読み聞かせの受難
読み聞かせの受難
− 読み聞かせの効能 ー
・子供を本好きにする
・親と子のコミュニケーションの良い機会となる
・子供の感性と想像力を育む
……etc
それはもう随分と昔の話になる。娘がまだ幼稚園に通園させる年齢にも達していない時分の話で、同じようにまだ小さい子供を抱えたお母さん達が集まった、午後のお茶会での他愛のない話題だったと記憶している。
その日最初の話題は、各々が持ち寄ったお茶菓子の話だった。私はあるお母さんが持ってきてくれた、子供と一緒に作れてとても簡単だった、というホットケーキミックスクッキーをかじりながら、このお菓子に合わせる紅茶はこれで良かったのだろうか、と考えていた。
「でね、旦那が本気で怒るわけよ。面倒くさくて、しょうがないって!」
一体何の話かと思ったら、寝る前の読み聞かせの話だった。そのお母さんは、子供が眠る前に絵本を読み聞かせてあげていたのだが、当の子供の体力がだんだんついてきて1冊や2冊読み聞かせたくらいでは眠らなくなってきたらしい。それでも子供が眠るまで延々と絵本を読み聞かせるという力技で眠らせようとした結果、今では十数冊の絵本を抱えて寝かしつけるハメに陥ってしまっているらしい。そして旦那さんが子供を寝かしつける時にも同様に子供から同レベルの絵本の読み聞かせを要求されるため、それに閉口した為のクレームらしい。
「こんなに沢山の本を読み聞かせるから逆に寝ないんだって、やめろって、本気で怒るのよ!」
なんか夫婦喧嘩の情景が目に浮かぶようだな、と思いながら、私のもう一つクッキをつまんだ。やはりこれにはストレートのダージリンが合うなと思った時
「そういえば、私以前に、しゅんちゃんのお母さんから聞いたことがあるわ。しゅんちゃんのお父さんの読み聞かせは、絵本の最初のページと最後のページを読んで終わるって…。」
凄い読み聞かせだ。まさにいきなり最終回、絵本版である。
「ウチもあるわ。その類の話。」とこの話題に参戦してきたのは圭佑くんのお母さんだった。
「ウチの子、電車とか車の絵本が好きなのよね。でね、主人がたまたま圭佑に絵本をよみきかせていたからちょっと覗いてみたら、ストーリーを全部すっ飛ばして、『ウーウー、カンカン』とか『シュッシュッポッポ』とか言ってバンバンページをめくって一冊終わらせていたわ…。」
これも凄い。例えば機関車トーマスならば、トップハム・ハット卿が何の仕事をトーマス達に依頼したのか、ゴードンやパーシー達の仕事ぶりや様々なトラブルも『シュッシュッポッポ』だけで語られるわけである。まあ雰囲気だけは伝わるのだろうが。
母の強力な子守ツールの一つである絵本の読み聞かせは、どうも世の旦那様方にはすこぶる評判がよろしくないようである。とつらつら考えていると、我が家にも同様の話があることを思い出した。
『うさこちゃんとうみ』というお話がある。テレビ番組でもお馴染みのミッフィーさんのお話である。この絵本では主人公の白ウサギはミッフィーではなく、うさこちゃんとなっている。そのうさこちゃんが、お父さんに連れられて海に行き、砂遊びをして、遊び疲れて眠ってしまうという、とても可愛らしいハートウォーミングなお話なのである。
これをこともあろうか、『うさこちゃんの水着が囚人服に似ている』とボソリとつぶやいた夫は、『うさこちゃんの収容所生活』と言って娘に読み聞かせていた。口を縫いつけられて何も食べられない顔面蒼白のうさこちゃんが、おとうさんに海へ連れられて行く場面では、強制労働に無理やり連れて行かれ、着替える場面では、身体検査をされていた。砂遊びをする場面では、穴掘り労働をさせられ、うさこちゃんが疲れて眠り込んだ場面では、また宿舎に連れ戻されていた。最後の場面ではもしかしたら宿舎に連れ戻されるのではなく、うさこちゃんは死んでいたかもしれない。
こんなブルーナが知ったら、卒倒するか激怒するような内容の読み聞かせで育った娘は、さもありなんと言うべきか、今では私の言うことに、面と向かって自分の考えを主張してくる、要するに『私が何を言っても自分が納得しなければ動かないよね』という類の人間に成長している。たまに挨拶する近所のお母さんに「ウチの娘は私の言うことをちっとも聞かない」とお決まりの愚痴をこぼす日々の襞の内側にあるものが、私がこの世界から借りていたものを返す時に最後まで持っていたいと願うものであったと気づいたのは、ここ1〜2年のことだ。
この世界は、私が娘に読んで聞かせてきた絵本の中の世界のように、暖かくまあまあ善良で、必ずしも白黒をはっきりとつけられる、そういう類のものではないと、彼女も彼女なりにおぼろげながらも知ってはいるようである。つい最近、娘に私が読み聞かせをしていた絵本の内容をどれくらい覚えているのかを聞いてみた。予想通りというか、やはりほとんど忘れてしまっているらしい。私が今まで一緒に遊んだり話をした子達も、きっと同様に私のことなど、とうに忘れてしまっているだろう。夫や私のタフな友人達は、そんなものがなくてもしたたかに生き残ってくれるだろうが、私の娘やこの子達にこの世界の闇は少し暗すぎると思うので、万が一どうしてもこれに面と向かって対峙しなくてはならなくなった時には、今は忘れてしまっている小さな記憶が、私があの子らの思い出に救われたように、少しでもあの人らの足元をかすかでも明るく照らしてくれるように願うのである。