真夜中に泣く人形(3)
その日は他に何事もなく、千ヶ峰堂はいつもよりすこし早く閉店する。
雪彦は一度帰宅してシャワーを浴び、夕飯を簡単にすませると青いリュックサックに着替えと歯ブラシを詰め込んで、再びアパートを出て七時四十五分には店につく。
羽束はすでに店の前に立っていて、暗がりの中街頭で映し出される美女という構図が、彼に幻想的な魅力を与える。
「お待たせして申し訳ありません」
小走りに駆け寄って雪彦が詫びると、彼女はにこりと微笑んで首をゆっくりと横に振った。
「いえ、わたしも先ほど来たばかりですし、この分ですと一本早いバスに乗れそうですね」
ふたりは並んで歩き出してバス停へと向かう。
「あ、持ちますよ」
雪彦は声をかけて彼女が左手に持っていた青いバッグを手にする。
右手のピンクのキャリーケースはおそらく着替えが入っているだろうからと、手は出さなかった。
「ありがとうございます」
羽束は礼を言い、他に人がいないバス停で立ち止まって携帯電話を取り出し、素早くメールを送信する。
おそらく那智の家の誰かにあてたものだろう。
彼女が携帯の操作を終えてしまったのを見計らい、雪彦は話しかけた。
「那智さんと千ヶ峰さん自身のつき合いは長いのですか?」
おそらくはそうなのだろうなと思いつつ、疑問を口にする。
那智という老人は彼女と親しそうに呼び合っているし、彼女を昔から知っている可能性は高そうだった。
あえて本人の口から聞いてみたいと思ったのである。
「ええ。祖父とは長年の友人ですし、わたしはもちろん、わたしの父が生まれた時もご存じなのですよ」
「それはすごいですね」
親族以外に自分の父が生まれた時も知られているとは、どういう感覚なのだろう。
彼は自分には想像もできない壮大なつき合いだと感じた。
「昔はよくおむつをかえていたとなつかしそうに言われると、すこし恥ずかしいですし、困ってしまいますね。まあわたしどころか、わたしの父もやっていらっしゃったようなのですけど」
彼女は眉間に若干しわを寄せ、困ったような恥じらうような表情で言う。
「は、はあ」
たしかにどう返せばいいのか、難しい発言だなと彼は思った。
父子二代にわたってとなると、相当に親密なのだろうくらいしか言葉が浮かんでこない。
彼らが乗り込んだバスの行き先は、閑静な住宅街がある路線だった。
乗客は会社からの帰りだと思われる男女で、みな疲れたような顔をしていて、会話そのものが迷惑となってしまいそうな空気である。
羽束と雪彦はちょうどあいていた右側のふたり用の座席に行き、窓側を彼女が陣取った。
その横を彼は占拠したものの、車内の空気に負けてそれっきり無言となる。
どこで降りるのか聞かなかったため、羽束が動くまでぼんやりと携帯電話をさわっていた。
四十五分ほど経過したところで次の停留所の名前が車内アナウンスで告げられて、彼女が降車ボタンを押す。
「次で降りますね」
彼女の小声でのささやきに、黙って首を縦に振る。
降りる客はふたりだけで、地面に足をつけた雪彦の眼前には住宅の高い塀がそびえていた。
周辺の家はすべてそれなりの広さの庭がある二階建て、あるいは三階建てのようである。
(富裕層が多いらしいもんな、この辺り)
話に聞いただけだったが、ぱっと見た感じでは嘘ではないようだ。
無言でうながしてきた羽束のあとに従い、彼は進んでいく。
彼女が立ったのは街灯に照らされる秋葉という表札が出た家で、この時初めて彼は那智という名前が苗字ではなかったと知る。
左側手前には白いガレージがふたつ並び、右手には倉庫らしき建物もある。
羽束は迷わずインターホンを鳴らし、対応した人に名乗って用件を告げた。
「いつもお世話になっております。千ヶ峰堂の羽束です。異変が生じたと聞いてやって参りました」
「ああ、羽束ちゃん? 話はおじいちゃんから聞いているよ。入ってきて」
対応した女性らしき人は、まるで娘の友達が来たかのような対応をする。
あれっと雪彦が思うのをよそに、彼女は彼に微笑みかけて門の開けて手招きをした。
流されるようにあとに続き、子ども同士であればサッカーやドッジボールをやれそうな広い庭を通過し、暖色系の扉の前に行く。
彼女がノックするよりも先に扉は開いて、中から三十代くらいの丸々した女性がにこやかな笑顔を見せる。
「いらっしゃい、羽束ちゃん。久しぶりだね。またきれいになったんじゃない?」
「お久しぶりです、おばさま」
羽束ははにかみ笑いであいさつを聞き流して、雪彦を紹介した。
「こちらは最近、うちのお店に入った藤無さんです」
「藤無雪彦です、よろしくお願いいたします」
それに合わせて彼が名乗って頭を下げると、女性は両手を叩き大きな声を立てる。
「まあ! ついに店員が増えたとは聞いていたけど、男の人だったの! 羽束ちゃんにもとうとう男の影がっ!」
「おばさま、何の話をしていらっしゃるのですか」
羽束はおろおろとたしなめようとしたが、彼女はろくに聞かずにひとりで盛り上がっていた。
雪彦もどうすることもできずに呆然と立っているしかない。
そこへ様子を見に来たらしい那智老人が、彼女の高速会話を制止する。
「みやさん」
「あら、おじいちゃん」
義理の父のひと言で冷静さを取り戻したらしい彼女は、慌てて若いふたりに謝った。
「ごめんなさいね、私ったらつい」
微苦笑で受け入れたふたりを、みやは家の中に通してくれる。
「羽束ちゃんは何回か仙丈さんに連れられて来たことがあったわね?」
「ええ。でも久しぶりです。最後にお邪魔したのは、高校生のころだったかしら」
羽束はなつかしそうに目を細めた。
一方、背後の雪彦はと言うと
(あのご老人が息子夫婦は半信半疑だと言っていたから、冷たい対応もあると思っていたんだが)
とやや拍子抜けしている。
てっきりうさんくさそうなものを見る冷たい視線の雨が待ちかまえているのではないか、と危惧していたのだ。
考えてみれば祖父同士が親しいのだから、その子ども世代同士も親しいのはありえた話である。
(泊めるをってそういう意味もあったのか)
雪彦はひと晩かかるかもしれないと解釈したのだが、これだけ仲がいいならば別の意味だったのだろう。
「さて、どうする、羽束ちゃん? 孫たちに話を聞いてみるかい?」
「はい、お願いします」
老人に聞かれた羽束は即答した。
「ああ、じゃあ子どもたちを呼んでこなきゃ。応接間で待っていてくれる?」
みやはそう言い残してきびすを返す。
那智は苦笑しながらふたりを客間に通してくれた。
客間は長方形のテーブルを囲むように白いひとり掛け用のソファーが置かれていて、上からは派手なシャンデリアがぶら下がっている。
向かって左手側には床置き型のエアコンがあり、右側はカーテンが閉められていた。
「羽束ちゃんは仙丈さんとここに来たことはあるだろう。まだ覚えているかい?」
老人に話しかけられた羽束は感慨深そうな顔で、室内をきょろきょろと見る。
「はい。なつかしいですね」
「ああ、席どうぞ」
那智にすすめられて彼女と雪彦は奥の席に腰を下ろす。
「どうだい? 昔と何か変わった感じはするかい?」
老人が問えば羽束はそっと目を閉じて、家の中の気配を探る。
「ええ。以前は弱く不安定な気配でしたが、いまはあたたかくてしっかり大地に根を張ったような気配になっています。あの子は見事、この家になじめたようですね」
目を開けて彼女が応じ、彼はほっとしたような顔になった。
「そうかい。そりゃよかった。私がよかれと思って持ち帰った人形が、かえって事態を悪化させてしまったのかと思ったよ」
「ごめんなさい。説明不足でしたね」
羽束は申し訳なさそうに己の未熟さを詫びる。
「いや何の、どちらかと言えば私の早とちりだろう」
老人は年を感じさせるものの、まだまだ力強さの残った声でカラカラと笑い飛ばす。




