食べると空腹になるフルコース(3)
例の店プレズィールは、国道から一本ずれた位置にある地味な印象の店である。
白い欄間看板に赤い文字で店名が書かれているが、他に人目を惹く要素は見られなかった。
雪彦が足で稼いだ情報によると、近隣ではなかなかいい店だという評判で、派手な宣伝をしなくともやっていけているらしい。
安藤が違和感を覚えた食事のあとに、大きく評判が変わったということもないようだ。
たまに「何だか食べている最中なのに逆に腹が減った気がする」と思った人がいたが、「コース料理は満腹にならないもの」と気にしていないという。
そして雪彦が見ても羽束が見ても、店にあやかしが住んでいる気配は感じられない。
「難しいですね。一応他にも経験者がいないわけじゃないみたいですが、誰がそうなのか分かりません」
彼が渋面を作って言えば、彼女も仕方なさそうな顔で応じる。
「この手の調査は警察の方がずっと得意ですからね。わたしたちでは、このお店で食事をしたお客さんの情報を得ることさえままならないですから」
国家組織と民間人の埋められない差というやつだ。
「ではどうすればいいのでしょうか?」
雪彦が聞いたのは別に意地悪ではない。
こういう時の対処法を知りたかったからだ。
「とりあえず、夜まで待ってから出直しましょうか。日中は活動していないあやかしというのは、決して珍しくないので」
「分かりました」
羽束の発言を刑事の張り込みみたいなものかと彼は解釈する。
近くの店で時間をつぶすのかと思いきや、一度店に帰るという。
小さな店だから機会損失はできるだけ避けたいというのは理解できた。
(俺が一人前になれば、片方が張り込んでもう片方が店番って風に役割分担できるようなるな)
いまはまだ足手まといかもしれないが、いつかはという想いを胸に抱く。
店に帰っても客はひとりもやってこなかった。
交代で昼食を摂りに行き、やがて店じまいの時間を迎えて羽束は雪彦に声をかける。
「藤無さん、所定時間外労働になってしまいますが、お付き合いいただけますか? もちろん手当はお支払いいたします」
「もちろんです。今回の件の真相、気になって仕方ないのです」
力いっぱい言いつつ、おどけた表情を作って見せると彼女は吹き出す。
口元を白い手で隠しながら、彼女は言う。
「ごめんなさい。ですがその気持ちの持ちよう、この仕事をするうえでは大切ですよ。わたしが思っていた以上に向いていらっしゃるのかもしれませんね」
「そうなのですか」
雪彦は仕事関係で「向いている」と言われた記憶がこれまでになかった。
何やら認められた気がして、ほんの少しだけうれしくなる。
日が暮れてから再び訪れてみれば暗がりと電灯の明かりのマジックか、同じ場所なのに大きく様変わりしているように映った。
道歩く人も買い物帰りの主婦や学校帰りの学生が多かったのが、会社帰りの勤め人たちが多くなっている。
雪彦と羽束は店から離れた位置で、くもりガラスからこぼれる光を見守っていた。
不意に彼女のきゃしゃな肩がぴくりと震え、遅れて五秒後に彼もまた気づく。
彼からすれば注意をしてようやく感じる程度だったが、たしかに気味の悪い気配が生まれている。
「藤無さん、感じますか?」
羽束が正面を見すえたまま小声で問いかけてきた。
「はい。集中してかろうじて、といったところなのですが」
雪彦が率直に打ち明けると彼女は口元をほころばせる。
「練習の成果ですね。それなりに離れた場所に現れた、小さな気配を感じられるようになったのですから」
「そ、そうですか」
成果が出たと言われれば彼もうれしい。
残念ながらはっきりと実感できたわけではないが、千里の道も一歩からなのだ。
彼はそっと羽束にたずねてみる。
「何か分かりそうですか?」
「いいえ。これは難しいですね」
彼女は目を伏せて首を横にふった。
この反応に雪彦はちょっと目をみはる。
そして彼女ならばすぐにでも分かるだろうと安易に決めつけていたと反省した。
ただ、何がどう難しいのか彼にはまだ分からない。
羽束はそれを承知しているからだろう、教えてくれた。
「わたしの憶測じみた疑念がより強まったのはたしかです。怨霊のたぐいにしては感じる気配が弱いですから」
「と言うと?」
彼が続きをうながすと、彼女の視線が彼の方に向けられる。
「藤無さんはまだ、あやかしとそれ以外の区別がつかないのでしたね」
その紅唇から飛び出したのは謎めいた言葉だった。
「うん……? どういうことでしょう?」
雪彦が首をかしげると、羽束は笑みを消す。
「失礼、おってご説明しましょう。ただ、その前にもう少し調査を行いたいですね。まだ確信を持てたわけではないのですから」
何とも慎重なことだと彼は思う。
しかし、誰から見ても動かぬ証拠が出てくるような世界ではない。
さらに捜査協力を求めることも難しいとなると、慎重になるしかないのかもしれなかった。
彼女の仕事の姿勢こそお手本にするべきなのだろう。
行きかう人に放たれる奇異な視線の数々にも負けず、彼らはじっと外で待ち続け店内に客が入るのを見送っていく。
時間が経過にしたがい、出てくる人も目立ってくる。
彼らの大半は満足しているようだったが、中には怪訝そうな表情の中年男性がいた。
「おいしかったけど、コース料理を食べたら逆に腹が減るって変な話だよなあ」
奥方らしい隣の女性が、夫の声に意見を言う。
「そうは言ってもあなた、コース料理ってそういうものじゃない? けっこうな量を食べたはずなのにそれを感じさせないなんて、それだけここのシェフが素晴らしいのよ」
「そういうものなのかなぁ」
夫の方は妻の発言に釈然としない様子だったが、それでも我を通そうとはせずに口をつぐむ。
彼らの知識では他に説明がつかないのだから無理もない。
しかし、雪彦には夫の方にわずかな黒いもやのようなものがただよっているのを感じとれた。
「千ヶ峰さん」
真剣な顔で声をかけると、羽束も小さくうなずく。
「ええ。しかし、彼は憑かれていません。いまのは残滓のようなもの。にわかに信じがたいですが、お店の中で憑かれ、出る時に離れたと考えるのが最も自然な状態です」
憑いた者に飢餓を与えるタイプは強い恨みを抱き、己の仲間を増やすことこそが行動原理だとするならば、たしかに不可解である。
考え込む彼に対して羽束は自説を明かす。
「一時的な飢餓を与えるのが目的だとすれば、説明はできるのですが、この場合誰が何のために? という異なる疑問が浮かぶのです」
彼女の表情と声色からこれまで黙っていた理由が、この点が分かっていないからなのだろうと雪彦は推測した。
「たしかに奇妙ですよね。素直に考えるなら、店へのいやがらせでしょうか」
彼が予想を口にすると彼女はそっと首を横に振る。
「違うと思います。いやがらせ目的だったら、お店の外に出てからも憑いたままでしょう。そうすればこのお店で食事をしてから調子がおかしくなったという評判が立ちますから」
「あ、なるほど……」
雪彦は己の安直な考えを恥じ、ぽりぽりと後頭部をかく。
他にどのような理由が考えられるのだろうと知恵をしぼったが、一向に思いつかなかった。
相手が人間であればともかく、あやかしの動機となると一気に難易度が上昇してしまうのだが、彼はそれは言い訳だと思う。
いままでは無知なままでもよかったが、千ヶ峰堂で働く以上は分かるようにならなければいけない。
しかし、いつまでも考え込んでいるわけにもいかず、羽束に模範解答を聞くことにする。
「すみません、僕には分かりません。教えていただけないでしょうか」
彼に言われた彼女の表情は浮かないものだった。
「残念ながらわたしも確証はありません。確信するためには一度、お店に入る必要がありそうです」
おだやかで控えめで、それでいてたしかな芯の強さを感じさせる声に、彼は思わず首を振る。
彼女はいつものまなざしで彼を見上げた。
「藤無さんはジャケットをお持ちですか?」
「あ、はい。スーツを作るついでに買ったやつがあったかと思います」
「ではふたりでいきましょう」
彼女はにこりと微笑みながら言い放つ。




