第三話
誰もいない書庫へたどり着き、一人で室内を整理していく。
広い書庫は静かで、夜叉が出るような雰囲気はとても感じなかった。
「夜叉なんて、京さんこそおかしな話に怖がってるじゃないですか」
気の強い彼らしくない様子に、くすりと笑う。
だがそういう雛子こそ、ここへ来た初日は幽霊でもいるのかと怖がっていた。
誰もいなかったはずだと勘違いして、急に物音が聞こえてきて足音が近づいてくるということに震えていたのはちょっと恥ずかしい。
あの足音が、本当は夜叉のものだったりして。
なんて考えて、京を驚かせてやろうかなんて企んだりしてみる。
鬼神というと、修一郎のことを思い出すようだった。
修一郎は周囲から戦う姿は鬼神のようだと称されていたことからだが、実際はその評判がどこから来るのか分からないほど親しみやすい青年だ。
もしかすると、雛子にはそういう姿を見せないだけで、実戦では恐ろしいのかもしれない。
(でも、それはそれで見てみたい……)
整理整頓のできない鬼神。
考えてみるとなかなか興味深かった。
そもそも、機関は物の怪、つまりあやかしと呼ばれる存在とは敵対していない。
もちろん、人間に害をなすような悪しき行為は取り締まるが、昔のようにそこいるだけで根絶やしにするようなことはしないのだ。
機関が祓うのは、怪異と呼ばれる存在である。
人間の負の感情が素で生まれる穢れや呪詛といった存在が、力を得て人々の命を脅かす存在に成り果てたものを怪異という。
古い歴史を持ち、それぞれが独立した姿を持つあやかしたちとは成り立ちも性質もまるで違うものだ。
そして怪異は時としてあやかしを喰らって力を奪うようなこともする。
そのため、敵の敵は味方という言葉があるように、あやかしと人が協定を結び、怪異を祓うことをしている。
機関の本部にも時々あやかしが幹部との会合のために訪れるので雛子も何度か姿を見たことがあるが、彼らの姿は普通の人間と変わらなかったり獣の尾がついていたりと様々であった。
夜叉というのだから、書庫にいると噂される夜叉も、恐ろしい形相で頭には角を生やした大男だったりするのだろうか。
(そうだとしたら、ちょっと邪魔かな……)
何せここはものが多い。
書斎や応接室が設置されていたり、壁一面にはぎっしり本棚が並んでいたりと、鬼が暴れられるような空間は見当たりそうもなかった。
修一郎にも夜叉の話を聞いてみたい。
書庫の主である彼なら当然知っている話だろうが、これについてどう思っているのだろうか。
「修一郎さん、いつ帰ってくるのかな」
長引けば明日も戻らないと言っていた。
今どこでどんなことをしているのか知りたい。
祓い師として最前線で活躍する姿を、鬼神と称される姿を自分も見たいと思ってしまう。
「かっこいいんだろうな……」
ふと、呟いた言葉に慌てて口を閉ざす。
雛子は恋を知らないが、自分がそれに近しい感情を修一郎に抱いているのでは無いかと、この頃気がついた。
相手は上司。孤高の祓い師だ。
いくら普段近くで過ごしているからといって、雛子のような新人が夢を見るには遠すぎる立場の相手だろう。
だがそれでも、時々、あの優しい声を思い出しては得も言われぬ気持ちを胸に抱いてしまう。
「……だめだめ」
恥ずかしくなってきて、甘ったるい思考はなんとか振り払った。
しかし、その雛子の努力とは裏腹に、見つけるのは修一郎に関するものばかり。
「あ。これ、修一郎さんから教えてもらった……」
偶然手に取ったのは、修一郎から符術を教えて貰っていた時に使った本だった。
雛子は今まで見たことがなかったもので、本自体の古さから察するに恐らく貴重なものであるのだろうが、修一郎はそんなことお構い無しに好き放題扱っている。
これはもう書庫室の特権というやつだろう。
「確かこれも参考にしてみろって言ってたなぁ」
その隣にあった古い本もぱらぱらと捲ってみる。
「『異端傀儡呪詛録』……?えぇ、なんですかこの怖い書名は」
本当にこれが参考になるのか……?と疑いつつも読んでみるが、なかなか興味深い。
呪詛について綴られているが、主な内容は禁忌とされた呪詛や危険なものばかりだ。
だが、祓いを学ぶ学舎では到底知ることが出来ないような深入りした内容で、中には人ならざるものに対する効果的な符術も書かれている。
「こんなの見たことありませんが……著者独自の式でしょうか。でもこっちは、九式の符ですかね」
護符には製作者の癖が顕著に表れると、修一郎が語っていた。
単に書き方の問題ではなく、特定の種類の護符に必ず同一の印を用いているというようなことだ。
そういうものを探し、取り入れられる手法を学ぶことが必要である。
雛子はいつの間にか、掃除の手を止めて本に熱中していた。
───────次に気がついたのは、それから随分あとのことである。
「……!?」
ぱちり。
瞼を開けば、目前には本棚が。
いつの間にか眠ってしまったのか、床に倒れていた。
体を勢いよく起こしてから、頭の痛みを感じ顔をしかめる。
「今、何時……!?」
室内は異様な暗さで、カーテンが半分ほど空いている窓からは月明かりが差し込んでいる。
まさか本を読みながら眠ってしまい、そのうえ何時間も床に寝そべっていたなんて信じられない。
それも、『異端傀儡呪詛録』などという年頃の少女にはあまりにも相応しくない本を読みながら、だ。
「こんな失敗をしてしまうなんて……。恥ずかしいです、修一郎さんがいない日でよかったぁ」
雛子は足を止めた。
何かいる。
良くないものが、すぐそこにいる。
「……っ!」
携帯していた護符を取り出そうとした瞬間のことだった。
雛子の肢体は硬直し、動けなくなる。
見えない糸に体を絡め取られるような感覚だった。
糸は雛子の手足をきつく締め付けて、一歩たりとも動かさせない。
このような術を雛子は知っているが、これは怪異相手に使うものであって、間違っても人を拘束するような用法は禁止されていたはずだろう。
(どうしよう、動かない!)
体を封じたのなら、あとは心臓をひとひねりでもしてしまえば、雛子ごときの弱い娘など簡単に殺せるだろう。
このままだと確実に死ぬ。
助けを呼ぼうにもこの明らかに異様な空間は結界が貼ってあり、扉の硝子の向こうは曇っていて何も見えない。
切り離されたのだろう。
雛子の声は届かないし、そもそもこんな時間にわざわざ西棟二階の最奥を通る人などいないので、異変に気づいてもらえることもない。
一体誰がどんな目的で術を雛子に使ったのか、皆目見当もつかないが、雛子に危害を加えようという意思だけは分かる。
(誰から……!誰か、助けて!)
宵闇に包まれた静かな書庫。
首元を、冷たい何かが這いずる感触がする。
一体誰が。
何の目的で。
機関内で術を人に使うのか。
そしてそれが、なぜ雛子なのか。
たくさんの疑問が浮かんでは、声にならない悲鳴になって消えていく。
だんだん呼吸も荒くなり、震えも止まらない。
ああ、もうだめだ。
せめて最後に、彼の声が聞けたのなら。
無能な己を呪いながら、雛子が目を閉じて思い浮かべた相手は、修一郎だった。
「……修一郎、さん、っ」
苦しみながら名前を呼んだ、その時。
「───────雛子」
硝子の碎けるような音が聞こえた。
都合のいい夢を見ているのかと、そう思った。
ふわりと体を優しく抱きとめられて、全身の力が抜けていく。
すぅっ、と胸の苦しみが消えていって、呼吸が楽になる。
知っている声、香り、顔。
けれど、その姿は人ではなかった。
瞳は柘榴のように赤く、尖った爪に頭には角が生えている。
口元からは鋭い牙が覗いていた。
同じ衣装に、同じ顔。
けれど、それは明らかに人と言うよりと鬼で……。
「雛子」
もう一度名前を呼ばれる。
心配そうな表情で、雛子の頬に手を当てた。
以前もこんなことがあった気がするが、その時とは違い、雛子の体を支える修一郎の手には熱があった。
「修一郎さん……」
修一郎の腕の中にいたいのに、その一方では彼に恐れを感じている。
一体この姿はなんだというのだ。
まさか本当に、書庫には夜叉がいたと……。
「……っ!」
混乱する雛子に、修一郎はなんの前触れもなく、口づけをした。
唇に触れた柔らかな感触と熱は、雛子が初めて知るものだった。
至近距離で見つめられて、その赤に魅入られてしまう。
驚く雛子を置き去りに、ゆっくりと修一郎の唇が離れていく。
その時、修一郎が耳元で囁いた言葉を聞いて、雛子は戦慄した。
『愛しい……愛しい雛子』
この言葉を、雛子は夢で毎晩聞いている。
何度も何度も、気が狂いそうなぐらいに同じことを言われ続けてきたはずなのに、どうしていつも目覚めるも忘れてしまうのだろうか。
「どう、して……」
毎晩雛子の夢で会いに来る男は、彼だ。
この鬼の姿をした修一郎こそが、雛子の名を呼び愛を囁く人の素顔だった。
「そうだな、少し休むといい」
「あ、っ……」
修一郎がそっと雛子の目元に手をかざすと、それだけで雛子の意識はすっと遠のいていった。
最後に見た修一郎は、鬼だというのに、いつもと何ら変わりない優しい表情をしていた。