なぜ雨に降られても濡れないのか?(4)
次の日の朝、雪彦がいつもの時間にコンビニに行くとミカとオーナー、それに刑事たちがいた。
「何か分かりましたか?」
何も知らない彼が開口一番尋ねると、若狭が答える。
「ええ、セキュリティが破れた気配はなし。窓ガラスに異常なし。となると、外部の犯行はほぼなさそうです。つまり、有力な容疑者はあなたということになるのですよ、藤無さん」
彼は目の前が突然暗転し、足元がガラガラと崩れていくような感覚に陥った。
「ど、どうして……?」
彼の唇からかすれ声が漏れると、若い刑事が口を開く。
「どうしてというのは、我々が言いたいですよ。あなたの以前の職場でも盗難事件があったり、その前の職場で火事があったようですね。そして毎回あなたが容疑者と浮かび上がった。そして今回もそうだ。どうしてあなたの周りでは何回も事件が起こっているんですかねえ?」
なんて嫌な奴だと雪彦は思う。
どうして何回も事件が起こるのかなど、彼が一番知りたい。
だが、ここでそう言ってもいやらしい目つきの刑事は決して信じてくれないだろう。
いや、彼ばかりではなく若狭という刑事も似たような様子だ。
この人物ならば己の潔白を信じてくれそうだと思ったのは、あまりにも浅はかだったと言うしかなさそうである。
「藤無さん?」
「藤無くん……」
話を聞いていたミカとオーナーの、彼を見る目がすっかり変わってしまっていた。
昨日別れるまでは災難に巻き込まれた仲間だったのに、今や彼こそが原因だと思っているに違いない。
「おや、オーナーはご存じなかったのですか?」
若い刑事が怪訝そうに聞く。
「は、はい。何回も転職しているのは少し気になりましたが、真面目そうな若者でしたし、慢性的に人手不足だったもので、彼のように体力があって夜勤も辞さない働き手はとてもありがたかったものですから……」
しどろもどろに説明するオーナーを見る若い刑事の目は、同情しているようでネズミを捕えた猫のようでもあった。
「それはうかつでしたね。彼がいる職場では必ず事件が起こり、必ず彼が容疑者になっています。いずれも証拠不十分で逮捕には至りませんでしたが、それでも要警戒の人物だと言わざるを得ません」
「で、ですが、証拠がないなら、彼は無実かもしれないじゃないですか?」
オーナーは反論を試みる。
雪彦をかばったと言うよりは、自分の見る目がなかったと認めたくないようであった。
「たしかに……でもですよ、世久見さん。それならどうして彼の勤め先で必ず事件が発生するのでしょうね?」
「おい、矢代」
若狭がようやく年下の相棒をたしなめる。
オーナーに答えられるはずがない質問だったからかと雪彦は思う。
雰囲気は最悪に近い。
少なくとも雪彦の立場は最悪としか言うしかなかった。
(ここでもかよ)
天をあおぐ。
せめてもの意地のつもりで、雪彦は表面を取り繕おうとする。
それがまた矢代にしてみればふてぶてしく見えたらしく、刺すような目でにらまれた。
「おい、藤無、何とか言ったらどうだ? お前の周りで事件が起こるのは、お前が真犯人か、お前が誰かにやらせているからじゃないのか?」
低い敵意がこもった声を浴びせられて、彼は怯む。
何と言っても相手は警察官なのだから、刺激したところで損しかしない。
「違いますよ。よく調べて下さいよ」
できるだけ困惑を強調して言い返したが、矢代には逆効果だったようで向けられる敵意が一段と強まる。
「それはいくら調べたところで警察には証拠を見つけられるはずがないって自信か、ああ?」
「矢代」
どうしてそのような解釈をされるのだと叫びたくなったところで、若狭が制止してくれた。
もっとも、雪彦に対して向ける視線の種類は同じである。
包み隠されていないか、隠しているかの違いでしかない。
「藤無さん、あなたが犯人だという証拠はありません。矢代の失礼な発言についてはお詫びいたします」
ただ、それでも若狭は彼に頭を下げて謝罪する。
この感情を表に出そうとはしないベテラン刑事こそ恐ろしい。
雪彦としてはそう思わずにはいられないでいた。
「あ、いえ、疑われても仕方ない立場だという自覚はあります」
悔しいが、感情を抜きにして考えてみれば彼自身、己が一番疑わしいと思う。
だからこそ迷惑だし、何とかしてもらいたいのだが、やはり警察はアテにできそうにもない。
(だけど、どうすればいい? 誰に頼ればいいんだよ……)
警察でも解明できないものを、分かる人間など果たしているのだろうか。
推理小説の名探偵が現実にいれば助けてもらえるのだろうか。
忌々しそうに彼を見る矢代、その相棒を制止しながらも疑いは持っていそうな若狭。
もはや、彼への警戒心を隠そうとしないオーナーとミカ……この場に彼の味方がいないことだけは確実だった。
「もう帰ってもいいですか?」
雪彦の問いに若さはうなずく。
「ええ、逃亡を疑われるような行為を慎んで頂ければ、普通に過ごしていただいてけっこうですよ」
若狭の言葉に普通の暮らしなどできるか、と叫びたい衝動を何とかこらえる。
帰ろうとして右足を一歩踏み出したところで、雪彦はオーナーに話しかけた。
「あの、退職願を受け取っていただけますか?」
「ああ。今日の分の給料は払えないが、昨日までの分は銀行に振り込んでおくよ」
世久見の方は少しも残念そうではない。
疫病神を追い払えた安堵感とまではいかなくとも、どこかほっとしているようだ。
おそらく雪彦が自分で言い出さなければ、彼の方から言い出していただろう。
ミカの方は露骨に表情を輝かせている。
「ありがとうございます」
少なくともこれまでの間、世久見は彼に対してよくしてくれたのは間違いない。
感謝の気持ちを表したが、先方は面倒くさそうにうなずいただけである。
「制服は都合がいい時に持ってきてくれ。洗わなくていいから」
つまり廃棄処分するから洗う必要はないということか。
雪彦との関わりをできるだけ断とうとするかのような物言いだったが、彼は怒らなかった。
何か言おうにも雪彦は少し疲れていたし、言っても無駄だと思えるだけの経験がある。
「分かりました」
素直に返事して馴染んでいた場所を後にした。
彼の目が届くところで塩をまかれなかっただけ、まだマシかもしれない。
雪彦が家に帰る道中、またしても雨が降り出す。
殴りつけてくるような激しいものに変わるまで時間はかからなかった。
たまらず彼は駆け足で家に逃げ込む。
そしてやはり体も荷物も濡れていないことに気づく。
「いったい何なんだよ……いい加減にしてくれよ」
雪彦の声に怒りはうすく、カエルがうめくような声に近い。
泣き出しそうになるのを懸命に堪えているせいだろう。
泣いたら負けだと自分に言い聞かせながら、靴も脱がずに廊下の上に寝転がる。
フローリングのひんやりとした感触が気持ちよかった。
鬱屈とした感情を抱えて、ぼんやりと上を見やる。
何となく口うるさかった両親を思い出す。
「ちゃんと定職につけ」
「たまにはお祖母ちゃんにも顔を見せろ」
「お祖母ちゃんの猫の世話や家の用事、お前も手伝え」
といったものだ。
上ふたつはともかく、最後のひとつは単に労働力がほしいだけではないのかと言いたい。
余計に気が滅入りそうだったので、あわてて頭から追い出して別のことを考えようと試みる。
そのままどれだけ時間が過ぎたか、腹の虫がぐうっと鳴く。
このような時にも腹は減るのかと内心自分でも呆れそうになる。
無視しようと目を閉じたが、なかなか寝付けない。
いらいらしながら目を開けると、小さな女の子の影が横切った気がした。
(いや、そんなわけがない)
疲れているのだろうと再び目を閉じる。
しばらくして目を開けると、やはり女の子の影が目の前を通り過ぎる。
それは一瞬のことだったが、気のせいではないように思えてくる。
何度も同じようなことを繰り返し、やがて背中と腹がくっつきそうな感覚もあわさって我慢の限界に到達した。
「腹減った……そうだ、腹が減ったせいだ」
腹を抑えながら彼は立ち上がる。
腹が減っては戦はできぬ、という言葉を思い出してそれに従った。
(腹いっぱいになれば、ちょっとは気が晴れるかもしれないしな)
期待はあまりできないが、このままでは好転しそうにない。
わらにもすがるような気持ちでいつものうどん屋へと向かった。