こだぬきの届け物
湖と森に囲まれた豊かなこの国には、女神さまがいらっしゃいます。
青き髪、緑の美しい瞳。
白い毛並みの獣の背に座る美しい女性。
慈悲深い微笑みを浮かべる気高きお方であられますが、白い獣は知っています。
面白いことが大好きで、ちょっとお茶目なところがあることを。
「ふふっ」
水面を覗き込み、女神さまが笑みを浮かべました。
波紋を立てるその中に、一匹の狸が腹を上にして転がっています。
すぴーっ、すぴょーっと何とも間の抜けた寝息は、こちらの眠気さえ誘う呑気さです。
寝息に合わせ、上下するぽってりとしたお腹を撫でるのは、人間の大きな手でした。
武骨な男の人の手です。
狸は驚いて起きることもなく、その短い脚で男の手をきゅっと抱え込むと身体を横にしてまた寝始めてしまいました。満足そうにきゅうと寝言まで言うその姿は、何とも幸せそうです。
そんな狸の様子に、自分の手を抱き枕のように抱えられてしまった男は、一度目を瞬かせると、喉元で笑って、そのまま狸の好きなようにさせました。
「あの子は幸せそうだのう。良き哉、良き哉」
水面に映るのは、女神さまの御座す森を領地に持つ領主様とその領主様に恩返しをしに行った子狸です。
人間不信な領主様は一途でちょっと間の抜けた子狸を愛おしく想い、子狸は領主様の言葉少ない優しさに惹かれました。
人間に化けた子狸と領主様は、女神さまのちょっとしたお節介で、心を通わせたのです。
間違いなく両想いの子狸と領主様ですが、しかし、一度死にそうになった子狸は出会った時の16、7の姿ではなく、只今10歳ほどの年齢です。
ですから、領主様は、湧き上がる煩悩をぎゅうぎゅうと何処かに仕舞い込み、子狸を愛でているところなのでした。
普段真面目で、堅物な領主様が何かを耐え忍んでいる姿は、ちょっと面白いのです。
色々と駄々洩れている何かに気が付かずに、全身で愛情表現をする子狸は幸せいっぱいですから、女神さまとしては何にも問題はありません。
そんな領主様と子狸でしたが、年の瀬になり、領主様に王宮からお呼び出しがかかりました。とっても優秀な領主様ですから、王様からの覚えもめでたく、とても信頼されています。因みに王様と領主様は従兄弟同士で、何か問題が生じると、王様は彼に助けを求めてくるのです。
手紙を読んだ領主様は深々と溜息を吐くと、子狸の前に膝を突き、頭を撫でました。
きゅうと鳴いて首を傾げる狸に優しく微笑みます。
「すまん、ネリ。暫く留守にする。何かあれば屋敷の者に言いなさい」
領主様が居なくなると知って、子狸は慌てたように前脚を上げました。ぽんと音を立てて、現れたのは10歳くらいの女児です。
領主様にネリという名前をもらった子狸の人間の姿でした。
「領主さまいなくなってしまうの?」
両手で領主様の手を包み、心配そうに寂しそうにネリは領主様を見つめます。
「仕事が終われば帰ってくるよ。心配するな」
ネリに取られた手はそのままに、領主様は優しく笑うと、額にちゅっと口づけました。
領主様への信頼は100%の子狸です。
こくこくと頷くと、寂しさを仕舞い込み、領主様を見送りました。
「とっとと、働け」
「あれ、いつも以上に手厳しい?!」
年末といえば、とある国では師走と言われ、忙しさを表現されますが、大忙しなのはこの国でも同じです。
今年度の総括として、色々なことが纏まってやってくるため、いくら王様が有能で真面目でも、一人では抱えきれません。宰相さまもいらっしゃいますが、彼は彼でたくさんの仕事を抱えており、寝る間も惜しんで働いているのでこれ以上無理をさせてしまっては、倒れてしまうでしょう。
と言う訳で、いつものように白羽の矢が立ち、領主様は王宮にやってきていました。
王様に頼りにされるだけあって、領主様の書類の処理能力は素晴らしいものです。
真面目ですから手抜きもありません。
王様と宰相さまに感謝されながら、年末に城に缶詰めになるのは、毎年恒例のことながら、今年はネリとの時間を邪魔されて少し不機嫌な心持ちです。
『さっさと片付けて領地に帰りたい』
目に見えない看板をでかでかとぶら下げている領主様に、王様は不思議そうな顔をしました。
「なにか用事でもあったのか?」
「いや」
「なら、なんでそんなに早く帰りたがるかなぁ」
「……王よ」
「何?」
「しゃべっている暇があるなら、さっさとこの書類に判を押せ。帰るぞ」
「はいはい」
領主様と王様は同い年です。両親が早くに亡くなったために、領主様は幼い頃お城に住んでいたことがあり、王様とは兄弟のように育ったので全く遠慮がありません。
何やら早く帰りたい様子、でもその理由は教えてくれない領主様に、王様は興味津々で探りを入れるのでした。
さて、お留守番をしているネリのほうはと言えば、日に日に領主様の匂いが薄くなっていく屋敷に、しぼむように塞ぎ込んでしまいました。耳はぺっとりと伏せられ、ふさふさの尻尾は箒のように床を引きずられています。
しょんぼりと寂しそうな子狸に、使用人たちは胸が抉られるようです。
何しろ、屋敷内を呑気にぽてぽて歩く子狸は皆の癒しなのです。
屋敷の使用人たちは団結しました。
そして。
「えー、見つかって狸鍋にされたらどうするのさ」
「命がけで守りなさい」
目を座らせた使用人たちに囲まれ、領主様の従者はびろんと抱き上げられた狸を受け取らされました。
彼らの有無を言わせない雰囲気に、拒否権はありません。
しかし、前足の下に手を入れられ侍女に抱えられた狸が前足を懸命に伸ばし、ちょっとじたばたしながら、つぶらな目できゅわ……と鳴くのを見てしまえば、従者自身も使用人たちと同じように、領主様に会わせたくなってしまうのは仕方のないことでしょう。
「荷物に隠れてこっそりとだからね」
そう言われて、子狸は頷きました。
馬で丸一日、お城に着いた子狸は荷物の中ですよすよと眠っております。
鼻提灯がぱちんと爆ぜて目を開いたら、薄暗い室内でした。
従者は仕事に戻ってしまい、部屋には誰もいません。
しんとした知らない部屋。
起き抜けで寝ぼけていた子狸は怖くなって、そこから逃げ出してしまいました。
狸は臆病なのです。
外に出てみると、そこに広がっていたのは庭園でした。色とりどりの花が咲き、緑は綺麗に剪定されていて、とても美しい見栄えです。
ですが、自然のあるがままの美しさを見て育った子狸にはちょっとだけ、よそよそしい感じがして寂しくなります。
周りを見回しながら庭を抜けると、薄紅の花を咲かせた躑躅の垣根が目に入りました。甘い蜜の匂いが微かに香ってきます。
それは、女神さまの森で、子狸が寝床にしていた垣根によく似ていました。
子狸は近づくと、根本の隙間に身体を潜り込ませて地に伏せました。
冬の地面はひんやりしています。夜の野外は、温かな室内で過ごす様になった子狸には少々厳しいものでした。熱が逃げないよう、身体を小さく丸めて寒さをしのぎます。
そうしているうちに、狸は今どこにいるのか、思い出し始めました。
きっと、この綺麗なお庭はお城のお庭なのでしょう。
ならば、どこかに領主様が居るはずです。
そう思ったら、狸はいてもたってもいられなくなりました。
しゅたっと、垣根の下から這い出ます。毛が逆立ちました。
……寒いです。
しんなりと耳を垂れ、子狸はすごすごと垣根の中に戻りました。
もう少し温かくなったら、探しに行きましょう。
狸はどうやらたっぷり甘やかされて、寒さも苦手になっていたようです。
東の空が白み始め、じわじわと雲が黄金色に染まります。ふんわりと空の青に紫が混ざり込み、橙色の太陽が空を同じように染めていくと、今日という日が始まりました。
朝露に、きらきらと庭が輝きます。
そんなところは、森の中と変わりません。
すんと鼻を鳴らすと、甘い匂いが一層強くなりました。
甘い、甘い蜜の匂い。
『疲れた時には甘いものが良いのですよ』
そんな誰かの言葉を思い出し、狸はその中で一等甘い匂いのしている花を摘んで口に咥えました。
準備は万端です。さあ、領主様を見つけましょう。
時に人の足元を走り抜け、時に抜き足差し足こっそりとやり過ごし、狸鍋にされないよう注意しながら、子狸は領主様を探します。
南に行き、北に行き、領主様の姿はありません。
東に行って、西に行き、領主様はやっぱりみつかりません。
階段を上がって上階へたどり着いたときには、もう、午後も半ばを過ぎていました。瑞々しかった花も心なしかしんなりとして見えます。小さな身体で動き回りすぎて、へとへとだった子狸は、花瓶の置かれたチェストを見つけると、その窪みに身体を押し込みました。
ちょっと休憩です。
「きゅう」
会えないせいで、余計に会いたい思いが募ります。
すると、どうでしょう。領主様の匂いがしてくるではありませんか。
「ちょっとまて、仕事中だろう」
「不測の事態だ」
男の人が二人言い合いながら、こちらに向かってきます。
領主さまです!
子狸は勢いよく、飛び出しました。……いえ、飛び出そうとしました。
ぎゅうぎゅう入り込んだせいで、抜けられません。
四肢でじたばたして、尻尾も使って前に力を籠めます。
すぽんと抜けた子狸は、ころころと、転がりました。
止まったのは、二人の前です。
「た、狸?」
首を精一杯持ち上げると、目を見開いた領主様と唖然としたような王様がいます。
領主様の目の下にはうっすら隈が浮かんでいました。
やっぱりお疲れのご様子です。
子狸にどうしてここにいるかだとか、説明するような深い思考はありません。
会えて嬉しい。お疲れ様です。
それだけです。
ですから、きゅうと一つ鳴いて後ろ脚で立つと、咥えていた花を両手で挟み領主様に差し出しました。
領主様は、少しだけ困ったような顔をして、ゆっくりと子狸の前に片膝を突きます。
そして、花を受け取るのではなく、子狸を両手で抱き上げると、子狸の手にある花に顔を寄せ、――――花の付け根を食みました。
「甘いな」
蕩けるような笑みは、花の蜜よりも余程に甘く。
子狸はぐりぐりと彼の頬に額を押し付けると、ぽんと人の姿に変わりました。
突然の変化にも領主様の逞しい腕は揺るがずに、少女を抱きしめます。
「領主さま、お疲れ?」
「ああ。でも、今ので元気になった」
その言葉にへにゃと少女が嬉しそうに笑うと、領主様は少しだけ落ち着きなく目を彷徨わせて、それから幸せそうに微笑みました。
「ええと、その狸……いや、少女は一体?」
「俺の嫁だ」
「いや、婚約者でしょ、まだ結婚してませんて」
領主様の後ろに付き従っていた従者が、思わず突っ込むと、領主様は振り返って一睨み。
「無事みつかったからよかったものの、……ネリを一人にしたこと許していないからな。この顛末、屋敷の使用人達に伝えてくれる」
「勘弁してください!」
「女性に靡かないと思っていたら、幼女趣味だったのか……」
「王よ。今すぐ帰るぞ」
「ごめんなさい。嘘です。純愛だな、そうなんだな。うん。狸でもなんでもいいよ、仕事してくれるなら」
凄く早口でそう言って、王様はこの件に口を挟むことはやめました。
領主様が帰ってしまうのも大変問題ですが、何より。
……王様は、こんなに幸せそうな顔をした領主様を見たのは初めてだったのです。
狸が人に化けようと、此処は女神さまの住む国。
不思議なことの一つや二つ、笑って受け入れる度量がなければ、この国の王様はやっていられないのです。
「いや、堅物が恋をすると面白いな」
愛おしそうに少女を抱きしめる領主様を眺めて、王様はそんな風に独り言ちました。
まさか女神さまが水面越しに同じことを呟いただなんて、知りもせずに。
メリークリスマス。
ちょっぴり、ほっこりするクリスマスプレゼントに。なった、かな……?