第一話
「ようやくお目覚めかな……愛しい俺の花嫁」
誰かの声が聞こえる。
知らないはずなのに、甘やかな優しい声が心地良い。
「愛しい……愛しい、雛子」
なぜ私の名前を知っているの。
あなたは一体誰なの。
どうして、私を呼ぶの。
──────────────
「書庫室の鍵、ですか……?」
しゃらり。
そんな音を立てながら、手渡された古い鍵を受け取る。
「そうです。あなたには現場よりも書庫の管理を手伝って欲しいと思いまして」
「で、ですがそれは、私でなくともできる仕事では……」
「あなたでなくてもできる仕事ならあなたもできますよね。これは決定事項ですから。詳しいことは書庫室にいる綾代さんに聞いてください」
ぴしゃり、と冷たく言われてしまい会話は強制的に終わる。
雛子は、渡されたばかりの鍵を絶望的な気持ちで握るしかできなかった。
少し錆び付いた古い鍵。
この帝都怪異対策特務機関の本部にある、書庫の鍵だ。
禁書や貴重な資料が納められているらしいその書庫は、現在は一人が管理しているらしい。
しかし、その人物から多忙を理由に手伝いが欲しいと募集がかかった結果、雛子に白羽の矢が立ったというわけだ。
「そ、そんな……第六部隊編入のお話はどこへ……」
乙村雛子は、機関に所属する新米の祓い師であった。
古都で祓い師として活躍する兄に憧れ、帝都で機関に入った雛子だったが、現実は厳しいものだった。
立派な祓い師になり怪異を祓うことを決意する雛子だったが、まだ齢二十歳にも満たない少女がどれほど結果を出したところで、何も残らない。
女が前線で戦うなどもってのほか。
そういう古くさい考えの上司たちにとって、雛子の努力は認められないものだった。
華族の令嬢でもなんでもなく、ただ兄が有能なだけの娘など、上層部にとっては塵芥と変わりない。
つい先日ようやく第六部隊編入の決定がされたばかりだったのに、こんなに早く手のひらを返されるだなんて。
「書庫の管理のお手伝い、か……」
確か、綾代修一郎という名の男性が管理していると聞いた。
雛子のような下っ端には面識のない相手だが、書庫の管理の傍ら、祓い師として活躍している人物であるということは知っている。
鬼神のような戦いぶりで、その力は恐るべきものだと。
一方で、人と関わることをあまり好まず、実力があるにも関わらず書庫に籠り、単独で策戦に参加するという面もあるらしい。
怖い人でなければいいなぁ、などと考えつつ書庫へ向かう。
書庫は西棟二階の一番奥。
少し遠いが、これから毎日そこへ通うことになるのだ。
配属されてしまった以上、頑張ることしかできない。
綾代修一郎は先輩の祓い師であるから、学べることもあるだろうし、ここで功績を立ててもう一度第六部隊編入を願い出るのも一つの手だろう。
「失礼します……」
そっと声をかけながら古びた扉を開けるが、返事は中から聞こえてこない。
鍵はかかっていなかったが、人がいるようには思えないぐらいの静けさだ。
書庫なので当然だが、室内は本で溢れていた。
資料があちこちに積み重ねられ、今にも崩れてしまいそうだ。
「誰も、いない……?」
一通り室内を歩いてみたが、人のいる気配がしない。
綾代氏はここにいると言われて来たのに、肝心の本人は不在なのだろうか。
しかし、探しているうちに他の部屋に繋がっていると思しき扉を発見した。
もしやこの先にいるのでは、と扉に手をかける。
ゆっくり開いた扉の向こうには、誰かの書斎のような部屋があった。
机には紙類や本が山積みで、よく見れば書きかけの報告書が放置されたりしている。
壁一面の本棚にはぎっしりと本が詰まっており、祓い師に関する書籍や外国語の本まで、分野を問わず揃えられている。
綾代修一郎は相当な博識なのだろうか。
この分厚い辞書なんて、雛子の手には収まらないほどだ。
ちょっとした探検のような気分で、修一郎を探しながらあちこち歩き回る。
「書庫の管理も、案外楽しそうなのかもしれませんね……?」
雛子は掃除が好きだ。
丁寧に隅々まで掃除をして綺麗になった様子を眺めると達成感を得られるし、なにより無心で作業ができるのが好きだった。
この掃除しがいのある有り様を見る限り、雛子が暇になることはないだろう。
その時のことだった。
カタン……───────。
物音が聞こえる。
足音のようなものが近づいてきた。
「ん……?」
ふと、視線を感じて振り返るが、そこには誰もいない。
なんだか、誰かに見られている気がする。
途端に背筋に震えが走った。
このところ、奇妙な夢を見るのだ。
知らない誰かに名前を呼ばれ、愛を囁かれる奇妙な夢を。
最初は遠いところからだった。けれども、その姿はだんだん近づいてきて、昨夜は触れてしまいそうぐらいで……。
修一郎にまだ会えていないのに、急激に出ていきたくなった。
足音はどんどん近づいてくる。
このままでは、この書斎を出て書庫の扉へ向かう際に鉢合わせてしまうだろう。
であれば、一か八か、近づかれる前に逃げ切ってしまえ。
バンッと勢いよく扉を開けて駆け出そうとする。
その瞬間、目の前にあった何かとぶつかった。
「わっ!」
「……大丈夫か、気をつけなさい」
聞こえてきたのは、低い落ち着いた声だ。
雛子がぶつかったのは、物ではなく黒髪の青年だった。
もしや、先程の足音は彼のものであったのだろうか。
勝手に怯えて暴れて、少し恥ずかしい。
青年の着ている黒い衣装は機関の部隊に所属する祓い師に支給させる制服だ。
雛子にとっては憧れの衣装でもあるそれを着ているということは、祓い師であり不審者などではない。
「怪我はないか」
そっと雛子を抱きとめてくれていた手を離す。
「はい、申し訳ありません……」
青年はよく見ればとても整った顔立ちをしていた。
涼し気な目元が雛子の顔を覗き込んでいる。
兄と同じくらいの年頃だろうか、初めて見る人だった。
「それで、ここへはなんの用で?」
「あ、えっと、この度書庫へ配属された者なのですが、綾代修一郎さんを探しておりまして」
そこまで言ってから気づいた。
もしやこの青年、綾代修一郎本人ではないかと。
「そうだったのか。俺が綾代修一郎だ。では君が、乙村雛子さんか」
やはり思った通りだった。
が、雛子は即座に頭を抱えたくなった。
勝手に入った上に上司である修一郎にぶつかって騒ぐような真似をするとは、予想外の失態ばかりだ。
「は、はい。乙村雛子と申します。これからよろしくお願いします」
「すまないな、このところやけに忙しく、どうしても手が足りなくて。適当な所から暇な人を寄越してもらうつもりだったのだが、君のような若手が来るなんて思わなかったんだ」
左遷されたと思っていたが、どうやら雛子がここへ配属されたことは修一郎にとっても不本意なものであったようだった。
「本当はこんなところで俺の手伝いよりも、実戦がしたいだろうにすまないな」
まさに雛子が思っていたことを言い当てられて思わず焦る。
「い、いえ!そんなことはありません、どのような仕事でも全力で努めさせていただきます!」
「そうかしこまらなくてもいい。こんなところで立ち話もなんだし、茶でも飲んでいってくれ」
修一郎はにこやかにそう言って、雛子を来客用の応接室へ連れていく。
書庫の入り口付近にあったものだが、書斎に応接室と、西棟の一番奥を占領しているだけあってなかなかの広さだ。
影では物置なんて言われていたりするが、山積みの書籍たちを除けばなかなか素敵な場所だろう。
「ここは、本当に綾代さんがおひとりで管理なさっているのですね」
「ああ。貴重な資料があるとはいえど、そう人手がいるわけではなかったからな。しかし、この所現場に駆り出されてばかりでロクに片付かなくなってしまって」
そう苦笑いしつつ、わざわざ手ずから茶を入れてくれた。
馴染みのある茶の香りで、少し緊張もほぐれてきたようだった。
「それより、名前で呼んでくれ。これから毎日顔を合わせるんだから、もっと気楽にしてくれ」
「で、では……修一郎さん、と」
修一郎は雛子に名前で呼ばれて、うんうんと満足そうに頷いている。
祓い師としては一級で、戦う姿は鬼神のようだと称される彼は、話に聞くよりも穏やかで気さくな人なのかもしれないと分かった。
人嫌いだという話も、こうして向き合うとそうは思えない。
なにより、女学生とほとんど変わらない見た目の雛子に対しても親切なのがとても嬉しかった。
「そうだ、符術の修練は上手くいっているか?分からないことがあったらなんでも聞いてくれ」
「本当ですか!ありがとうございます!」
そう喜んでから、はたと気づいた。
「……あれ、私が符術の勉強をしてるって、言いましたっけ」
「いや、以前の演練で君を見かけたことがあってな。体力はそこまでだが、符術に関しては見込みがあると思って、少し調べさせてもらっていた」
なんと。
自分の知らないところで評価されていたなんて。
雛子は祓いを行う際は、符術を主として使用している。
祓い師それぞれにより使う術はあるが、雛子は護符を操る符術が得意なのだ。
「なかなか将来有望な人材で、俺が育てたいと思ったぐらいだぞ」
「きょ、恐縮です……!」
まさか修一郎のような人にそう言って貰えるだなんて、これほど嬉しいことがあるだろうか。
「部隊に所属できなかったのは残念だろうが、ここでなら俺の指導を直接受けられるという点では良かったかもしれないな。こう見えても歴は長い。君の良き手本になれるとおもうのだが、どうかな」
あまりの衝撃に、雛子は固まってしまった。
つまり、修一郎からの祓いを習わないかというお誘いを受けているということになる。
普通ならありえない事だ。
それも、女子だからという理由で不遇な扱いを受けてきた雛子にとっては夢のようなことである。
「いいんですか……?」
「もちろん。部隊に所属するよりも、良い経験をさせると約束しよう」
修一郎は自信たっぷりに微笑んでみせた。
こんな千載一遇の機会を逃す手はない。
書庫のお手伝いのはずが、こんな機会に恵まれるなんて思いもよらなかったことだ。
「では、明日からよろしくお願いします!」
「ああ。俺も楽しみだ」
雛子はもう、期待に胸をふくらませるばかりであった。