また流れてる
じゃああああああ
水の流れる音に、私はまただと思った。
1ヶ月もいれば馴れてくるもので、私は音のする方を見もしなかった。
病院の個室に入院してから、毎日のように聴こえる水の音。
小さな個室には、ベッドとテレビ台に小さなロッカーが備えてあり、隅の扉の奥にはトイレと洗面台が備えてあった。
入院して最初の夜だった。
「い、痛いい、痛い痛い」
最悪だ。頭が割れそうに痛い。
「うええええっ」
間に合わず、枕の横に吐瀉物をぶちまける。
薬の副作用だそうだが、こんなことが何週間も続くなら、治療しない方がマシだ。
誰もいない真っ暗な部屋で、涙と胃液を垂れ流しながら一人苦しむ。
いっそ死んだら楽になれるのに。
ノロノロとナースコールに手を伸ばした時だった。
じゃああああああああああ
水の流れる音がした。外かと思ったが、病室を出た所は廊下だし、それぞれの病室のスライドドアは分厚くて防音性が高く、日中も廊下を歩く人の声が殆んど聴こえない。
四つん這いで、何とか顔を上げれば、隅のトイレの扉の奥から聴こえる。ベッドのヘッド部分のしきり越しに、扉が半分見えた。
洗面台で誰かが手を洗っている?
センサー付きで、手を翳せば蛇口から水が流れる仕組みだから、誰かがいるのだろう。
「お、お母さん?」
声を掛けても返事はない。扉の上部の小窓の擦り硝子には明かりが映っていない。電気も付けずに手を洗っているのか?
「誰?」
母親は入院の手続きをして朝の内に帰ったのだった。家には、まだ小学生の弟がいるし、長年入退院を繰り返す私の治療費の為に働かなくてはならない。個室しか空いてなかったから、当分余計に費用が掛かる。
じゃああああああああああ
水音が止まない。
じゃああああああああああ
ゾッと背筋に冷たいものが走り、ナースコールを必死で押した。
「はあい」
「看護師さん、早く来てえ!!」
明るい声に苛立ちと安心が交差する。
長く感じる時間は、たぶん十数秒だった。
「あらら、吐いちゃったね」
ドアを開けるなり、看護師が電気を点けて面倒そうに言った。
「あ…………………?」
水音は止んでいた。
まるで何事もなかったように。
「そこ…………」
「ん?」
「そこ、誰かいる?」
トイレの扉を指差すと、看護師が怪訝な顔をして、素早く開けた。
「誰もいないよ」
明かりを点けてから見渡すほどでもない狭い空間を確認して、看護師は答えた。
「洗面台の水、流れてない?」
「流れてないわよ?」
更に水の流れた形跡を訊ねようとして、口をつぐんだ。
気味悪そうに、看護師がこちらに視線を向けてから目を逸らしたからだ。
「さ、ベッド綺麗にするから、もういい?ああ、パジャマも着替えないと」
看護師が他の者を呼びに出て行った。
気のせいだったのだろうか?
洗面台のある場所は、扉が開け放たれたままだった。
ピチャン
水滴の音が一度聴こえた。やけに大きく響いてドキリと心臓が跳ねた。
「あ!」
そこに人影を見たような気がして、私は怖くて目を瞑った。
それから直ぐに私は二人部屋に移った。もう大丈夫だと心底安堵した。
私より年上の女性と一緒になった。
でも彼女は、いつもカーテンを仕切り、私とは一言も話さない。移った時に挨拶をしたが、背中を向けて横になったまま何の反応も無かった。
あれは、終わっていなかった。
トイレは付いていない部屋だが、洗面台は部屋の隅に備えてある。
彼女が検査でいない時。深夜眠っている時。そこからいつも突然………
じゃああああああああああ
水は流れた。部屋を変えても勝手に流れる。
ある夜、水音に耐えかねて彼女に声を掛けた。
「すいません、ねえ、聴こえてますよね?水が勝手に流れてるんです!」
カーテンに仕切られている彼女のベッドからは寝息も身動ぎする気配もしない。
「あのっ」
「キコエテル」
低く濁った声がした。
とても若い女性の声ではない。地を這うような不快で奇妙な声だった。聴いた途端、恐ろしさに布団を頭まで被った。
次の日、彼女はベッドの上で冷たくなっていた。治療していた病気とは違う死因による突発的なものだった。
まさかアレが関係したりしないよね?
考えれば気持ち悪くて、私は水が流れるのはセンサーの誤作動だと思うようにした。
きっとよくあることなんだ。部屋が変わっても水が勝手に流れるんだから、どこでもそうなんだろう。皆が知ってることを私だけ怯えてバカみたい。
彼女だって聴こえてるって言っていた。
「……………う、そ」
私は気付いた。朝の検温時に発見された彼女。亡くなった彼女の身体の硬直状態から、既に8時間以上経過していると…………
「あの時、し、死んでいたの?」
じゃああああああああああ
返事をするように水が流れる。
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私の病気は思わしくなく、次第にベッドから起き上がれなくなってきた。容態のせいか、いつの間にか私はまた一人の部屋に移された。
「アアア、いたい、いたい」
痛みは頻繁に襲い、ベッドの上で悶絶する地獄のような日々。終わりの無い苦しみは、私の気力を直ぐに削った。
じゃああああああああああ
まただ。もう怖さも感じない。
どうでもいい。
とにかくこの苦しみから解放されたい。それだけが私の頭の中を占めていた。
じゃああああああああああ
いつもは数秒で止まる水音が、止まらない。ゴプゴプと排水菅に水が落ちていく。
な、に?
目蓋をこじ開けて、足元の洗面台へと目を向けた。
洗面台に寄りかかる人影がいた。
「あ、アア」
床に座り、蛇口の下へと顔を突っ込み、こちらを白く冷たい顔で見る女性。
死んでしまった彼女が流れる水を顔に受けながら、まばたきもせずに、じっと私を見ていた。
異様な光景に、私はそこで意識を失ってしまった。
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「よく頑張ったね」
母が涙ながらに労う。
何日が経っただろう?
酸素ボンベと点滴の管も取り払われた。
あんなに苦しんだのが嘘のように、痛みは消えた。
あれは何だったのだろうか?もう水音は聴こえなくなった。
夢だったのかもしれないし、気のせいだったのかも。
洗面台を見つめてから、私はそっと蛇口に両手を翳した。
「ぎゃあ!お母さん!お母さん!」
悲鳴のする方へ顔を向けると、私のベッドの上に女の子がいた。
「お母さん!また水が流れてる!」
目を見開き、女の子が傍にいる母親にしがみつく。
「どうしたの?水なんて流れてないよ?」
女の子を宥めながら、母親は気味悪そうにこちらを見た。
だが、直ぐに視線を女の子に向けてしまった。
そこに私達がいるのに気付いていないようだ。