周囲には聞こえない騒音(前編)
今日もまた雪彦は千ヶ峰堂へ通う。
商売の性質からか、土日祝も休まずに店は開いている。
彼はと言うと毎週二日、希望した日を休めるほか、一年単位での休日が百二十二なるように調整をしてもらえるという。
では店や羽束はどうするのかと言えば、彼が休む日が休みになるのだ。
これはまだ彼がひとりで留守番をできる段階に達していないせいで、彼がひとり立ちできれば彼女もまた自由に休める。
「おはようございます。藤無さん、今日も頑張りましょうね」
朝一番、羽束のあいさつに彼は笑顔で応じた。
「頑張ってください」ではなく「頑張りましょう」である点がいいと雪彦は思う。
同じ仕事をする仲間だという意識を持てるからだ。
彼が任される仕事はやや増えて、店に置かれている物品の手入れ、在庫数の確認などもある。
そして今日は手入れをおこなう日だった。
乾いた布を用いて順番に拭いていく。
果たしてこのやり方で正しいのか彼には分からないが、そもそもここに置かれている品々は通常のものとは違う訳アリだろうと自分に言い聞かせる。
何十もの品々を拭き終わったところで、ひとりの客がやってきた。
山吹色の十徳に藍色の丹前という人目を引く姿の老人は、とても気やすい様子で羽束に声をかける。
「やあ、羽束ちゃん、頼んでいたものを取りに来たよ」
「ああ、那智さん。ちょうど手入れをしたところですよ」
彼女は親愛がこもった笑顔で応じ、最初に自分が手入れをした小さな日本人形を老人に渡す。
しわがれた手で受け取った彼はうれしそうに目を細める。
「ああ、これだよ。ようやく来てくれた。ありがとう、羽束ちゃん。お代はこの通り」
左肩にかけていた革鞄から、白封筒を取り出して彼女に差し出した。
中身をささっとたしかめて彼女はにこりと微笑む。
「たしかに頂戴いたしました。ご愛顧感謝いたします」
「いや、なになに。こうしたことを頼めるところなんて、この店くらいのものだからねえ。ありがたいよ」
ニコニコと上機嫌で話す那智老人は、ようやく雪彦の方に目をやって彼女に尋ねた。
「おや、彼は新入りかい?」
「はい。藤無さんと言って、なかなか将来が有望な方なのですよ」
「ほう? この店に店員が入るなんて、実に珍しい」
よほど物珍しいのか、老人は意外そうに声を高めると、雪彦の姿をじっくりと無遠慮にながめる。
動物園のパンダを見る子どものような目つきに、居心地の悪い思いをさせられたが、常連客ともなると我慢するしかないと我慢した。
「あの、那智さん」
見かねたように羽束が老人に声をかけて制止する。
「おっと、これは失礼」
老人の方は素直に詫びたため、雪彦は「いいえ」だけ答えておく。
「何分、羽束ちゃんと仙丈さん以外の人がここで働いているのは、初めて見たものでな」
それならばたしかに希少な珍獣を見たような反応になったのは仕方ないことだ。
雪彦は多少の理解を示したが、声に出したのは聞き覚えのない名前に対してである。
「仙丈さん?」
「あ、わたしの祖父です。千ヶ峰仙丈といいます」
羽束が素早く説明し、那智は大きくうなずく。
「仙丈さんと私はお互いが物心がつくかどうかの頃からの付き合いでね。もう七十年にはなるかな。互いのつれあいよりもよく知っているし、互いのつれあいに先立たれた老い先短い者同士なのさ」
深い年月を思わせるしわと視線を雪彦に向けながら話す彼に、彼女は慌てたように言う。
「いやですわ。祖父にも那智さんにもまだまだ長生きしていただかなくては」
那智は一瞬目を丸くしたものの、すぐに笑い出す。
「ははは、そうだな。羽束ちゃんみたいな可愛い孫娘がいれば、そう簡単には死ねないよな」
笑いを引っ込めると意味ありげな視線を雪彦に向ける。
「いや、ひ孫でも見たら、往生しやすくなるかな?」
「な、那智さん! 何のお話ですかっ!」
羽束は彼女にしては珍しく大きな声を張り上げたが、気持ちは彼にも理解できた。
「ごめんごめん。じゃあまた寄らせてもらうよ」
那智老人は悪びれずに謝ると退散する。
羽束はぷんぷんという擬音語をまといながら彼を見送ったあと、勢いよく雪彦の方に向きなおった。
「藤無さん、那智さんがおっしゃったことはお気になさらないでくださいね。あの人、すぐにああやってわたしをからかうのです」
「は、はあ」
実のところ彼としては別に不愉快ではなかったのだが、とても言い出せるような空気ではない。
しかし、幸いなことにほどなくして羽束は冷静さを取り戻す。
咳ばらいをしたのは気持ちを切り替えるためのスイッチだろう。
「し、失礼いたしました。そろそろ業務に戻りましょうか」
「そうですね」
ふたりは油が切れた機械のようなぎこちない動作で、やっていた仕事を再開する。
気まずい雰囲気が消えるためには、昼休みまでの時間経過が必要だった。
交代で昼を食べたころには何とか元通りになり、雪彦としてはひと安心となる。
おかげで次のような質問ができた。
「あの小さな人形、何に使うのでしょう? この店に置いてあったものだから、何かあったものだと思うのですが」
「ああ。あれはお守り人形ですよ。人形はさまざまな災いを退けるお守りになりますし、いざという時、持ち主の身代わりにもなってくれるのです。那智さんはまだ小さなお孫さんのためにお求めでした」
「へえ、そうだったのですか。言われてみれば、まじないの時に人形を使う話は聞いたことがありますね」
雪彦が目を軽く見開いて合いの手を入れると、羽束は真剣な面持ちで言う。
「はい。人間に近い形のせいか、人間の思念が入り込みやすいと言われています。愛着を持って大切にしていれば頼りになるのですが……」
彼女の語尾が歯切れ悪くなったのは何か理由があるのかもしれない。
踏み込んだ質問をしてもいいのだろうが、何となく言いにくかったため、雪彦は口を閉ざして手を動かす。
それ以上は特に客も来ない、いつもの一日が過ぎていく。
数日後の午前中、赤い鞄をさげた一人の女性客が困惑した顔つきで店にやってきた。
羽束の顔は一瞬こわばったが、雪彦にも理由は分かる。
茶髪のボブヘア、青いサマーセーターに黒パンツ、白いスニーカーという服装のまだ若い女性は、よからぬ気配をまといながら開口一番に言う。
「あのう、この千ヶ峰堂というところでは、不思議な出来事の相談に乗ってくれると聞いてきたのですが」
「はい。わたしがおうかがいいたします」
羽束が愛想よく応じると、女性は不安そうな色合いを深める。
(二十歳前後にしか見えないもんなぁ)
と雪彦は先輩店員の外見について思った。
実際の年齢は聞いたことがないから分からないのだが、客にしてみれば自分より若い店員がどれだけ頼りになるのか、という疑問を抱いたのだろう。
「あのう、頼ろうとして訪ねてきたのにして大変失礼なのですが、ベテランの方はいらっしゃらないのでしょうか?」
「店主の祖父はあいにくといま不在でして、わたしが留守を預かっております」
おそらくこれまでに何回も似たようなことを聞かれ、答えてきたに違いない。
雪彦がそう直感したほど、羽束の説明は言い慣れたものだった。
「は、はあ、失礼ですがおいくつなのでしょう? ご経験はどれくらい……?」
探るような視線と懐疑的な声が羽束に向かって飛ぶ。
「わたしはいま、二十二歳です。経験……不思議な体験ならば物心のついた頃からでしょうか」
真剣な態度で彼女が答えると、女性客はハッとした顔で頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。私ったら、とても失礼なことを聞いちゃって」
「いえいえ、まだ若輩者ですから、不安になるお気持ちは分かるつもりですよ」
羽束は少しも不愉快そうにはせず、相手に対して理解を示す。
そのせいか若干緊張がほぐれてきた表情で、客は口を開く。
「ありがとうございます。私は内浦ことみって言います。二十六歳でOLをやっています」
内浦と名乗ったどこかくたびれた様子の女性は、自分がやってきた理由を話しはじめる。




