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瞑想法入門も今回で最後となります。
本来のシメは第2回の到達点ですが、あの境地に至るのも随分難しいそうですね。でも、あれが入門編の到達点であることに変わりが無いので、あの境地を体得出来るまでは続けて欲しいと思います。
前回の項にITOさんが最後にレスされていましたが、瞑想により下痢に見舞われるのは良くあることです。この冷え込みで水垢離を敬遠されるのも分かりますが、初心者は極寒でも水垢離を怠らないようお願いします。
般若心経はスムースに唱えられるなら、3回もしくは7回唱えます。唱える回数に意味はありますが、説明不可能なので省きます。
出定の儀式は簡単ですが、瞑想が深い程、丁寧に行う必要があります。
深い瞑想を日常的に行えば、「禅病」と呼ばれる弊害に襲われる危険もあるのです。一種のチャクラの暴走で、鬱病のような状態となります。また、身体的には下痢に苦しむことはままあります。
これを未然に防ぐ為に出定の儀式を丁寧に行う必要が生じますが、入門編の境地を超えていない方には余り必要はありません。
しかし、初めと終わりをケジメ付けるのは重要な事ですので、身に付けて下さい。
蛇足ですが、深い瞑想に入ると現実世界の認知が薄まりますので、10分程度の瞑想したつもりでも、現実では5時間経過していたと言うのも珍しくありません。依って、深い瞑想に至った方は瞑想から目覚める合図を入定前に決めておく必要があります。長いお線香で1時間半程度で燃え尽きるので、これを合図にすると良いでしょう。2時間を超える瞑想はかなり危険を伴いますので、指導者が居ない方は無節操な瞑想は控えるべきです。理学が必要となりますので、岩波書房から出ている教典の現訳本も瞑想と同時間以上読むことが必要とされます。(まぁ、ここまで至る方なら夢や瞑想で嫌でも理学を学ばされるでしょうが・・・・・・)
では、出定の儀式について語りましょう。
座禅の道場などでは鉢を叩いたりして修行者の意識を現実に戻しますが、これを読まれている方の殆どは、自然に瞑想への意識の集中が解けてしまうでしょう。
意識が瞑想から離れたからと言って、すぐ体を動かしてはいけません。ゆっくり体をほぐす事が必要です。
まず、両手をゆっくり頭上へ伸ばして手を組み、伸びをします。そして組んだ手を頭頂へ乗せると、手を離し、体の両横を上から下へと摩ります。これを数度繰り返すと、次は両腕を付け根から外へと摩ります。上半身がほぐれたら、結跏趺坐(もしくは正座)をやや崩し、付け根から足先へと摩ります。特に頭頂から腰までと足の摩りは念入りに行う必要があります。
頭頂から腰までを摩るのは起動したクンダリーニを収める意味を持ち、怠ると禅病に至ります。
また、瞑想において足の血行は非常に弱いモノへと変化しています。これを通常へ戻さねば、関節の病を招きます。極端な例では、達磨居士の様に両足が腐り落ちることさえあります。
こうして体がほぐれたら、本尊もしくは、座った場所に修法を守って頂いたと言う思いで、三回土下座を行い。その後、5分程、ゆっくり歩くことをしましょう。
出定の儀式は以上です。
簡単なものですが、これを省くことはしないで下さい。
瞑想の儀式は意味も無く定められているのではありません。
瞑想の本来の目的は悟りを得ることにありますが、精神世界に深く入る事は諸刃の刃で、一歩間違えると魔境に入ります。
また、魂がシフトアップする過程で、精神世界の住人に感知されます。真っ先に現れるのは「魔」です。釈尊やイエスが修行の過程で何度も「魔」に誘惑される逸話はご存知かと思います。あれは嘘ではありません。必ず起きる現象です。
逆に天使や神々の来訪を経験することもあります。
いずれにも心を乱されてはなりません。
禅宗ではそう言う座禅を「座狐禅」と呼び、厳しく諫めています。
またちょっとした神通力を得る方もいるでしょうが、そこで天狗になると天狗止まりです。神通力を得ることが目的ではありません。まずは真実の自己を知ることが最初の眼目であり、神通力はその過程で浮上する付随的現象でしかありません。残念ながら、それを弁えずその力を得たことで悟った気になる方が多いのも事実です。特に修験道ではその傾向が顕著です。そういう魔道に墜ちると敬われる事に至上の喜びを覚え能力をひけらかすことで、魂を摩耗させ自己を失って行きます。
神通力や超能力に憧れて瞑想をする方が非常に多いのが現状で、そこに「魔」がつけ込むとオーム真理教の様な有様となります。
私は能力を得るのに特化した修法も知っていますが、それを記すことはしません。
私が記した瞑想法は健やかな心身を得て、本来の自己に目覚める為のものです。素質のある方は神通力を得るかもしれませんが、それに一喜一憂されると、何の為に労力を割いて瞑想法を説いたか意味が無くなるだけでなく、人をして魔道に貶めた業が私に返ってきますので、この瞑想法の本文を十分弁えて頂きます様お願いして、この講座の締めくくりといたします。
下らない弁舌にお付き合い頂きありがとうございました。