真夜中に泣く人形(6)
老夫婦の仲睦まじい会話は、見ていて心があたたまる。
たとえ片方がどのような姿に変わっていたとしても。
おかげで雪彦はひと晩明かすのも大して苦にならなかった。
途中、何度か羽束と交代でお茶をもらいにいき、手洗いにもいったが。
「思念と霊体とは違うのですか?」
雪彦が気になって尋ねると、羽束は小さくうなずく。
「ええ。霊体は幽霊となった人そのものですが、思念は人の想いの結晶、一部分に過ぎません。ある意味あの方は孝子おばさまであり、孝子おばさまではないと言えます。ああして会話が成立することは奇跡に近いのです」
彼女が心底驚いていた理由に、彼はようやく合点がいった。
彼らふたりのやりとりをよそに老夫婦の話は続き、朝を迎える。
六時ごろになるとみやがふたりの様子を見に、離れまでやってきた。
「どうしたんだい。ふたりとも、寝てないのかい?」
彼女の声は那智の小さな背中を見たところで止まる。
老人が人形に話しかけている様子は、何も知らない者からすればさぞや珍妙に映っただろう。
「羽束ちゃん、おじいちゃんはいったい何をしているの?」
と聞いたみやの顔も声も不審そうだ。
「驚かないで聞いていただきたいのですが」
羽束は前置きしてから事情を説明する。
「はあっ?」
みやはすっとんきょうな声をあげた。
その両目は不信感で満ちている。
「こんなことは言いたくないけど……本当なのかい? そんなことが起こるものなのかい?」
疑念たっぷりの発言は雪彦の心に刺さったが、羽束は平静そのものだった。
「わたしも実例を見たのは初めてなのですが、本物です」
余計なことは一切言おうとしない彼女の態度は、みやにとって好ましく感じたらしい。
彼女は表情を若干やわらげる。
「そこまで言うなら信じてもいいんだけど……」
「話してみればお分かりになると思いますよ」
羽束は淡々とした口調で言う。
「そりゃそうだろうね。あんたのことは信じているよ」
みやはそう言ってちらりと雪彦を見る。
「お前は別だぞ」と言われた気がしたものの、彼は反論しなかった。
彼女は腰に両手を当てて鼻を鳴らし、那智の方へ歩いていこうと足を踏み出す。
羽束はそれをそっと押しとどめる。
「できれば進一くんと千穂ちゃんを呼んできていただけませんか」
「あの子たちを? 何でまた?」
みやの疑問に対して、羽束は悲しそうにうつむいて答えた。
「残された時間はあまりないですから」
それを聞いた彼女は軽く目をみはり、雪彦は短く息を飲む。
「どういうことだい、それは?」
彼女の問いに羽束は答えずに、視線を那智と孝子の思念が入った人形に移す。
「詳しいお話はあとで。進一くんたちはまだ寝ていますか?」
「いや、あの子たちはもう起きているよ。いまは旦那が見てくれている」
返事をしてからみやはこめかみに手を当てる。
「……よく分かっていないんだけど、旦那も連れてきた方がいいだろうね」
「はい。できれば」
羽束の答えに彼女はちらりと天井を見た。
いったいどういう思いが胸を去来したのか。
雪彦ではとうてい計り知れない。
「分かった。何とか言ってみるよ」
みやはそっと場を離れる。
「大丈夫でしょうか?」
雪彦は彼女の背中を見ながら、羽束に声をかけた。
「大丈夫だと思います。おじさまと孝子おばさまは仲はよかったですから」
彼女の表情は悲しみや慈しみが溶け合っていて、とても筆舌では形容できそうにもない。
彼らの後方からは、まだ那智の声が聞こえてくる。
ひと晩語り明かしたにもかかわらず、まだまだ元気のようだ。
夫人との思いがけぬ再会が疲れを感じさせていないのだろう。
うらやむような気持ちで雪彦がながめていると、遠くから子どもの声と足音が響いてくる。
よく分かっていなさそうな進一と千穂、それに面倒そうな顔をした四十歳くらいの男性だ。
「おじさま、お久しぶりです」
「ああ、羽束ちゃん。久しぶり」
その男性は眠そうに顔をゆがめつつ、羽束にあいさつを返す。
「話は聞いたよ。……急には信じられないが」
そしてそう言うと、視線を部屋の奥へと向ける。
「人形におふくろが宿るなんてなあ」
「どうぞ」
羽束は応じずに中に進むようにうながす。
那智の息子は特に逆らうことなく、千穂の手を引いて入っていった。
進一は好奇心を目に浮かべつつ、みやは息子に付き添うように続き、彼ら一家のあとを羽束と雪彦が歩く。
千穂はうれしそうにあちらこちらに体ごと向けてはしゃぎ、そのせいでなかなかまっすぐ進めなかった。
「おお、お前たちも来たか」
那智は息子夫婦と孫たちに気づいて振り返る。
顔には疲労がありありと浮かんでいたが、まだ声には力強さが残っていた。
「……おふくろ?」
男性が声をかけると、人形がすかさず反応する。
「善司? 善司なのかい?」
「ああ」
善司と呼ばれた男性は、人形の呼びかけにどう対応すればよいのか困っているようであった。
「おお……本当に善司の声だ……」
孝子の声が涙でこもる。
本当に人が泣いているとしか思えなかった。
「また会えた……顔が見えないのは残念だけど……」
「そうか。見えないのか」
善司はぽつりと言う。
「元気にしているかい?」
「ああ。子どももふたりめが生まれてね。女の子なんだ」
「まあ……」
感嘆のあまり絶句してしまったところで、彼は我が子に話しかける。
「ほら、ふたりともあいさつをして」
「ちほはね、ちほだよ!」
「秋葉進一」
千穂は明るく無邪気に、進一は無愛想に言ったが、孝子は大いに喜んだ。
「ああ……可愛い声だ。それにしんちゃんは大きくなったのだろうね」
「ばあば?」
幼女は不思議そうな声を出す。
小さい彼女はまだ何が何だか理解できていないのだろう。
「ああ、そうだよ、おばあちゃんだよ」
「そうなんだ」
ただ、それでも何も知らないからこそ、祖母の発言を疑わずに受け入れていた。
善司の態度に愛想はないものの、母との再会がうれしくないわけではないらしいことが見て取れる。
みやを入れて会話をしばししていたが、やがて善司が那智に声をかけた。
「ところで親父、時間があまりないと聞いたのだけど」
「時間がない? どういうことだね?」
那智がはじかれたように羽束を見る。
彼女は痛ましそうに一瞬目を伏せたが、決意をしたように毅然とした態度で口を開く。
「本来人の思念が、人形に宿るのはありえないことです。つまり、孝子おばさまにかかる負担は非常に大きいのです」
はっとしたような視線が三対、孝子が宿る人形に向けられる。
「いかがですか、おばさま。話すのがつらいといったことはありませんか?」
「……羽束ちゃんには隠しごとができないのね」
指摘が正しいと認める言葉が返ってきて、那智は大いにうろたえた。
「そんな、お前、あんなに楽しそうに……」
「だって、あなたとは二度と会えないと思っていたのですもの。……逃がせばこのような機会、二度とあるわけがないと必死だったの」
孝子の声は罪悪感に満ちていて、生者である夫から声を奪う。
善司とみやは暗い顔で目を伏せる。
「……このままだと孝子はどうなる?」
低い、絞り上げるような那智の声に、羽束はゆっくりと答えた。
「悪霊になってしまうか。自我を保てずに消滅してしまうか。どちらかです。いずれにしても、孝子おばさまが消えてしまうのは確実です」
彼女の声は冷淡ですらあったが、手は固く握りしめられていて、腕はぷるぷると震えている。
彼女もまた奥底から沸騰する己の感情を、懸命に抑えようとしているのだ。
「……本当なのか……?」
善司がうめくような声を出す。
その顔は悲痛にゆがみ、信じたくないという目に見えない文字が書かれている。
雪彦はようやく彼は単純に母の思念という存在を信じていなかったわけではないらしいと感づく。
「孝子は? 孝子はどうなのだ?」
那智はせかすように言う。
孝子はゆっくりと、自問自答しているかのように応じる。
「別れたくない……せっかく会えたのに……でも、どうせ消えるなら、私らしいまま、消えたい」
「ど、どうしよう。どうすればいいのだ」
老人は混乱し、頭を抱えて膝をつく。
みやと善司がふたりがかりでなだめなければならなかった。
「じーじ、どうしたの?」
祖父の言動を見た千穂が心配そうな声を出し、進一もそっと寄り添う。




