なぜ雨に降られても濡れないのか?(5)
「いらっしゃい。どうしたんだい、藤無さん」
いつものように出迎えてくれたおかみさんは、ひと目で雪彦が正常な心理状態ではないと見抜いたらしく、心配そうに顔をくもらせる。
「ちょっとね……」
彼は言いにくそうに表情を醜く歪めた。
何かを感じ取ったのか、おかみさんは神妙な顔でカウンター席へ案内してくれる。
席はほとんど空いていた。
珍しいこともあるものだと思ったが、よく考えてみれば平日の昼に雪彦がこの店に来ることはほぼない。
案外、この時間帯はこういうものなのかもしれなかった。
「注文は決まっているかい?」
「何か酒を下さい」
一番初めに酒を頼むなど、これまでの雪彦は決してしなかったことだ。
それでもおかみさんは無言でうなずいて尋ねる。
「ビールでいいかい?」
「うん。後は何かつまみになるもの」
乱雑な注文もおかみさんはていねいに接する。
「じゃあ枝豆なんてどうだい?」
「うん、枝豆ください」
「はいよ」
注文のやり取りさえ億劫になりかけたところで終わり、雪彦は少しほっとした。
おかみさんにまでいら立ちかける自分が信じられなかったし、意外でもある。
そして何より常連の店の人に対して無礼な態度をとらずに済んでよかったと思う。
ガラスのコップに入った冷たい水を飲み、少しだけやさぐれた心を鎮める。
中ジョッキになみなみと注がれたビールと黒い丸皿にたっぷりと盛られた枝豆が彼の眼前に並ぶ。
まずはビールをぐいと流し込む。
コクとのど越しを楽しんでから、塩がよく利いた枝豆をほおばる。
「いつも倹約しているのに、珍しいね」
少しは会話ができるような心境になったと見抜いたか、おかみさんがそのようなことを言う。
長く客商売をやっているだけあって、客の心理状態を察することくらい造作もないのだろうか。
(すごいもんだな)
と雪彦は思った。
何となくおかみさんの言葉には答えず、枝豆を咀嚼しているとそこにひとりの客が新たに入ってくる。
「いらっしゃい、板屋さん」
彼女の声に彼はおやっと目を入口に向けてみると、たしかにそこにはアパートの大家・板屋の姿があった。
初老の男性はきちんとアイロンがけされた襟付きの青いシャツを着ている。
「どうもこんにちは」
いつもの柔和な笑顔と物腰、穏やかな声は今の雪彦には少しばつが悪い。
「おや、藤無さんではありませんか?」
先方は当然のごとくカウンターに座っている彼の姿に気づいて声をかけてくる。
「どうも」
知らぬふりをするわけにもいかず、短いあいさつをして会釈をした。
「今日はお仕事はいいのですか?」
近くの席に座った板屋はおかみさんも疑問に抱いたであろうことをたずねてくる。
「ええ、クビになりまして」
雪彦は一瞬詰まったものの、大家相手に隠しごとは不可能だと思い、事情を明かす。
板屋もおかみさんも顔の筋肉を動かしたが、口は動かさなかった。
「差しつかえなければ、理由を聞いてもいいですか? 藤無さん、真面目に働いていらっしゃったと思うのですが」
少しの沈黙の後、板屋が気遣うように問う。
彼が悪いと決めつけていない態度は、とてもありがたい。
だが、今の雪彦にしてみれば「警察が来ても同じ態度なのか?」というひねくれた疑問が心に浮かび上がる。
いつもの彼ならばそもそも思いつかなかったか、あるいは思いついてもすぐにふたをして心の奥底に沈めていただろう。
まだ彼の心はそこまで立ち直っていなかった。
「ああ、実は職場の女の子の財布がなくなりましてね。状況的には俺が怪しいらしいんです。何も証拠はないんですけどね」
雪彦は自嘲で唇をゆがめる。
全くこのような理不尽な話はあるまいと感じた。
ミカの狂言である可能性はどうして考慮されないのかと今さらひらめいたが、あとの祭りだろう。
「え? それはいくら何でもひどくないですか? 他に有力な犯人像が浮かび上がらないからって、藤無さんが犯人扱いされたのですか?」
板屋の顔から珍しく笑顔が消えている。
おかみさんも店の主人も難しい顔をして黙って聞いていた。
「ベテランの方はそうでもなかったですけど、若い方がね。あと、店のオーナーや被害にあった女の子もですよ」
「信じてもらえなかったのですか?」
雪彦の言葉に板屋は首をひねる。
人のいい彼にしてみれば、真面目そうな借家人の味方がいなかったことが奇妙に感じられたのかもしれない。
(そりゃそうか……ちょっと疑われただけで味方がいなくなるって、日ごろが悪いんじゃないかと思われるよな)
人柄で信頼を置いている板屋の反応だったからこそ、雪彦は素直に受け入れることができた。
他の人が同じような態度を見せれば、反発の方が勝っていただろう。
(けど、言っても信じてもらえるか?)
ただ、それでもすべてを打ち明けることをためらったのは、オカルトな話だという自覚があったからだ。
信じてもらえればいいが、信じてもらえなかったら二度とこの店には来られなくなるのではないか。
そうは思ったものの、話さないことには板屋の心には雪彦に対する懸念のようなものは残るだろう。
大家である老人は、その気になれば雪彦に退去を要求できる立場である。
そうなってしまうと彼は住み家さえも失ってしまう。
説明しなければ結局同じことではないかと思いいたるまでしばしの時が必要だった。
「……言っても信じてもらえないことかもしれませんが」
雪彦はそう前置きをして話し出す。
過去にも何回か不思議な事件があり、彼が最有力容疑者として扱われたこと、そしてにわか雨に降られたと思って建物の中に駆け込んでみたら少しも濡れていなかったことをだ。
「そう言えば、何で藤無さんは駆け込んできたんだろうって思った日があったっけねえ」
おかみさんは覚えていたらしく言ってくれる。
「私にも覚えがありますね。あれは何か急な用でも思い出したのかと思っていたのですが」
板屋もぽつりと言う。
頭ごなしに否定されなかっただけでも雪彦にはうれしい。
「信じてもらえるのでしょうか?」
「藤無さんが嘘をついているようには見えませんが」
「そうだね」
一縷の望みにすがるように聞いた彼に対して、板屋とおかみさんの回答は現実的なものだった。
「そうですか……」
そうだろうなとは思っていたのだが、それでも雪彦が受けたダメージは少なくない。
肩を落とす彼の姿をじっと見ていた板屋は考え込んでいたが、やがて口を開く。
「超常現象、心霊現象というたぐいに悩まされているなら、もしかしたらあそこに相談してみればいいかもしれません」
「あそこ?」
雪彦の問いに老人はうなずいて言う。
「たしか千ヶ峰堂でしたか? 藤無さんがおっしゃった体験を専門に扱う店が、ここからバスで二十分ほどの距離にあるのですよ」
「えっ? そんなところがあったのですか?」
雪彦が聞き返したのは、オカルト専門店といういかにも曰くありげな店が存在するのであれば、もっと人のうわさになっているのではないかと思ったからだ。
板屋は非常に真剣な面持ちで彼を見つめながら、声を低めて言う。
「ええ、知り合いや知り合いの知り合いが何回か依頼したと聞きましたね。全員が言います。あの店は本物だと。本物だからうわさで広まったりしないとね」
氷を不意打ちで放り込まれたような寒気が、雪彦の背中を駆け抜ける。
老人の方には彼をおどかす意図などなかっただろう。
それでも彼は得体のしれないナニカを感じ取ったのだ。
「本物はうわさにならないって、何だか説得力を感じますね」
雪彦は笑おうとして失敗してしまう。
「そうでしょう?」
板屋は自分と同じ考えの持ち主を見つけたと微笑む。
「店主は白髪頭のどこにでもいるようなごく普通のおじいさんらしいですよ。何と言うか、客に説得力を与えようというか、興味を持たせようというか、そのような努力をしている気配がまるでない店なんだそうです」
「それじゃ探すのはかえって大変かもしれませんね」
雪彦はやや困惑する。
初めて行く場所ならば、分かりやすい目印があった方がありがたいのだ。
「ああ、よければ地図を描きましょうか。知り合いから聞いた情報が頼りでよければ」
「それは助かります。どうもありがとうございます」
板屋の親切な申し出に彼は何度も頭を下げる。