なぜ雨に降られても濡れないのか?(2)
月夢荘から少し歩けばお好み焼き屋と串カツ屋があり、さらに数分かけると居酒屋、うどん屋、創作和食料理店と選択肢が広がっていく。
雪彦が自分の懐と相談すれば大体うどん屋になる。
というのも、ここのうどん屋はかけうどん一杯二百円、おにぎり二個百円という安さだからだ。
おまけに野菜とわかめと卵が入ったボリュームうどんで四百円、替え麺が一杯五十円である。
金がない時はおにぎり二個だけでしのぎ、少し余裕がある時はボリュームうどんを頼む、というのが雪彦のパターンだった。
彼がのれんをくぐるとやわらかく低めの女性の声が出迎えてくれる。
「いらっしゃい。藤無さん」
店の中はあまり広くなくカウンターに八席、四人がけのテーブルがふたつだけだ。
全体的に古めいているものの、どことなくほっとする内装である。
雪彦にしてみれば値段を抜きにしても通いたくなる店のひとつだ。
すっかり顔なじみとなった雪彦を出迎えた割烹着姿のおかみさんは、お冷やの用意をしながら確認する。
「今日はボリュームうどんでいいかい?」
毎月この日は給料日の後だから、ボリュームうどんを頼むのが常であり、おかみさんも把握している。
「いや、かけうどんとおにぎり一個で」
ところが雪彦はおかみさんの予想を裏切った。
「あいよ。かけ一丁、おにぎりひとつ! どうしたんだい?」
おかみさんは店の主人に注文を伝えてから、怪訝そうにたずねる。
彼女の年齢は大家の板屋と同じか、少し下くらいだろう。
素朴なおふくろさんといった表現がぴったりとくる容貌と性格ゆえか、詮索まがいのことをされても雪彦は不快にならない。
「いや、ちょっと節約しようかと思って」
彼がとっさに言い訳を口にすると、おかみさんは笑い出した。
ガラスのコップに入った氷水を赤いカウンターに置きながら、たしなめるように言う。
「何を言うんだい、藤無さん。節約したいなら外食ばかりしてないで、自炊を覚えなきゃだめだよ。まあ、こういう商売をしている人間が言うことじゃないけどね」
「ごもっともです」
雪彦は身を縮めながら応じ、水をひと口飲む。
いくらこの店が安くとも、自炊するほどではない。
おかみさんの言い分は実に正しいと彼は思う。
いつもならばもうふた言くらい耳に痛い言葉が飛んでくるのだが、今日は他にも客が来たためおかみさんはそちらに対応する。
少しだけホッとしたというのが雪彦の本心だった。
頼んだ品が来るまでの間、ぼんやりと店内をながめる。
カウンターの一番端、入り口側に座ったものだから、視界に入るのは飲み物が入った冷蔵庫の透明なガラスくらいだ。
この店は飲み物も安く設定されているが、今の雪彦には心理的ハードルが高い。
正社員として働いていた時は、ビールの一杯は注文したものだが。
湯気が立ったかけうどんと三角おにぎりが一個、赤茶色のお盆に乗せておかみさんが運んでくる。
「お待ちどうさま。ゆっくりしていきなさいね」
「ありがとう」
割り箸を割ってまずはおにぎりを食す。
巻かれたのりはしっとりとしていて、塩味が利いた白米は口の中でほつれる。
猫舌の人にはつらい熱さだが、雪彦にしてみればそれが好ましい。
うどんの麺は細くつるっとしていて、一気に食べ進められる。
彼は食に対してあまりこだわりがなく、腹がふくれる方が重要だった。
値段の割に麺のボリュームが多いのも、この店の素晴らしい点のひとつである。
たいらげてしまうと雪彦は勘定をすませて店を後にした。
これからの時間帯が一番混むと知っていて、配慮したのである。
店の外に出れば生ぬるいという表現がよく当てはまる空気が肌に触れた。
離れた通りはまだまだ人が行き交っている。
今から帰宅するという人も多いのだろう。
少し離れた場所にいるだけなのに、別世界の住人を見ているようになってしまったのは、昼の不思議な経験のせいだろうか。
心の中が黒く分厚い雲に覆われていくのを実感し、雪彦はそそくさと帰宅する。
アパートの扉を閉めてカギをかけると、シャワーを浴びてもう一度眠ることにした。
起きていてもネガティブなことばかり考えてしまいそうだったから。
次の日、七時に起きた雪彦は徒歩六分の距離にあるコンビニに行き、菓子パンひとつとおにぎりひとつ、ペットボトルのお茶を買う。
「お、藤無くん、おはよう」
レジをやっているのは店長兼オーナーで、彼の雇用主でもある。
彼の経歴を見てもうるさく聞かず信用してくれたありがたい人物だった。
「おはようございます、オーナー。食べたら着替えて入りますね」
「よろしく頼むよ」
簡単なやりとりをすませて、バイト用の更衣ロッカーに行く。
この店は早朝客が少ないのだが、バイトの数も少ない。
オーナーは夜勤明けのはずだから、できるだけ早く入ってフォローした方がいいだろう。
お茶でパンとおにぎりを流し込み、大急ぎで着替えてからオーナーのところへ行った。
九時を回るともう一人、女子大生のミカがやってくる。
「おはよーございまぁす」
明るく間延びした声が響くと、店内が華やかになるように思えるあたり、雪彦も男だ。
茶髪のショートヘア、童顔で愛らしい顔はたしかにこの地域のマドンナと言えるが、あいにくと彼氏持ちである。
彼氏に関するノロケと愚痴をよく聞かされている人物の名を、藤無雪彦というのだ。
「今日は午後の五時までですかぁ?」
客が途切れたタイミングでミカに話しかけられ、彼はうなずいて答える。
「うん。もう少し働きたいんだけど、オーナーが許してくれないんだよなあ」
オーナーはコンプライアンスに非常にうるさく、無駄な残業はさせないうえに一分単位で残業代を払ってくれるし、休みもきちんとくれるのだ。
本来ならばありがたいかぎりで文句を言えば罰が当たりそうなのだが、少しでも残業代を稼ぎたい雪彦にとっては喜んでばかりはいられない。
バイトの掛け持ちを認められているのが、せめてもの幸いだ。
「大変ですねえ」
ミカはそう言ったものの、彼に同情してはいないようである。
事情を話していないのだから、自分の都合で社員を辞めてフリーターになった男としか思っていないのだろう。
雪彦だって立場が逆であればおそらくは同情しなかったため、彼女をとがめる気にはなれなかった。
昼過ぎになってくると若い男たちが何人もやってきて、ミカがいるレジに並ぶ。
分かりやすすぎるというものだし、ミカが気づいていないはずはないと思うのだが、本人は愛想いい対応をしている。
多くの客がミカのレジに並んでいるだけで無害なのだから、雪彦としても店としても何もできなかった。
客が引けてしまうと休憩時間に入るが、先に休むのは彼の方である。
「相変わらずの人気だね」
ロッカ―に引き上げる時に彼が言うと、ミカはにっこりと笑っただけだった。
自分の魅力を理解している女の表情だと雪彦は思う。
昼飯はと言うとコンビニで買ったものである。
外に食べに行くだけのヒマがないのだから仕方ないのだ。
手早く食べ終えてミカと交代する。
客の方も大体どの時間帯になると彼女が休憩に入るのか心得ているもので、雪彦が一人でいる時はヒマになりがちだった。
だからと言って楽できるかというとそうでもないのだが。