食べると空腹になるフルコース(2)
しばらくの間依頼人は現れず、雪彦は羽束に見てもらいながら鍛錬をしていたが、一向に進歩は見られない。
今日も水晶玉は光らなかった。
「腐らないで。たゆまない日々の努力の積み重ねが、力の研鑽につながるのです」
それでも雪彦が続けられるのは、羽束の優しい教えがあるからである。
ほとんど彼女に会い、同じ時を過ごすために出勤しているようなものだった。
彼にしてみればそれだけで不満はないのだが、彼女の方はどうだろうか。
そう考えれば申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だが、彼が思ったところでどうにもならなかった。
ある日、いつもの修行を終えて休憩に入った時、店の扉が開いてベルが鳴る。
「あのう、ちょっとよろしいでしょうか」
やってきたのはネズミ色のスーツを着た、五十歳くらいの気の弱そうな男性だった。
顔色があまりよくないが、何かに憑かれているようには見えない。
もっとも雪彦が見ての話である。
(千ヶ峰さんが見れば違うのか?)
と隣に座っていた女性を見てみると、彼女の方も怪訝そうな顔だった。
おやっと思っていれば彼女は男性に話しかける。
「はい、千ヶ峰堂へようこそ」
彼女を見た男性はちょっと目を見開きながら、疑問を口にした。
「あのう、ここはおじいさんがやっていると聞いていたのですが」
「あいにくと店主の祖父は留守なんです。わたしでよければお話を承りましょう」
男性も羽束の祖父のうわさを聞いてやって来たらしく、困惑が見てとれる。
そのような反応にもめげず、彼女は気丈にふるまっていた。
雪彦はそっと席を立ち、二人分の茶を淹れる。
二階の住居スペースにはまだ入ったことはないが、一階の店舗部分についてはどこに何があるのか、だいたい教わっていた。
彼がお盆にほうじ茶が入った白い湯飲みを二つ乗せて戻ると、男性が話をはじめたところだった。
「私、安藤というのですが、変な体験をしまして……医者に診てもらったところ健康に害はないみたいなのですが、気になっていまして。こういう相談でも大丈夫なのでしょうか?」
男性は娘ほどに年が離れた羽束に対して、不安そうなまなざしを向ける。
「はい、大丈夫ですよ。普通では考えられない、話しても信じてもらえないお話はすべてうかがいます」
「相談料ってどれくらいになりますか? やっぱり高いのでしょうか?」
彼がこういう商売にどのような見方をしているのか、伝わってくる質問だった。
もっとも、雪彦だってつい先日まではまったく同じようなことを考えていたため、責める資格はないが。
「ご相談に乗るだけなら、無料です。事態の対処にとなると着手金をいただきますが」
「はあ」
覇気のない返事をした後、安藤と名乗った男性は「それでは」と話しはじめる。
「先日、家内とふたりで銀婚式のお祝いに、近所のレストランにコース料理を食べに行った時のことですが」
たまの機会だからと奮発して、ドレスコードの指定がある店を選んだ。
有名な高級レストランにはとても敵わないだろうが、小ぎれいでセンスのいい店に緊張しながら行ったのである。
二人用のテーブルの一角に陣取り、前菜から順番に舌鼓を打っていた。
「一品あたりの量は決して多くなかったので、最初はこんなものだろうと思っていたのです」
異変に気づいたのはメインディッシュが運ばれて来たからだと、安藤は暗い顔で言う。
「メインディッシュも食べたのに、少しもお腹がいっぱいにならない。それだけならともかく、腹の虫が鳴ったのです。家内に聞いてみたら、美味しい料理でお腹いっぱいになったという。狐につままれた気持ちとはあのことを言うのでしょう」
安藤は一度舌の回転を止めて、羽束の顔をうかがった。
自分の言うことを信用してもらえるのか不安な様子である。
「奥様は何ともなかったのですか?」
「はい。そんなことになっていたのは私だけで……家内には何が不満なのかと呆れられて。誰にも信じてもらえないのがつらくて」
安藤はおどおどと視線を下に向けた。
何人かに話してみたものの、誰にも信じてもらえずつらい思いをしたようである。
「憑かれた人がとにかく空腹になってしまうというあやかしは存在しています」
羽束は彼の不安を払拭しようとするかのように、優しく言う。
これを聞いた安藤はハッと顔をあげる。
「ほ、本当ですか?」
「はい」
わらに必死ですがっている人のような表情の彼にうなずいて見せた羽束の表情は厳しい。
「有名どころで言えば餓鬼でしょうか。餓鬼というあやかしに憑りつかてしまうと、どれだけ食べても決して満腹にならないのです」
「ええっ! そ、そんな、バケモノがっ」
彼女の説明を聞いた安藤はぎょっとして叫び、自身の腹部をべたべた触る。
「で、でも、いまは何ともありませんよ?」
「ええ、いまは憑いていません。いま憑いていれば、祓えばすんだのですが」
羽束はさらりと言ってから考え込む。
「安藤さんだけだったのですよね? 他のお客さんはどうだったのでしょう?」
「そこまでは気が回りませんでした……」
彼女の発言を聞いた安藤は、目を丸くして申し訳なさそうに肩を落とす。
「いえ、ご自分のことで手いっぱいだったのは当然ですよ」
羽束は優しく彼をはげました。
「お店の名前をうかがってもいいでしょうか?」
「あ、はい。プレズィールという店です。場所は元町駅から徒歩五分ほどのところで……」
彼女にうながされて安藤は店の名前と住所を口にする。
雪彦はそっと紙にメモを取っておく。
ちらりと横目で確認した羽束は、依頼人に微笑を向ける。
「分かりました。一度調査に行ってみましょう」
「ありがとうございます」
反射的に礼を言った安藤は、上目遣いでたずねた。
「えっと、着手金はおいくらでしょうか?」
「三千円になります」
羽束が答えると彼は目を丸くする。
「お安いのですね」
この一言に彼女は無言で微笑して応じた。
「あと、交通費と成功報酬をいただくことになります」
「あ、はい。そうですよね」
安藤は驚くどころか納得したような顔になる。
「調べてみないとどうなるか分からない部分があるのですが、それでもかまわないでしょうか?」
羽束に確認された彼は、大きく首を上下に動かす。
「はい。あれはいったい何だったのか、気になって仕方ないのです。どうかよろしくお願いいたします」
両ひざの上に手を置き、こすりつけるように頭を下げた彼に対して、彼女は強めに返事する。
「はい」
安藤が帰っていくと雪彦は彼女に声をかけた。
「どうします? いまから行きますか?」
「そうですね。お店に行ってみるのが一番だと思います。外から“視”てみれば、何か分かるかもしれません」
二人は立ち上がり、戸締まりをしてから出発する。
道中、せっかくだからと雪彦は聞いてみた。
「千ヶ峰さん、餓鬼とはどういうあやかしなのですか?」
「餓鬼とは餓死した方の想念が集まって誕生するあやかしです。一度誰かに憑けば、その方が餓死するまで決して離れることがない、危険なあやかしなのですよ」
羽束の表情は暗く、何かを考え込むようである。
「そのような危険な奴がいるのですね……でも、餓鬼が安藤さんに憑いていれば、千ヶ峰さんなら分かりましたよね?」
「ええ。その場合は、あの場で祓ってしまえばすみました。餓鬼にかぎらず、憑いた人に飢餓を与えるタイプのあやかしは、自然に離れることはまずないのですよ。自分と同じ苦しみを与えたい、仲間を増やしたい、というのが彼らの行動原理ですから」
説明された雪彦は背筋が寒くなった。
恨みや憎しみの果てにあやかしと化していく人たちの、悲しく恐ろしい理由を知った気がしたのである。
「それはまたすごいですね。だからこそ、今回は違うと言えるのでしょうか」
「はい。被害の軽さを考えますと、ちょっとした嫌がらせレベルですよね。そのようなことができるのは……」
羽束は語尾を濁してしまう。
「できるのは?」
思わず雪彦がうながすと、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「現段階では憶測にすぎないので、止めておきましょう」
真剣なまなざしが不意にいたずらっ子めいたものに変わった。
「それに藤無さんにしてみれば、初めてのお仕事ですからね。何でもわたしが教えてしまうのはよくないと思います」
「あ、はい、そうですね」
彼女の言い分は正当ではあるだろう。
ただし、彼にこの世界の知識がまるでないことを除けば。
「ヒントはもうお教えしましたよね。今回の件はどういうものかと。犯人像、藤無さんなりに考えてみてください。間違っていてもいいですから。考えるということが重要なのです」
「は、はあ」
スパルタ教育だなと思いつつ、雪彦は言われたとおりにしようと思う。
厳しいくらいの方が早く一人前になれるだろうし、給料アップも狙いやすいと考えたのだ。
(それに千ヶ峰さんはそこまで理不尽な人じゃないよな)
まだ知り合っても間もないが、この点について信じていいだろう。




