真夜中に泣く人形
セミの鳴き声がそうぞうしいある日、いつぞやの那智老人がやってくる。
彼は表情に困惑を浮かべながら羽束に声をかけた。
「やあ、羽束ちゃん。すこしいいかな?」
「いかがなさいましたか、那智さん」
羽束は青磁の花びんを磨いていた手を止めて尋ねる。
「実は先日もらった人形の件なんだが……」
「えっ? あの子に何か問題が?」
彼女が目をみはったのも無理はない。
管理していて販売した品が何かトラブルを起こしたとなると、店の責任問題だ。
那智老人は手を振って否定する。
「いや、そうじゃないよ。ただ、無関係じゃない気もするから、こうして相談に来たのだよ」
「はい。お話をうかがいますね」
羽束はカウンターの前に椅子を持ってきて、老人に座るようにすすめる。
それから自分もカウンターの椅子に腰を下ろす。
雪彦はふたり分のお茶を持ってきて、カウンターの上に置いてからそっと老人の背後にひかえる。
こういう相談事がやってきた場合は、できるだけ一緒に聞いた方がよいと羽束に言われているからだ。
「ふむ、どこから話した方がいいだろう?」
那智老人が迷いを口にすると、羽束は優しく言う。
「できればあの子を持ち帰った日からでしょうか。あの子に原因があるかもしれないと、那智さんがお考えになったのは、それだけの理由があるからでしょう?」
「うむ、それじゃあそうさせてもらおうか」
老人は若干歯切れが悪かったが、言われたとおりに話し出す。
「あの日、人形を持ち帰ると、離れの物置部屋に置いたのだ」
那智老人の物置部屋には由緒正しいと伝わっている品々、彼や彼の父、祖父が集めてきたもの、彼の夫人の嫁入り道具が雑多に並べてある。
「伝統の品とただの収集品を一緒にするのもどうかと思うが、泥棒の目にとまるようなまねはしたくないしな」
自分の趣味の品ならば盗まれてもあきらめがつくが、夫人の思い出の品や父祖伝来の品は万が一の事態も避けたいという。
「どこに置かれたのですか?」
羽束は人形の具体的な位置を気にする。
「ああ。家内が持ってきた、古い人形の隣だよ。ふたつ並べたらさびしくないかと思ってね。仙丈さんも人形同士はなるべく近くに置きあう方が望ましいと、言っていたし」
老人の言葉に彼女はこくりとうなずく。
「人形は仲間の気配に敏感ですからね。離れた場所に置くよりは、すぐ隣に置いた方がよかったと思います」
「そうだよね」
那智はほっとした様子で肩を下げ、続きを言う。
「その日は何ともなかったのだがな。二日後、孫娘がトイレに起きた時、離れから誰かが泣いているような声が聞こえたと言い出したのだ。息子夫婦は取り合わなかったし、私もまさかと思ったのだがね」
それもその翌日、また孫娘が同じことを訴えた。
両親は信じてくれないと幼いなりに考えたのか、祖父である那智に「あのね」とささやきかけたのだ。
「私は孫のことは信じたものの、原因が分からないし、そもそも譲ってもらった人形か、別のものかさえも分からなかったからね。少し様子を見てみようとしたのだ」
孫娘には「お人形さんがさびしくて泣いているのかもしれないから、優しく見てあげよう。おじいちゃんにだけこっそり教えて」と言ったという。
心優しく無邪気な少女は祖父の言葉を素直に信じたらしく、彼以外には何も言わなくなる。
ふたりのないしょ話を家人が気づかないはずがないものの、ふたりだけの遊びでもやっているのだろうと放置されていた。
「しばらくしたら、今度は上の孫が気づいたらしくてね」
上の方はいま小学四年生の男子で、なかなか利発だがやんちゃなところがあるという。
彼は幼い妹とは違い、異変に気づいてすぐ両親のところに逃げ帰るようなことはしない。
むしろ具体的にどのようなことが起こっているのか、たしかめてやろうと子どものながらの勇気を奮い起こした。
彼はあろうことかこっそりと廊下を渡り、物置部屋の扉をそっと開けたのである。
「進一が……孫が言うには、自分と同じくらいの年の女の子のような泣き声が聞こえてきたのだそうだ」
シクシクという声がどこからともなく室内に響き、少年の勇気よりも恐怖心が勝ってしまった。
彼は扉を閉めるのも忘れて逃げ出し、両親の寝室に逃げ込む。
進一少年を叱る夫婦を那智老人はたしなめて、彼に話を聞いたという。
「どこから聞こえてきたから分からなかったというから、今度はおじいちゃんと一緒に見てみようと言ったのだ」
息子夫婦は当然のように渋い顔をする。
彼らは那智老人とは違い、あやかしなる存在をあまり信じていなかったからだ。
ただ、老人の意見を声高々に否定することもなかった。
「進一と私は必ず一緒にいる。起きているのは深夜の零時までという条件はつけられたがね」
彼はお茶を飲み、続きを言う。
「十時過ぎくらいから離れのそばの廊下に待機していた。夏だったから暑いくらいだったね。一時間半が経過して、何事もないのかと思いはじめた矢先に、女の子の声の泣き声が聞こえてきたのだ。進一は怖がって動かなかったから、私は一人で部屋の扉を開けてそっと中を見てみた」
興奮がたかまってきたのか、老人はもう一度お茶を口にする。
「するとどうだろう。ばあさんが持ってきた人形がある方向から、例の泣き声が聞こえてくる。それだけではなく、笑い声らしきものも一回聞こえた。私が誰かいるのかと声をかけるとぴたりと聞こえなくなってしまったのだがね」
那智老人がそこまで語ると、羽束は顔をくもらせた。
「何事もなくてよかったですけど、本来それは危険な行為ですよ? わたしに言う資格がないかもしれないのですけど」
「いやいや、羽束ちゃんには怒られると思っていたよ。じつは昔、仙丈さんにも似たようなことを言われたからね」
那智老人はバツが悪そうな愛想笑いをする。
「まあ!」
羽束は言葉にこそしなかったものの、非難めいた視線を彼に向けた。
危険があるかもしれないと承知で、しかも孫を連れてやったのだから、彼女がとがめるのは無理ないと雪彦は思う。
「すまない、羽束ちゃん。もらった人形を近くに置いたのだし、大丈夫だろうと」
那智老人は右手を額に当てて言い訳をする。
「それでも危ないことに違いはないですよ。あの子でも守り切れない恐ろしい存在だったら、どうするのです?」
羽束の表情はいつになくけわしく、言葉は鋭い。
「失礼ながら那智さんでは、何がどれくらい危険なのか判断できないでしょう?」
「そうだね……本当にすまなかった。汗顔の至りとはこのことなのだろうね」
彼女の言葉を重ねて聞いた老人は、ようやく自分が危ない橋を渡ったと気づいたようだ。
「ええ、本当にご無事でよかったです」
彼女の顔からはもうけわしさは消え、いつもの優しい光が戻っている。
黙って聞いていた雪彦は疑問を抑えきれなくなってきた。
客である那智老人が知っているのであればともかく、よく知らないとなると聞いてもかまわないだろうと言葉に出してみる。
「人形っていうものはそこまで恐ろしいものなのですか? お守りとなるものが近くにあったとしても?」
老人は「わが意を得たり」とばかりにうなずき、羽束をじっと見つめた。
「私も人形というものは仙丈さんからは、それとなくしか聞いていなかった。よければもうすこし、踏み込んだことを教えてもらえないかね」
「……分かりました」
彼女はやや迷ったようだったが、やがて首を縦に振る。




