真夜中に泣く人形(5)
ふたりの会話内容はもっぱら秋葉家と羽束の思い出だった。
彼女の父と那智の息子も仲はよかったが、那智の息子は結婚が遅く子どもができたのも彼女が大きくなってからだったという。
「言われてみれば、差はありますね」
女性の年齢という部分だったため、雪彦の口はやや重くなったが羽束は気にした様子がない。
「娘のようにかわいがってもらったものです」
と遠くを見ながらとてもなつかそうに話す。
「家族同然という感じでしたね」
雪彦はさもありなんと合いの手を入れる。
千ヶ峰堂の仕事について半信半疑だという情報が疑わしく思えたほどだ。
しかし、空気を読んで指摘しないでおく。
やがてアラームが鳴り、時計が夜の十一時前を示すと羽束の空気が変わる、
おだやかな春の陽気から、山の深奥にある源泉の冷たさに。
「では参りましょう」
羽束は立ち上がって青いカバンを手に取る。
危険はないと那智たちに言っておきながらも、いざという時の物を置いていくつもりはないようだ。
油断は禁物、絶対はないということなのだろう。
この仕事に臨む姿勢は雪彦にもまねすることはできる。
油断したつもりはみじんもなかったが、いま一度気を引きしめようと思った。
ふたりが件の離れに続く廊下まで行くと、そこには那智老人の姿がある。
「来たね」
彼はおだやかに笑い、彼らを出迎えた。
「おつき合いしていただけるのですか」
羽束の問いを小さく首肯する。
「ああ。どうしても気になるからね。うちのやつの物は、一体どうなっているのか……」
老人はどこか遠くに思いをはせているようだ。
(言われてみればこの人の奥方……孝子さんの姿が見えないな)
と雪彦ははたと気づく。
おまけにここまで羽束の口からは一度も出たことがない。
なつかしそうな中に哀愁めいたものが混ざった那智の表情から、彼はうすうす察する。
「ええ。解決してからご報告いたしますね」
「よろしく頼むよ」
老人に見送られるようにふたりは廊下をつたって、物置部屋の前へやってきた。
黒い引き戸の前に立った時、羽束はぴくりと眉を動かし、その一瞬あと雪彦も感知する。
……中からは女の子の泣き声らしきものが、たしかに聞こえていた。
そればかりではなく、ぼそぼそと少女のような声もある。
声色はあきらかに違っていて、最低でも付喪神のような存在はふたついるようだ。
(そう言えば、笑い声らしきものを聞こえたんだっけ)
と那智の発言を思い返す。
羽束はそっと引き戸を右へスライドさせて、ゆっくりと足を踏み入れて電気をつける。
雪彦は後ろから続き、中に入るとすぐに彼女の左横に並ぶ。
足元にはフローリングが広がっていて、左右の脇には古くなったタンスや椅子などが整然と置かれていた。
目の前にはひときわ立派なタンスがあり、その上に赤い着物を着た日本人形がある。
その右のすこし離れた場所に羽束がお守りとして譲った人形もあった。
「あ、あの子が来たわ」
やや低めの少女の声が、泣き声を割るように響く。
意外なほどにはっきりとした声だが、雪彦が驚いたのはその点ではない。
彼が唖然としたのは、声の主は羽束が那智に渡した人形だったことだ。
それどころか人形は自ら体の位置を動かし、羽束の方を向けたではないか。
「ねえ、この子の話を聞いてあげて。お店にいた時、いつもあたしにしてくれたみたいに」
人形はつぶらな瞳でじっと見つめ、彼女にお願いをする。
彼女が指をさした先には赤い着物を着せられた一体の日本人形があった。
こちらの方は身動きしないが、シクシクという泣き声はたしかに漏れている。
(定期的な手入れは、人形の話を聞く意味もあったんだな)
雪彦はまたひとつ学習した。
一方の羽束は少しも動揺することなく、人形に対して微笑みかける。
「ええ、いいわよ」
と言うと、泣き声をあげている人形に近寄り、幼女に話しかけるように優しく声をかけた。
「どうしたの? 何があったのか、話してくれるかしら?」
彼女の声を聞いた人形の体がぴくりと震える。
そして思わぬことを言い出した。
「は、羽束ちゃん? 羽束ちゃんなの?」
これには雪彦はもちろん、さすがの羽束もとっさに反応できなかったようである。
それでも彼女は何とか自身を再起動させた。
「え、ええ、そうよ。あなたはどなたかしら?」
「わたしだよ、たかこだよ」
「なっ……」
彼女はうめいて絶句してしまう。
雪彦にしても言葉が見つからず、声を失った。
孝子とはちらりと名前が出てきた、那智の夫人だろうと予想できたからである。
「本当に……? ……いえ本当おばさまの思念なのね」
羽束は声を震わせながら、右手を人形にかざす。
そしてその気配に身に覚えがあることをたしかめた。
「分かるのですか?」
聞こうか迷ったものの、結局雪彦は聞く。
彼女は小さくうなずき、長い髪が揺れる。
「ええ。お会いしたことがある方であれば」
「よかった……やっと会えた」
孝子夫人の思念はうれしそうな声を出す。
話し方は落ち着いた年長の女性のものだが、声色自体は童女のようだからギャップがすごい。
「いったいどうなさったのですか?」
話しているうちに落ち着いてきたのか、羽束の声色は平常時のものに戻っている。
「分からない……気づいたらここにいたのよ。どうしたらいいのか分からなくて、泣いていたら声をかけてくれた子がいて」
それが羽束が那智に渡した人形だろう。
人形の力の影響を受けて、眠っていた孝子夫人の思念が呼び覚まされた……というのが今回の事件の概要に違いない。
雪彦が予測していると、孝子のすがるような声が響く。
「ね、ねえ羽束ちゃん、私はどうなったの? これからどうなるの?」
この問いはもっともなものだろうが、返ってくるのは沈黙だ。
さすがの羽束も即答できないのだろうか。
「まずは那智さんをお呼びしましょうか」
「え、会えるの? あの人に」
彼女の発言を聞いた孝子の声は、明らかに喜びにあふれる。
「はい」
応じた羽束のものは対照的に暗くなったが、孝子は気づかなかった。
那智を呼ぶために人形から距離をとった彼女に、雪彦は小声で問いかける。
「いいのですか、会わせても」
上手く言えないが、摂理に反したことではないかと感じたのだ。
「ええ……その方がいいでしょう」
答える羽束の表情はこわばっている。
やはり普通のことではないのだろう。
(それに知り合いなんだしな……)
冷静さを保つのが難しくても、仕方ないことだと雪彦は思う。
那智は引き戸からすこし離れた位置で待っていて、出てきた彼らに声をかける。
「おお、もう終わったのかい?」
言ってから羽束の表情に気づいたらしく、怪訝そうに眉を動かす。
「その件でお話があります」
彼女は一拍置いて深呼吸をしてから老人に話した。
「ま、まさか……うちのやつが……そ、そんなことが……?」
聞かされた那智は眼球がこぼれ落ちるのではないかと思うほど、大きく目を見開く。
老人は雪彦から見ても痛ましいほど動揺している。
「ほ、本物なのかい、羽束ちゃん?」
あえぐような問いかけに、羽束は「はい」と答えた。
「間違いありません」
「ち、千穂を……孫娘が生まれたことを教えてやりたい……進一も小学生になったと」
亡き夫人への思いは多々あるだろうが、口から漏れるのは孫に関することばかりである。
「行ってあげてください」
「あ、ああ……でもいいのかい?」
那智は歩き出そうとしてふと止まり、疑問を口にした。
彼女に注意されたことを思い出したのである。
「ええ。今回はわたしが一緒ですから」
羽束がにこりと言うと、老人は安心して部屋に入った。
足どりがゆっくりなのは年のせいばかりではないだろう。
ようやく彼は例の日本人形の前へとたどり着く。
「孝子、孝子なのか?」
声は震え上ずっていたが、はっきりと室内に響いた。
雪彦の目の錯覚でなければ、赤い和服の人形の体はぴくりと動く。
「あ、あなた……その声はあなたなのですか?」
孝子夫人の声には驚き、とまどい、そして喜びが混ざっている。
「ああ……本当にお前なのか」
那智も同様であった。
それを羽束と雪彦のふたりが、入り口付近から見守っている。




