慣性と感性
「落下スピードの低下....物質変換波が作用したわけではないですよね?」
「違うじゃろうな。」
ここからは推論を組み上げる楽しい時間。
だが、ピーマンの残りも少なくなってきた。
確か冷蔵庫に魚肉ソーセージがあったな.....
カレー粉で炒めようか??
おやつじゃなくて食事になりそうだが。
「これはあくまでもわしの勘じゃが、おそらく石は、位置エネルギーを吸収することができるはずじゃ。」
「ええと、ちょっと待ってくださいよ。」
物理の基礎知識を、錆び付いた頭のどこかから引っ張り出す。
「専門用語はやめて分かり易くの。ただでさえ、わしらが出てくる話は理屈っぽくて分かりづらいのじゃから.....」
「誰が言っているんです?」
二人とも酔ってきたようだ。
要するにこういうことだ。
高いところにある物質は、下に落ちることができる「エネルギー」を持っている状態である。この「エネルギー」のことを、位置エネルギーと呼ぶ。
この物質を下に落とすと、地面に近付くにつれてスピードが上がる。
動いているわけだから、この物質は運動エネルギーを持った状態になる。
つまり、位置エネルギーがゼロになる代わりに、その全てが運動エネルギーへと変わるわけだ。
「で、その位置エネルギーを吸収するということは...」
「物質が下に落ちた時の運動エネルギーも小さくなる。じゃからスピードが落ちるのじゃな。」
お分かりいただけただろうか。
ビルの上からビー玉を落とせば、地面にぶつかる時のスピードはかなりのものになる。
だが、位置エネルギーが吸収され小さくなれば、例えば数センチの高さから落とした時と同じぐらいのスピードにしかならないわけだ。
..............................
「で、そこから先の議論が進みませんね。」
「進むのは酒ばかりじゃな。」
二人とも酔いが回り、食べ尽くしたピーマンに次いで、現在は炒めた魚肉ソーセージにマヨネーズをつけて食べている。
魚肉ソーセージを玉ねぎと炒め、醤油とカレー粉で味を付ける。
誰にでもできる簡単レシピである。
空き缶の本数は、とうに数えるのをやめた。
思考は同じところをぐるぐると回り、世界もぐるぐると回り出した。
あれからいくつかの仮説を立ててはみたものの、全て彼女の琴線に触れるものでは無かった。
彼女の直感が、どの仮説も間違いだと告げていたのだ。
ふむ。
非科学的と言われようが、私は彼女の直感を信じている。
科学とは自然界に存在する法則を見付けること。
誤解を恐れずに言えば、神の領域に足を踏み入れること。
それは神の声を聞くこと。
つまりは芸術の一種なのだ。
彼女の直感とは、自然界の法則の持つ美しさが分かるということなのだろう。
「いやあ、照れるのう。美しいだなんて、そんな本当のことを....」
「所長のことじゃありませんよ。」
「....ああもう、やめやめ。やめじゃ。酒が抜けてから考えよう。わしは寝るぞい。」
「どうぞ。その方がいいですね。」
「寝る前にシメのラーメンを食べよう。」
私はずっこけた。
彼女はキッチンの戸棚をゴソゴソやって、大盛のカップラーメンを二つ取り出す。
今朝、出勤前にコンビニで買っておいてよかった。
「私は結構ですけどね。」
「わしが二つ食べるんじゃが。」
....でしょうね。
薬缶にお湯を沸かしていると、今度は冷蔵庫をゴソゴソやっている。
「えーと、卵、卵...と。」
取り出した卵を二つ、テーブルの上にのせた。
「冷えた卵だとスープがぬるくなるからの、まずは常温に戻しておくのじゃ。」
なるほど。
おっと、その前に。
「待ってくださいよ。スープが飛び散りますから、先にデータを片付けましょう。ちょっとこれ持ってて下さい。」
テーブルの上に置いてあった石と卵二つを彼女に渡し、データを片付け始める。
「むにゃ?もうできたのかの?」
「まだです。立ったまま寝ないで下さいよ、落としますよ。」
振り向いてそう言ったまさにその時、彼女の手から石と卵が落っこちた。
「あ、ごめ...!!!」
「!!!」
一瞬、酩酊のせいかと思った。
だがそれは、そこで起こったことは見間違いでは無かった。
石と二つの卵は、ゆっくりと、ふわりと床に降りたのだ。
卵は二つとも割れなかった。
「...分かったぞい...」
彼女の呟きが、はっきりと聞こえた。
彼女の感性が世界を捉えた。
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