なぜ雨に降られても濡れないのか?
七月、ようやく梅雨はあけたものの、その代わりと言わんばかりに地上の生き物を焼き殺そうとしているかのような太陽の日差しと、うだるような湿気に藤無雪彦はその日もうんざりさせられていた。
(梅雨が明けたら次はこの湿度かよ……)
彼はため息をこぼす。
太陽の光だけでも参るのに、アスファルトは調理が終わった直後のフライパンのような状態になっていて、天と地に熱のサンドイッチにされている気分だった。
(具材は人間……)
趣味の悪い、不吉な発想がつい出てくるほど、雪彦の気分はめいっている。
交差点にいる他の人々も程度の差はあれ似たような気分だろう。
このような日は一日中家に閉じこもっているのが理想だが、バイトがある以上そうもいかない。
今はバイトの帰り道だ。
できればエアコンがきいたオフィスで涼しくなるまで過ごしたいというのが本音であったが、正社員の上司に早々と追い出されたのである。
彼らバイトがいなくなったところでエアコンを切るわけではないのに、実に融通が利かないと雪彦は恨めしく思う。
(あー、ひと雨来ないかな。それも湿度がなくなるやつ)
彼は心の中で無茶な意見を思い浮かべる。
当然、そのようなことが起こるはずもなく、冷暖房完備の自分のアパートが唯一の希望だった。
大通りを抜け、二車線の交差点を左に曲がって人ひとりが何とか通れる程度の細い路地に入る。
真昼間だというのにも関わらずうす暗く、若い女性に敬遠されそうなここを通り抜けるのが、アパートへの近道だった。
店や家の勝手口があり、ポリバケツがところせましと並んでいる。
鼻を刺激する独特な臭いに閉口しつつ、バケツやごみ袋をうっかり蹴らないように注意してすり抜けていく。
そこへぽつりと冷たいしずくが彼の頭に当たる。
初めは気のせいかと思ったが、冷たいしずくは数を増して頭と肩へふりそそぐ。
「うげっ? 本当に雨かよ」
急速に雨足が強まり、それに比例して彼の足も速くなる。
雨よ降れと思っていても本当に降り出すとなると別だ。
雪彦はあわてて家を目指す。
裏道を通り抜けると二車線の道路に出る。
そこまで来た時、近くの人の誰も傘をさしていないことに気づき、空を見上げた。
いつしか雨はやんでいたらしい。
ほっとしたところで雪彦は自分自身に違和感を覚える。
彼の頭も体も、左肩にかけた黒いショルダーバッグも濡れていなかったのだ。
失礼にならないようにそっと周囲の人を観察してみると、やはり誰も濡れた様子はない。
(一体どういうことだ……?)
あの冷たさが幻覚だとは納得できず、雪彦は眉間にしわを寄せる。
しかし、周囲の人々はもちろん、動物や建物さえにわか雨など知らぬと言わんばかりだった。
信号が変わっても動こうとしない彼に対して、奇異の目を向けて来る人までいる始末である。
狐につままれたような気持ちで横断歩道を渡って脇道に入る。
そこから五百歩ほど進んだ右手側に彼のアパート「月夢荘」はあった。
築四十年は経つお世辞にもきれいとは言えないところだが、エアコンがあり、室内洗濯機置き場があり、バスとトイレが別で洗面台も独立している。
おまけにインターネットも通っているため、快適とまではいかなくとも不自由のないところだった。
雪彦の部屋は二階の真ん中、五号室である。
階段をのぼった古ぼけたプレートに色あせた金文字で「205」と書かれている点が、年季をうかがわせた。
カギを二つ開けてドアノブを回し、靴を脱げばまず右側の壁にあるスイッチを入れて、電気をつける。
このあたりは日当たりがあまりよくなく、太陽が出ている時間帯でも明かりが必要だった。
その分家賃が安いため、彼としては不満がない。
まっすぐ冷蔵庫に向かい、冷やしてあるペットボトルのお茶を飲む。
冷たい麦茶で喉をうるおすと生き返ったような気持ちになるから不思議だった。
コップを台所のシンクに置き、雪彦はベランダに干してあった洗濯物を取り入れる。
もしやと思ったが、やはり何も濡れていない。
ベランダ自体も濡れていないのだから当然なのだろう。
(あれは白昼夢みたいなもんだったのか?)
雪彦はだんだんとそう思うしかないような心境になってくる。
濡れたものがない以上、他に考える余地がない。
(せめて何か証拠みたいなものがあればなあ)
だが、雨をふった証拠になりそうなものは何もなかった。
濡れた物品がひとつもないことこそ、夢だった証拠になるのではないだろうか。
彼はそう考え、ねずみ色のカーペットの上に座り込み、洗濯物を順序収納ケースに入れていく。
ひとり暮らしだと何から何まで自分でやる必要があるのだが、実家にいても「就職しろ」と両親がうるさいだけである。
雪彦は何も好きこのんでフリーター生活をしているわけではない。
真面目に就職活動をしているし、小さくとも堅実そうな会社の面接にも行って採用された経験はある。
しかし、長続きしなかった。
「ふうう」
彼はあおむけに寝転がり、大きく息を吐き出す。
嫌な想像が頭のかたすみから黒雲となってやってきてため、追い払おうとしたのであった。
それから窓を開けたままだったことを思い出し、慌てて閉める。
残念ながらこのアパートに防音性というものは期待できない。
気をつけなければすぐに近所迷惑になってしまうのだ。
今回は聞こえていなかったらしく、しばらく待ってみても両隣から抗議がこない。
ほっとした雪彦はパソコンの電源を入れて、ネットサーフィンをはじめる。
「にわか雨と……」
先ほど自分が経験したことと、似たような情報が出回っているのではないかとひらめいたからだ。
色々と言葉を組み合わせて検索してみるが、一向に情報が出てこない。
(ダメか……)
もちろん彼の探し方が悪い可能性もある。
だが、三十分も使って該当情報らしいものが出てこず、雪彦はあきらめたくなった。
パソコンをシャットダウンしてもう一度カーペットの上に寝そべる。
(ということは、またか?)
彼はぼんやりと考えた。
今まで彼が就職しても長く続かなかった理由、それは先ほどのにわか雨のような不思議な出来事が、これまでにも身の回りに起こったからである。
会社の同僚の財布がなくなったり、窓ガラスが不意に割れたり、極めつけは彼しかいない場所で突然出火したこともあった。
全て彼が最有力容疑者として取り調べを受けたのだが、証拠は一度も出てこなかったのである。
何もやっていないのだから当然だというのはあくまでも彼自身の言い分にすぎない。
警察が無実だと言ったところで再び似たようなことが起これば、その職場にいられるはずもなかった。
結果、雪彦は短期間で退職を繰り返し、非正規の仕事を探すようになったのである。
どうせ長続きはしないという思いがあったし、短期間で何度も止めた理由を面接官に説明するのも億劫だった。
(……今までに比べたらまだマシか)
簡単に振り返った過去と比べたら、今回は明らかにやさしい。
だからこそすぐにまただとは感じず、別件かと考えたのだが。
ただ、今後悪化してくる可能性も一応は想定しておかなければならない。
あまり考えすぎてもよくないと言い聞かせて、彼は布団を出して仮眠をとる。
次に彼が目覚めた時、すっかり暗くなっていた。
小さい目覚まし時計を見てみると七時を回っている。
道理で腹の虫がうるさいはずだ。
今日はもう外食で済ませようと彼は財布をズボンのポケットに入れて玄関に向かう。
階段をカンカン鳴らして降りていけば、ばったり五十代の男性と出くわす。
つるっとはげた頭と季節はずれの赤いセーターを着た男は、アパートの大家兼管理人の板屋である。
「あ、こんばんは」
「ああ、藤無さん、こんばんは」
板屋は柔和な顔で応えた。
このアパートに引っ越してきて半年経つが、親子ほど年が離れている雪彦相手にも、丁寧な言葉使いを崩そうとしない初老の男性は、いつものあいさつをしてくる。
「どうですか、藤無さん。最近の様子は?」
「うーん、ちょっと気味悪いことありましたが、それ以外は大丈夫ですね」
本来ならば言わない方がいいようなことも、ついついしゃべってしまう。
雪彦にとって板屋とはそういう相手だった。
今も言ってから雪彦はしまったと思うが、後の祭りである。
「ほうほう? たとえばどのような?」
板屋は好奇心を刺激されたらしく、細い目を開けた。
「いやー、ちょっと気味が悪いってだけですし、ご相談するほどのことはないかなって」
雪彦は何とかごまかそうと苦しい言葉を並べる。
「うーん、無理にとは言いませんが、何かあればお気軽におっしゃってくださいね」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。これから晩ご飯に行ってきます」
大家の親切な申し出に礼を言って、雪彦は話を切り上げた。
「はい、お気をつけて」
板屋の柔和な笑顔に見送られて、彼は通りに出る。