとする素振りすらみせない。兄には何の心配事もかけたくないらしく全てが順調に進んでいると手紙で言ってはばからないのだ。


 テオを、我が夫を義兄に対する向日葵と言ったが、それ以上に盲目だ。

 私はこの商才と現実的な愛を持つ夫を愛しているがこの欠点だけが愛することが出来そうになかった。


 その日はほぼ寝ずにフィンの看病をし、義兄のウィレムが家にくる直前には確かにフィンは熱も下がり安静期に落ち着いた。しかし、今度は私の体力疲れが目に見えて出てきたところだった。


 朝は冷え込むというのにウィレムはただ私たち家族に会いたいという一心だけなために、その寒さにも厳しさにも応えず早朝からやってきた。


 雪は降らなかった秋の終わり。

 乾燥した空気が収穫し終わって裸になった田畑を撫でて一年の終わりをせっせと運んでくる。どこか太陽も水色っぽく見えてきそうなほど晴れた日だった。


「やぁ兄さん! さぁさぁ入って入って」


 無口な義兄は少し頷いて家の中に入る。六年前に画家友達から貰ったというコートを脱いで、耳を隠すための麦わら帽子も帽子掛けに掛けた。

 みるみるうちに服の底に隠れていた義兄のウィレムが剥き出しになってくる。隠されていた部分が多いせいか、それとも彼の爬虫類っぽい顔がそう思わせるのかやはり数年前に会った時と同じような不気味さを感じさせる。


 履き古された革靴がうちの木床を軋ませながら重い足音を鳴らす。


「お久しぶりですウィレムさん。南フランスの生活は如何でしたか」

「ヨ―、久しぶり。南フランスは楽園のような場所だったよ……だがもう二度と行くことはない」


 冷たい隙間風が入ってきたのかと思った。

 何か触れてはいけない彼の心の一部を、それこそ心臓を握ってしまったのではないかとすら思った。私は無言で少し立ち尽くした。


「ヨーの方こそ結婚生活は上手くいっているかい。我が弟は商才はあれど家庭にまで手が回せる器用な奴ではないのでね」

「そ、そんなことないよ、兄さん! ちゃんと僕もフィンのお父さんになったんだから」

「そうね。あなたは立派な父親だわ」


 私の言葉は本音と嘘の微妙な度合いを持っていた。


  そんな私の気持ちを見透かしてそうな霧巻く目でウィレムじっと私を見ていたが、やがてまた歯車が動くようにぎこちなく家の中を進んでいった。


「あの絵、置く場所が悪いな」


 気ままに家を徘徊し、ウィレムは彼が私たちに送ってくれた絵の前に立ち止まった。

 丁度食卓の窓と反対方向の壁に飾っておいたのだ。


 白んだ水色の背景にアーモンドの木の枝が描かれたシンプルな一枚。

 これはフィンが生まれた時のお祝いに貰った一枚だった。テオ曰くいつもの彼の絵に比べて数段明るく生命の誕生を礼賛している絵だというのだが、私からしてみれば節くれだったアーモンドの枝が可笑しな方向にばらばらと曲がっているようにしか見えずあまり気にいってなかった。


 テオはこの絵のことはすぐに日常の一部化させて特別注視することはしなかった。

 しかし、そんな絵の置く場所が悪いと言われると今までぞんざいに扱ってきてしまったようでバツが悪かった。


「しかも曲がってる。テオこの絵はもっと広い壁に飾られることで真にこの薄黄色の壁との相性を発揮するということがなぜわからなかった。お前ほどの画商がそれに気づかないわけなかったはずなのに」


 テオからの義兄に対する愛が真実であるように、またウィレムからテオへの言葉もまた本当のことを指していた。

 そのことを突かれたテオは少し反省したように頭を掻いて謝った。


「ごめんよ。ただこの家にはこの壁よりも広い壁はなかったから……だから今度引っ越しを考えているんだ。今いる画商店から独立して自分だけの店を持とうって思いもあってね」

「そうか……そうか、どこに引っ越すつもりなんだ」

「ベルギーのブリュッセル郊外なんていいかなって思ってる」

「ベルギーか、あそこには初めて私の絵を評価してくれた批評家がいたな……だが、彼も彼の展覧会で置いた私の絵の位置を間違えていた。同じ過ちをまた繰り返しそうで嫌なところだ」


 寂しそうにそう呟いた。

 やはりこの義兄はどれだけ人に愛されようとも、評価されようとも、自分主体でしかその人物を見ることが出来ないのだ。


 他人に慈悲を与えることが出来ても、それは他人を慮ってできたことではないだろう。


 きっと自分の傷を癒すための慈悲であったはずだ。


 私たちの子供の生誕を祝ったというあの絵もきっと新たな命という新たな主題に着手するための理由付けでしかなかったのではないかと私は思ってしまった。


「少しは人に寛容になられたらいいのでは、ウィレム。貴方の絵が事実だけを映さないように多少の過ちは看過して然るべき。そうでしょう?」

「ヨー、兄さんは既に寛大で慈悲の心に溢れているだろう!」

「……君に会えてよかった。君は常に真っすぐと事実を見つめている。君は何にも惑わされず、ひたむきな努力と挫折を繰り返し日々を藻掻くまさに私の理想の女性だよ」


 義兄から口説かれたのかと一瞬思ったが、いや皮肉を言われたのだろうか。

 この人にそんな考えや思い付きが即興でできるわけはなくこれは心の奥底から本音だろう。その意味は良く私には分からなかった。


 結局ウィレムはあれだけ楽しみにしていると言っていたフィンとの邂逅もたった十分もせずに顔を合わせて終わらせ、テオにはいくつか言葉を残してどこかへ消えてしまった。そのどこかもテオから聞かされなかったから謎のまま。


 謎のまま、ウィレムはその次の週に拳銃自殺を図ったと、訃報を残して二度と戻らなかった。



 ウィレムの埋葬の後で



 渡り鳥が南下するよりも早く私の心に激震を齎したそれはあの日の記憶を、ウィレムと言う人の記憶を呼び起こしてはやまなかった。


「兄さん……! あぁ、ぅ兄さん……!」


 灰炭色の墓石の前で人目を忍んで泣き崩れるテオの姿はどこかウィレムに似ていた。

 見れば見るほど似ていてあの日彼を邪険に扱ってしまったことを後悔した。もう戻りはしないモノを後悔した。この鬱蒼とした森に囲まれた墓地に、彼はひどく静かな眠りについてしまったのだ。もう彼が悪夢や幻聴に魘されることはない、絶対に聞くことのなかったであろう無音の世界に行ってしまったのだ。


 

 彼は遠いフランスの地にいても心の底から私たち夫婦の幸せを願ってくれていたではないか。長く濃密な手紙をまめに出してくれていた。子供が生まれた時だって自分のことのように喜び、すぐに来てことほいでくれたではないか。


 ただただタイミングが悪かったとしか言えなかった。

 子供の熱病、テオの態度、ウィレムの言葉、少しずつ重なってしまったストレスが私をささくれだった材木のような人間に変えてしまっていたのではないか。

 それとも、アレが私の本性だったのだろうか。

 ドロドロと融解した金属のような感情によって私は構成されていたのだろうか。

 手紙の上ではきれいごとをいくらでも吐けても、結局自分の本性はこんなにも気まぐれで、あさましくて、情けないものだったのか。


 ごめんなさいウィレム。

 私の義兄。心優しき黄金の太陽よ。


 どうか。

 どうか。

 安らかな眠りを、あなたに。


 そう願い、そう祈り、私とテオは彼の眠る墓地を後にしたその日からテオは変わってしまった。運命を共にした片割れを失ってしまい、自分自身を喪失してしまっていたのだ。

 よく怒鳴るようになった。

 子供の泣き声に声を荒げたり家を飛び出したりするようになった。


 そして、いつしかテオはフィンに招かれてしまった。


「あぁ……僕は、僕と兄さんはあやまちを冒してしまったのね。今、今行くよ……」


 彼が死んでから不眠症を発症し、眼の下に赤黒い隈を乗せ、体はやせ細って枯れたトウモロコシのようになってしまった。それはいつもの彼とはかけ離れた人物像で何かに憑かれたようだった。その正体は言わずもがな私にはわかった。

 

 仕事から帰ってきたばかりだった彼はコートを脱いで、霊の足取りで黄色い扉を開けて暗澹たる空へと飛び出してしまっていた。

 扉が開いてできた空白ができたその四角いフレームの中には無限が広がっていた。


 どこまでも光のない、星空の下で光に塗りつぶされない怪しげな森。

 その森が井戸の底のような闇色で風の音で静かに私を呼び立てた。


 私は永久にも思える一瞬の間に逡巡し、そして夫を追う決意をした。

 闇に抗うには余りにもか弱く儚い松明の火を片手に持って舗装されていないあぜ道を行った。頬を撫でる風すらも農夫の鎌のように鋭く私を切り裂いた。


 あやまちってなんのこと。

 あなたはどこにいってしまうの。


 あやまちだなんて言葉はまるで私への当てつけのように感じられた。あの日、彼を邪険に扱った『あの日』から私はずっと走り続けてる。

 この夜闇の山林を駆け回るように。

 松明で黄色く照らしても走り抜けたあの森はどこまでも深い井戸の底のような緑色をしている。

 そのうちに自分もここから抜け出せなくなってしまうのではないかという恐怖心が湧いた。

 あの子を置いてはいけない。

 私までもいなくなってしまったら、今残されたフィンはどうすればいいの?

 私の心の中は不安と罪悪感とがごちゃごちゃと混ざってしまっていた。

 その混ざった負の混合物が火のついた油のように爆発力を増して、この森を焼き尽くしようやく私は家に帰ることが出来た。

 あの森は煌々と狂気の炎に燃えている。

 それでも深い緑は赤さを飲み込み続けている。

 私の炎よりも手招くあの自然は大きく偉大だった。


 ウィレム。

 ウィレム。

 私の輝く義兄よ。

 どうかフィンまでは持って行かないで。

 きっとテオはあなたのものだから。


 私はその日テオをいけにえにしてしまった。

 眠れぬ夜も気絶したように寝てしまった。


 白い、白い太陽があの鬱蒼とした森を爽やかに青く照らしだした。

 警察がその森の中からテオの狂死した死体を見出すのは午後に差し掛かるよりも早かった。

 安らかな笑みを浮かべた彼の亡骸は当然としてウィレムの墓碑の隣に添えられた。


 私もいずれ狂気とも呼べる彼の呼び声に応えてしまう日が来るのだろうか。

 もしそんな日が来るとしたら彼の呼び声に私はきっと罪悪感を持って応えるだろう。

 向日葵のように彼を見ることはできなくとも、ヒヤシンスのようにそっと彼の傍に仕えて敬意を示そう。


 だが、それは今じゃない。

 胸に抱えた息子と徐々に蒼空を昇る太陽を見ていた。

 この子がいる限り私は、まだ。



 テオの埋葬の後で



 奇しくも短い間に親族が二人も死んだ私は彼らの遺品整理をすることになった。

 夫のものを私が整理するのは当然として、どうして義兄であるウィレムの遺品にまで私の手が及んだかというとテオがウィレムの描いた絵をいずれ商品にしようとして保管していたのだ。彼はウィレムの才能を信じていた。事実ウィレムの絵は鳴かず飛ばずであり続けたわけではなかった、ベルギーのブリュッセルにある美術館で六点もの彼の絵画が展示され、うち一つが買い取られたのだ。テオはその話をウィレムの手紙で知った時にまるで自分のことのように喜んでいたのを覚えている。彼らは喜びを摩擦なく完璧に共有できたのだろう。朗らかな春が到来したように彼はこれからウィレムの絵画が売れるようになると予言を残していた。それがウィレムが死ぬ七か月前の一幕ことだった。


「フィン。これから私たちはどうしたらよいのでしょうね……」


 両親は実家に戻ってくるようにと言っているが、未亡人になった娘とまだ働くこともできない子どもを抱えて帰ってきたところで彼女らの生活を圧迫することになる。

 大黒柱の消えた一軒家は斜陽しか入ってこなかった。

 アーモンドの匂いは消えず、揺れ続ける揺りかごの中には眠る王子がいる。しかし、それ以外は空虚なのだ。食卓でも、玄関ででも、ここ最近は衣擦れを聞いたことがなかった。


 聞えてくるのは赤子の泣き声だけ。

 不安げな赤子が天に向かって叫ぶ声。


「アーモンドの枝の絵。これがお金になれば……」


 はっとして伸ばした手を引っ込める。

 自分は一体何を言っているのだ。自分が自殺に追い詰めたはずの義兄の絵を換金しようとしていたのか?


 極限状態に陥って罪悪感すらも悪魔の質屋に入れようとしている自分の精神状態に乾いた笑いしか出なかった。このアーモンドのように私の心は捻じ曲がっている。

 

 そして、芽吹いている。

 今更罪悪感や謝罪でこの状況が変わるものか。

 私は自分を奮い立たせて立ち上がる。


 周囲には手紙の束とウィレムの残した絵画たちが額縁にも収まらないまま並べられている。一枚一枚大きい絵だけれども床に丁寧に並べられるくらいにこの家は広くなってしまったのだ。


 私は周囲を取り囲むウィレムの描いた風景や人物を舐めるように見て、テオの言っていた予言を想起した。そして、その予言はきっと当たるはずだと考えた。

 私の視界の中央で蠢く星月夜の不気味な夜の空気、その何たる禍々しきカリスマ。風景画のはずなのにまるで夜の一場面が丸々生き物かのように絵が描かれている。

 ほのかな光に照らされた食卓でジャガイモを取り合う労働者たちの絵は武骨で粗削りながらも労働者と家庭が一本でつながっているというテーマ性を訴えかけてくる。


 手紙を読みなおしながら絵を感覚で時系列に並べなおすとその背景で彼がどのように思ってこれらを描いていたのかが物語を読むように分かった気がした。ただ手紙の中の柔和な人物像が、絵を描く絶望に打ちひしがれた姿を合わせることで一気に人物像が分厚くなった。


 私の知らなかった彼が彼の絵画の中で必死に生きていた。


 私はこれを世界に広げていかねばならないという使命にかられた。

 まるでキリストの教えを伝導する使徒のように、義兄の偉業を夫の画商を通して美の世界に投じようと思った。生前に彼らが成しえなかった夢を聖火のように受け継ぐべきなのだと。もうとっくに家計を賄うという現実主義はかなぐり捨てて私は万年筆を走らせた。


 とにかくウィレムの絵には誰にも見つけることが出来なかった才能があったのは確かだった。


 私は幾つものウィレムの手紙を持ち寄りながら、絵を売ることに専念した。

 幸いなことに死んだ夫のコネクションは沢山あった。彼の働いていた画商会はヨーロッパでも指折りの規模をしていて、登録されている美術商の多さは私にしてみれば本当に星の数に匹敵した。


 まるでしらみつぶしをするように一人一人に私は絵画を売り込んだ。


「お断りよ」

「だめだね」

「こんなの売れないよ」

「聞いたことない作家だ」

「未亡人? 私は君の方が価値があると思うがね」

「不気味な絵だ」

「売れない」

「魅力がない」

「売れない」

「売れない」

「売れない」

「売れない」

「売れない」

「売れない」


 誰も見向きはしてくれなかった。

 歯噛みする毎日が砂山のように積もっていく。真冬の空気に心が晒され続ける苦しみを感じた。義兄はこんな思いをしていたのか、いや作者である義兄の受けたショックはただの義妹の私には想像もつかない。そう思って挫けることはなかった。


 そ私は何度も何度も、色とりどりの眼を真剣に見つめた。


 しかし、そのどれもが私と夫と義兄を侮るかのように笑うのだ。

 いくつかは揺らぐことがあっても決定打にかけてすぐさま逸らされてしまう。


 私は納得がいかなかった。

 義兄が人生を掛けた絵なのだ。

 夫が売れると言った絵なのだ。

 私の人生を変えてくれるかもしれない絵なのだ。


 この特別性が分かるのは私だけじゃないはず。


 私は家に戻って手紙を食卓の上に並べた。

 そこに記載されている情景、知識を余すことなくもう一度読み込む。


「ウィレム、あなたは一体どんな人だったの? あなたの人生を、歩みを、魂を教えて……!」


 黄金色の実りを迎えるトウモロコシと夏空。

 頭を垂れる豊かな小麦が農夫の鎌で収穫されるところ。

 美術家の友人とともに酒を飲んで語り合った夜の居酒屋。

 もの言わず思い思いに顔を向ける向日葵。

 精神病棟の外に広がる景色を妄想して描いた教会の見える夜空。

 父の死。

 弟の仕事。

 外国の文化。

 振られた恋。


 ウィレムをもっと深いところで理解する。

 もう私の中にいるウィレムは生前の平面的で頑固だと思われていた彼ではない。

 時に寛容で、時に憤り、時にがさつで、時に慈悲深く、時に嫉妬深く、時に悲観的で、時に孤独で、時に柔和で、時に自己犠牲的。


 彼の表情はたった一つでも、四つでもない。

 ずっと滑らかで柔らかで絹のように繊細で、ずっと太陽のように暖かだったのだ。


 あなたをきちんと知るべきだった。


 その悔恨とウィレムの絵画を理解する喜び、相反する二つが私の手を突き動かし、ペンを走らせた。


 そうして私は一冊の図書を編んだ。


 もうその頃にはウィレムとテオが死んでから二年が立っていた。

 無力に泣きわめくしかできなかった赤子が少なからず人の言葉を話すくらいの時間をかけて私は彼が生前にどれだけの力と心を犠牲にして絵画を描き続けたのかを説明する解説書を出版した。


 最初、それは売り込みをするための自分用の解説書だった。

 しかし清書していくうちにその内容は洗練され、アピールの度にどういった内容が刺さるかも分かるようになった。ウィレムの人生は多くの評論家に刺さった。彼の人生、彼を取り巻いた人々の話は絵を油絵具以上に分厚く補強した。


 一人の画商が悟った。歴史の灰に埋もれていくこの作者の才能を発見しなくていいのかと。

 画商にとっての喜び。それは有名な絵画を取り扱うことだけじゃない。

 自分の手で才能を発掘すること、自分の審美眼を世間に認めさせること。

 その一点において私と画商は全く同じだった。

 そして、ついに私と同じ審美眼を持った画商に出会った。


 更に本を出版したこと伴って彼の絵は世間にも再評価されだし、一度動き出した車輪が加速して走り出すように瞬く間に彼の絵は売れた。


 世界にウィレムの絵がとうとう認められたのだ。

 苦節二年の時を超え、ようやく私は自身の信仰ともいえる努力が報われたように思った。神の御手がとうとう私たちの聖火を取ってくださったのだ。


 かつて私たちを馬鹿にしたブローカーたちも手のひらを返してウィレムの名前を偉大なる芸術家として呼称する。そして、テオのこともまた偉大なる兄を支えた聡明な画商として讃えられるようになった。


 私自身は名誉を求めたわけじゃなかったが、それでも私の中にあった罪悪感は彼らの名を街角で聞くたびにゆっくりと春の温かさに溶ける雪のように流れていった。


 そうして私とテオの家も、ウィレムの絵画も私の手を離れてあるべきところに旅立っていった。

 オランダの田舎で、深緑の屋根と向日葵色の壁でできたアーモンドの香る家に今は住んでいる。

 当分私が食い扶持に困ることはない。

 それもウィレムとテオのおかげだった。

 彼らは最後まで私たちの人生を見守ってくれている。

 手紙を読み返すたびに、彼の絵を見るたびにそう思った。


 広く感じる部屋の中で今は息子とともに広い広い壁に掛けられたアーモンドの芽吹く絵に見守られながら日常を過ごしている。


「僕も大きくなったらウィレム叔父さんみたいな偉大な画家になれるかな……?」


 時折、息子はひまわり畑にイーゼルを立てて私の肖像画を描いてくれている。まだつたなくて光の加減もままならないけど、きっと彼ならウィレムとは違う絵を描いてくれると信じている。


「えぇ、きっとね」


 青空に向日葵が立ち上る。

 太陽の方なんて見ずに色々好きな方を見て立ち上る。




 

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