表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

淀んだ水

作者: 図科乃カズ


     1


 ふう――止水香織しすいかおりが溜め息をついたのは総務課の女性先輩から嫌な仕事を押しつけられたから、だけではなかった。


 香織が見下ろす階段は非常灯だけが足元を照らす。先には薄黒く汚れた廊下の床がぼんやりと見える。彼女の手に届く位置にスイッチがあったが、隣にはご丁寧に「節電にご協力を。総務課」と張り紙がある。女性先輩の蟷螂かまきりのような顔がちらつき、伸ばしかけた指を止めると覚悟を決めて階段を下り始めた。


 コツコツコツと、小柄な香織に続いて大きな跫音きょうおんが続く。廊下に降り立ち先を見ると、薄暗がりの奥に目的の倉庫の扉がある。そこまでの30メールを進んで中に入りさえすれば自動で灯りが点く。


 小走りで鉄扉にすがりつくと急いでノブを回す。ガチャガチャとむなしい音を立てるだけで開かない。気づいて事務服のベストのポケットから鍵を取り出して扉を開ける。


 天井の探知機が2回点滅すると香織の視界を光が覆う。扉を背にし、香織はもう一度溜め息をつくと次に呼吸を浅くしてなるたけ空気を吸い込まないようにした。それでもごくわずかの間にあの臭いが鼻腔へねっとりと張り付く。


 よどんだ水が発する腐臭のような。水が生きているわけがない、その中で産まれて死んだ何かが存在を示さんがためだけに作り出したような不快な生臭さ。倉庫に充満したそれが地下の廊下にまでじわじわと滲み出ているように思えてならない。


 地下室の下には湧水槽ゆうすいそうがあるんだ、と流田行哉ながたいくやが教えてくれたのは4ヶ月前。新入社員の香織に社屋を案内してくれたのが同じ総務課の行哉だった。だから地下は少し匂うかもね、とも言った。


 自分だけなのかもしれない。香織にとってこの臭いは、少し、ではなかった。しかし、行哉は大して気にしている風でもなく、課長からも女性先輩からも臭いの話は出てこなかった。地下室は暗くて怖いから余り行きたくない、それだけだった。


 スカートのポケットからハンカチを取り出すと口に当てて倉庫の中を見回す。灯りに目が慣れてくると灰色のスチールラックが整然と並んでいるのが分かった。1つ1つラックに貼られている収納品の分類表示紙も乱暴に放り込まれただけの段ボールも、表面には幾つもの染みがあり湿気に浸食されて小さく波打っている。


 ラックの間を通り、香織は「防災備品」の表示の前で足を止めた。上から順に段ボールを見ていくと下段に「ラジオ」と書かれた段ボールを見つけることができた。


 あなたが防災備品担当ね。これ備品リスト。明日の朝一に専務が見たいって、と女性先輩が仕事を押しつけてきたのは今日の終業時刻直前。彼女はいつもこの方法で香織を追い詰め、指示したこともできない新人、仕事の遅い新人、能力に問題のある新人、と課長に報告する。それが悔しくてひとり残業をしてでも必死にこなし続けていたのだが。


 ハンカチをしまって段ボールから1台1台ラジオを取り出す。大型の懐中電灯のようなラジオはスイッチを入れてつまみを回してみたが反応がない。小型で四角形のラジオは丸いボタンが4つだけのシンプルなデザインで操作方法が分からない。ランタンの形をした機器も出てきたがこれがラジオなのかLEDランタンなのか判断がつかなかった。


 額から吹き出た汗が前髪を張り付かせて不愉快な気分にさせる。ゴーッと回り続ける空調機の音が耳に入り込みその感情を倍増させる。そして意識しないようにしていても拭えない腐敗した水のような臭い。


 いい加減にして段ボールごとオフィスに持ち帰ろうか。そう考えた香織の指先にコツンと何かが当たる。段ボールからゆっくりと腕を引き抜くと、右手は細長い機械を握ってた。黄色を基調とした直方体のそれは、長辺が極端に長く、表面にアナログの選局指針とつまみ、裏面に灰色のハンドル、側面に伸縮アンテナ、頂点にライトが付いている。


「普通の、ラジオ、だよね?」


 あえて声に出したのは掴んだのではなく掴まされたような気がしたからだ。何度か角度を変えて観察するも不審な点は見当たらない。


 少し考え、香織はハンドルを回してみることにした。これで稼働すれば自分の仕事が終わる。


 はじめ、ハンドルは右に回そうとしても左に回そうとしてもピクリとも動かなかったが、諦め気味に溜め息を吐くと急にハンドルの抵抗がなくなった。


 ジージ、ジージ、と発電機が発する振動が香織の手に伝播する。無言で回しているとここが地下1階の倉庫だと改めて思い知る。4階建てのこの自社ビルでこのような時間まで残っているのは自分だけだろう。しかもこんなジメジメとした仄暗い地下倉庫なんかで。


 バチッ、と音を立てて蛍光灯の1本が明滅めいめつした。


 振り仰ぐとそれは入口の反対にある西側天井の蛍光灯だった。その蛍光灯が消えるたび、天井と壁の接点――入隅いりすみに暗がりが生まれる。繰り返されるごとにそれは輪郭がはっきりとしていき、陰湿な闇となっていく。


 香織が闇から目を離せないでいると突然、ラジオからノイズ音が流れた。驚いて手を滑らせると細長いラジオはコーン、コーンと高音を響かせながら床の上を弾んでいく。そしてそのままコンクリートの壁にぶつかりパタリと倒れた。それは闇の真下だった。


 ノイズ音が呼び、蛍光灯の点滅が手招きする。香織は導かれるように一歩、一歩と足を動かす。


 かがんでラジオを拾うと砂嵐のようなザーという音が止んだ。壊れたのかと思い並んでいるボタンの幾つかを適当に押していると。


 ポチャン。水滴が水面に落ちる音がラジオから聞こえた。驚いて手を止めた香織だが、すぐに別の音が彼女の耳に触れた。


 ガリ、ガリ、ガリ。香織の頭上、あの闇がある方向。刹那、強烈な腐乱臭が香織の鼻腔に入り込んだ。


 き込みつつ見上げると、あの闇は染みのように天井から壁へと浸透していた。いや、そうではない。蛍光灯が瞬き薄明かりができるごとに、その闇はコンクリートに爪の音を従えながら下へ下へと這いずっていた。


 その間、香織は身動きひとつ取れずに――視線すらそらすことができずに闇がうごめくのを見ているしかなかった。


 ずるりずるり。十数回の明滅の後、闇がラックの裏へと入り込む。


 ずるり。闇のふちまでもがラックに隠れると蛍光灯の明滅がんだ。


 蛍光灯のブーンという微かな動作音が戻ると共に、香織はその場にへたり込んだ。




     2


「ふーん、そうなんだ。ところで次のデートなんだけどさ、俺の家はどう?」


 流田行哉ながたいくやの予想通りの返答になんの感情もわかないことに止水香織しすいかおりは内心驚いた。それでも何も言い返さなかったのはわずかな可能性にすがろうとしていた自分を思い返して恥じたからだ。昨夜、地下室で見舞われた怪異な現象も当事者でなければこのような捉え方なのかもしれない。自分の勘違い、いや、そんなはずはない。行哉とは見えているものが明らかにずれているのだ。


 思えばどうして行哉とつき合うことにしたのか。社会人になった寂しさにするりと入り込まれたからだろうか。かつ丼の最後の一切れを肘をついて猫背で食べる行哉を冷めた目で見ながら思った。


 翌日、相談を持ちかけた香織に行哉は昼休みに外で聞くと言った。外、とは駅前に一軒しかない定食屋のことだ。都市部から3駅ほど離れたここは、駅前に農機具修理や眼鏡・時計、和菓子などを取り扱う商店が数軒、駅裏は開発途中で頓挫したバスロータリーだけがある。駅前の道をまっすぐ10分ほど歩けば香織たちの社屋へと辿り着く。


 油で黄ばんだエアコンが吐き出す生暖かい冷風を能面顔で受け続ける香織に気づいた行哉は、外で鳴き続ける蝉よりも慌ただしく言い訳を始めた。話はちゃんと聞いていた、地下室のことは思い違いだ、自分は勤めて3年そのような経験一度もないなどといろいろ口にしたが、香織の目が冷たいままだと分かると、行哉は空気を変えようと今朝の出来事を口にした。


「それにしても専務のあの取り乱しっぷりは笑っちまうよな。ちょっと足をひねっただけなのに、やれ死ぬー、救急車を呼べー、て」


 そうだ。件の専務は出勤中に足を滑らせ捻ってしまった。会社の近くだったということもありすぐに課長がハイヤーを呼んで隣町の病院へと搬送した。午前中にそのような騒動があったので実施されるはずだった防災用品の点検は明日に延期されていた。


 ぎこちないふたりの様子を見ていた女将が隙をついてふたりのトレイを下げる。香織が愛想笑いを浮かべて会釈すると、機嫌が直ったと勘違いした行哉が愛想を振りまく捨て犬のように上目遣いで笑う。その卑屈な笑みに嫌悪感を覚えるようになったのはいつからだろうか。


 香織が眉間に皺を寄せたことに気づかなかった行哉は、コップの水を一気に飲み干すと手に付いた水滴をワイシャツの端で拭いながら話を続けた。いつも通い慣れた道で転倒するなんて専務も年だねに始まり、最近は孫の写真ばかり見てて仕事の指示も危うい、社長も二代目息子で会社のことが分かっていないへと繋がるいつもの愚痴だったが、ある言葉が香織の耳にこびり付いて胸騒ぎを起こさせた。


「ああ、会社の裏手の坂だよ、会社まであと少しってところで転んだって。専務の家は高台の方だから」香織の問いに行哉は当たり前のように答えた。


 入社した時の、社屋を案内してくれた行哉の言葉がよみがえる。


 下り坂の斜面を削り取って建設された社屋は、高台側は地上階といえども半地下のような湿り気をはらみ仄暗さが漂っている。じめりとしている理由はそれだけではない。雨が降れば高台の雨水が地中を伝い下方へと流れ落ちるがその到着点にはこの建物がある。通常、どのビルでも湧水槽ゆうすいそうを設けて雨水や地下水を貯留、排水するが、このビルはそうした地理的状況から他のビルより大きな湧水槽ゆうすいそうを持っている、と。


 ゴボ、ゴボゴボ。水が揺れ動いたような突然の音に驚き仰ぎ見る。見ればエアコンから異音だった。


 あまりにも切羽詰まった顔をしたせいか、視線を戻すと行哉がニタニタとしている。馬鹿にしているのかと思ったが、嫌らしい目付きで顔より下を見ていることに気づいた香織は、無意識のうちに食台に乗せていた胸を抱えて姿勢を正した。残念がる顔を隠そうともしない行哉だったが、香織にじろりと睨まれると慌てて話題を変えた。


「あの坂といえば、登り切った先にお寺さんがあったとかなんとか聞いたことがあるよ」


 その言葉に香織は自分の体に流れる血が冷えていくのを感じた。どうしてこの男はこんなにも暢気でいられるのか。今までなんの話を聞いていたのか、行哉にとって自分はその程度なのだろう。チラチラと胸元に視線を送る行哉の頭の中は目に映っているもので埋めつくされているに違いない。


 香織は急に席を立つと財布から千円札を取り出し食台に叩きつけた。


「課長には用事でちょっと遅れますって言って」


 ぽかんとする行哉を見ることなく、香織は足早に立ち去った。





 社屋は東側を向いており、高台はその背後、西側にあった。高台に向かう上り坂は社屋の南側を東西に伸び、辛うじて車が1台通れるぐらいの幅しかない。この坂があることは知っていたが実際に上ってみるのは初めてだった。


 社屋の裏は空地となっており「売地」と書かれた古びた看板が申し訳程度に立っていた。売れるはずなどない。坂道を挟んで南側にある5階建ての社員寮のせいでこの更地に日が当たることは望めそうにないのだから。


 湿り気に満ちた黒い地面には薄気味悪い形をした葉状の苔が群生をなし、湿気と青臭さの混じった臭いが香織の鼻腔を刺激する。そして微かに感じずにはいられない腐乱臭。それは香織が作り出してしまった幻臭なのだろうか。


 咄嗟に顔をそらして小走りに立ち去る。テレビCMで見たことのある企業名の社員寮を左手に見ながら坂を上ると畑や更地や雑木林が続く。社屋近くでは聞こえなかった蝉の声がいつの間にか耳に入ってきた。


 10分ほど歩いただろうか。じりじりと照りつける太陽から逃げるように香織は木陰に身を隠す。胸元に汗が流れるのを感じる。


 額に流れる汗を押さえるように拭きながらここが坂道の終着点、高台を走る県道に出てきたことを理解した。県道とはいってもセンターラインもない一車線道路に過ぎず、側には民家と畑しかない。行哉の話ではこの辺りに寺院があるとのことだったが。もし本当に近くにあったとするならば香織の目に入ってもおかしくない。


 見渡すがそれらしいものはない。代わりに少し行った先に駐在所があるのが分かる。透明な碧空に浮かぶ太陽の下、ナスやキュウリ、トマトが実る夏色の世界に白く細長い建物がぽつりとあるのが不思議だった。


 近づいて中をちらり見てみたが誰もいないようで薄暗い。周辺の地図でもないかと掲示板を見てみたが、色あせた指名手配犯のポスターが数点あるだけだった。もしかすると中に貼り付けてないかともう一度入口から薄暗い中を覗き込んでいると。


「なんかようかい?」


 しゃがれた男の声に驚いてふり返ると、くたくたになった夏服を着た警察官が自転車から降りたところだった。慌てて頭を下げると警察官は気にする風でもなく自転車を入口近くに止めて首に掛かっているタオルで日に焼けた丸い顔を乱暴にぬぐった。


 この近くにお寺があると聞いたのですが。香織が目的を告げると警察官は顔をしかめて首を振った。


「そんなもんないよ、この辺にゃ」


 肩を落とす香織をまじまじと見ていた警察官は急に手を叩くと目を細めてひとりうなずく。そして手招きして香織を駐在所の中に案内した。


 駐在所の中は陽光が入り込まないだけで戸外と気温の差は感じない。もしろ空気が沈滞している分だけむわっとした湿度が香織に絡み付く。すまないねえと呟きながら警察官が壁掛け扇風機のスイッチを入れたが、固まった熱気をそのままの温度で拡散しているのを感じるだけだった。


 警察官は机の引き出しから大きな地図帳を取り出すと指に唾を付けながらページをめくる。いくつかめくっていくと目的のページを探し当てたのか警察官の太く短い指が地図上をさまよい歩く。一緒に見ているとその指は鉛筆で四角く囲まれた地点で止まった。その横には走り書きの文字があった。


 ああ! 思わず声が出そうになるのを香織は両手で押さえて飲み込んだ。


「お嬢さん。あんた坂の下の会社の人だろ。その事務服は見覚えがあるよ。桜の頃だったかな。おんなじ服着た人がここに来たんだ。で、その時にこれを書いたのを思い出してね」


 香織の見つめる先――警察官の指の先は彼女の会社の裏側、あのじめりとした空地を指していた。刹那、鼻の奥が淀んだ水が腐敗した臭いで満たされる。


 警察官は顔を上げると口を横に開いて黒い顔の真ん中に白い歯を並べた。


「その人に教わって書き込んだんだよ。ここは昔、墓場だよって」




     3


 休憩時間終了から20分遅れて会社に戻ってきた止水香織しすいかおりは、女性先輩から予想どおりの嫌味を浴びながら午後の仕事をこなしたが、やはり集中することはできなかった。


 坂の上で会った警察官が言っていたのは、この会社の女性社員の誰かが4月頃に駐在所を訪れたということ。その女性も香織と同じように寺院を捜していたようだったが、ひとつだけ異なるのは彼女が墓地の場所を知っていたということだ。かつて墓地があったのは知っている、だから近くに寺院があるのではないか。そのように尋ねたらしい。


 香織はその女性社員についてなんとなく思い当たることがあった。4月に入社した時、香織と入れ替わるように辞めていった総務社員がいた、と。女性社員が退職するまでの2週間、香織は挨拶程度しか言葉を交わさなかった。それでも黒いカーディガンを羽織り、青白い顔に目だけが異様にギラついていてぞっとしたことを覚えている。その時は女性先輩のいびりが原因なのだろうと思っていたのだが。


 その総務社員が墓地のことを突き止めて駐在所に近辺のことを聞きに行ったに違いない。そして会社を去った。名前が出てこない彼女を思いながらそこまで思い詰めた理由を考える。いや、考えるまでもない。理由はひとつしかないのだから。


 仕事の合間に彼女のことを聞いてみようと機会をうかがったが、遅れて戻ってきたことが響いたのか課長にも女性先輩にもうまく話を振ることができなかった。流田行哉ながたいくやにはSNSを送ってみたが、定食屋での分かれ方で機嫌を損ねたのか既読マークは付くものの返事はこなかった。





 地下室から運んできた黄色の防災ラジオがなくなっているのに気づいたのは、後は最終退館をするだけという状態になってからだった。


 明日こそ絶対に点検すると専務に言われたから。退社前の儀式であるかのように急ぎではない仕事を今日中にと押しつけながら女性先輩がひと言付け加えた。午前中に準備を終えていたので抜かりはない。押しつけられた仕事を先にこなし、一段落したところで念のためにと集めた防災備品を見てみると。


 隣の空き机に置いた段ボールに確かに入れたはずだが、中身を取り出し並べてみるとラジオだけがない。慌てて周りを見渡すが黄色い点は見当たらない。机の下を見、引き出しを開け、自分のバッグもひっくり返すが、あの細長い黄色い機械はどこにもなかった。


 もしかして女性先輩がこっそりと地下室に戻してしまったのでは。どろりとした黒い怨恨が香織の心を揺さぶる。帰りしな、わざわざ明日の点検のことを口にしたのも彼女の陰険さを感じる。香織が気づいても気づかなくてもどちらでも彼女の目的は達せされるからだ。


 大きくため息をつくと、香織は小さく椅子に座り顔を覆った。パソコンのファン音だけがか細く聞こえてくる。女性先輩のしたり顔が目の前にちらつく。課長は楽な方を選択するだろうから何を言っても取り合わないだろう。行哉は――事あるごとに自分のアパートに誘おうとする今の彼に頼るなどとんでもない。


 顔を上げた香織はゆっくりと立ち上がる。じわりと、鼻腔に水の腐敗した臭いが滲み出てきた。





 地下1階へ続く階段は社屋の西、高台側にしかない。階段の右手側が高台となるが、改めて見ると非常灯に照らされた薄緑色の壁の表面は微粒子のような水滴が付いているのかぬるりとした鈍い光を反射していた。この壁を隔てた先は地中のはずで、その地表にはあの空地があるはずだった。


 コツコツコツ。小柄だというのに香織の跫音きょうおんが大きく響く。それはこれから地上の生物が地下世界へと侵入することを知らせる警鐘のように思えた。


 地下1階の廊下まで下りると香織は迷わず照明のスイッチを入れた。まっすぐに伸びた廊下が蛍光灯のぼんやりとした黄白色で浮かびあがる。階段と同じ薄緑色の壁にすすけたPタイルの床、その奥の薄暗がりに見える倉庫の扉。そして、じっとりとした湿気が連れてくる水の生臭さ。


 香織は息を止めると足早に奥の扉を目指す。足を進めるごとに徐々に強くなってくる、香織だけが感じる腐敗した水の臭い。おそらく辞めた総務社員の女性もこの不快な腐臭は自分しか自覚していないと気づいたのだろう。


 倉庫の鉄扉は香織にとって見上げるほど高い。灰色の塗装は所々剥げ落ち、むき出しになった金属部分には黒いカビのようなものがびっしりと埋まっていた。改めて見れば、この鉄扉もこれまで連なっていた壁と同じように腐乱臭を内包した細かな水滴によってぬらついているように見える。


 一瞬、体を小さく震わせた香織だったが、もう一度ノブを睨むと鍵を差し込み扉を開けた。逃げ込むように倉庫に入ったが立っている位置が悪いのか天井の探知機が作動しない。苛立いらだってその場で数回ジャンプするとようやく探知機が反応して2回点滅した。


 蛍光灯の黄白色の光が香織の居場所を確保するように倉庫内を照らした。より一層濃くなる腐乱臭はもはやどこが発生源なのかも分からないほど倉庫中に充満している。いや、そうではない。自分だけがそうした感覚でいることを香織はすでに理解している。


 すぐに「防災備品」のラックに向かうと下段の段ボールを引き出し横に倒す。中身を掻き出すように機械を取り出していくが段ボールを裏返しても黄色い機械は現れなかった。


 音もなく香織がへたり込むと蛍光灯のブーンという微かな動作音だけがその場を支配した――はずだった。


 ザー。ラジオからのノイズ音が耳をかする。


 耳障りな音に意識を向ければ向けるほどその雑音は大きくなり、香織の背に覆い被さろうとしてくる。彼女が背を向けている先は間違いなく西側の、あの闇が這いずった壁だった。壁を意識した途端、口の中にまで腐敗した水の臭いが入り込み激しくせ込んだ。


 ラックの柱を握りしめながらヨロヨロと立ち上がった香織は頭だけ動かして視線を背後に向けた。目の端に黄色い点が入る。ゆっくりと体を正面に向けるとあのラジオは昨夜と同じ場所に落ちているのが見えた。


 ラジオから流れる砂嵐のような音がますます大きくなり香織をいざなう。香織は導かれるまま、一歩、また一歩と足を進める。


 バチンッ。


 全ての蛍光灯が光を失ったのとラジオの音が止まったのはほぼ同時だった。黄色い防災ラジオまであと3歩のところ、身をかがめ手を伸ばした時だった。香織の視界が漆黒で塞がれる。


 ガリ。何かがこすれる音だろうか。


 ガリ、ガリ。コンクリート壁を掻いている。


 ガリ、ガリガリ、ガリ。昨夜も聞いた、陰湿な闇が壁を這いずる音。


 頭上にあるであろう入隅いりすみの暗がりから生まれた闇がどこかでうごめいている。耳だけが闇を感じる。その気配は触れるもの全てを撫で回すようしながら左手の方へズルズルと移動していく。


 徐々に目が慣れてきたが、それでも出口にある非常灯の緑色ランプが浮かび上がらせるラックの外郭ぐらいしか見えない。暗がりで満たされた倉庫の中はあの闇にとってどこまでも進むことができる空間なのではないだろうか。


 ずるり、闇が床に降りたことを感じる。


 逃げるべきだ、脈打つ心臓はそう教えているのに香織は指ひとつ動かすことができない。鼻も口も淀んだ水の腐敗臭で満たされ全身が麻痺してしまったのかもしれない。


 闇はもう、すぐそこにいる。唾を飲み込むこともできず、蒸し暑いはずなのに手足を巡回する血液が冷えていくのが分かる。それなのに額から流れる汗は止まらず首筋まで伝う。


 静寂、そして。


 ベチャ、と何かが床に触れる。


 ベチャ、ベタ、ベタ、ベチャ。


 その音は徐々に増えていき、輪となり香織の周りを巡る。香織は這い回る音に何もできず、手を伸ばした姿勢のままただひたすら耐えた。


 カシャン。這い回っていた音が何かを弾いた。


 それは床の上を滑り香織の爪先に当たって止まった。視線を落とすと黄色い塊が見えた。香織はゆっくりと四つんばいになり、目の前にある黄色の防災ラジオに手を伸ばす。


 ラジオを握った瞬間、香織の手首をぬるりとした腐乱臭の帯が巻きついた。


「っ!」


 驚いて腕を振ると、ラジオは香織の手から離れて弧を描きながら闇の中に吸い込まれていった。宙を舞ったラジオは壁にあたるでもなく床に落ちるでもなく、闇の中でひたすら無音だった。


 気づけば這い回っていた音も止んでいる。


 ただ暗いだけの倉庫に戻った――のだろうか。


 カチリ。香織が見つめる先からスイッチの音が聞こえた。


「……この建物……邪魔だ……」



   *   *   *



 翌日、足を捻った専務は今朝になって患部が紫色に膨れあがり緊急入院することになった。そのため本日に延期されていた防災用品の点検は無期延期となったが、出社早々に退職届を提出した香織にとってはどうでもよいことだった。


 しつこく退職理由を聞く課長に一身上の都合で押し通した香織は、自分の席に戻るとそそくさと退社準備を始めた。その様子を見ていた女性先輩が複雑な顔をして近寄ってきたが、先手を打って防災ラジオはまだ地下室にあることを伝えると、女性先輩は明らかに動揺して何か言い訳を始めた。先輩であることを笠に着てこれまで散々嫌味を放言してきたこと思うと滑稽こっけいな姿だったが同情の余地などなく、香織が鼻であしらうと女性先輩はうなだれて自分の席に戻った。


 行哉は自分の席で香織の様子をうかがいつつも決して近づこうとはせず、SNSでただ1通、昨日の喧嘩で会社を辞めるなんて馬鹿だよ、とだけ送ってきた。それを読んだ香織の顔から笑みが零れる。自分の決心は間違っていなかったのだと。


 この会社を辞めればおそらく行哉との関係は自然消滅するだろう。だがそれでいい。もう二度とあの地下室に関わりたくなどなかったのだから。




 社屋を出ると8月の太陽が香織を激しく照らした。それなのに、ここだけは蝉の声が聞こえない。


 鼻の奥にはまだ、淀んだ水の臭いが微かに残っていた。



     了




ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。

初めての短編ホラー、少しでも冷やっとしていただけ

ましたら嬉しい限りです。


もしよろしければブクマやいいね、評価をつけて頂け

ますと次回創作の励みになります。

応援いただけると嬉しいです。

画面下段の【☆☆☆☆☆】よりお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 情景描写が丁寧に書かれてて、引き込まれました。 地下室の怪異より社内の人間関係の方が怖い気がします。 無事に脱出できてよかったです。地下室からも会社からも。
[良い点] こんばんは。野中と申します。TwitterのTLで拝見し、かねてからホラーが読みたかったのもあり、拝読致しました。 日本ホラー独特の陰湿で不気味な感じが文章から伝わってきます。 情景描写が…
[一言] 情景描写がうまいので、想像してさらに怖さが増した。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ