Chapter 1:彼女の恋愛。
「佐加本さん、最近塚地くんと喧嘩したんだって?」
そう声を掛けて来たのはカナコだった。
誰から聞いたの、なんて問う気も起きなかった。あいつが直接カナコに愚痴ったに違いない。
わたしよりだいぶ背が低いカナコは、小首を傾げ少し上目遣いで見上げる。午後の講義が終わった時間なのに、メイクは少しも崩れていない。
くっきり縁取られた瞳が、カナコの小さめな顔の表情をより一層小動物めかせている。
毛先をしっかりカールさせた栗色の髪とドレープ多めで短過ぎないスカートの裾が、ふわふわ風にそよいでいた。
カナコはこの愛玩動物めいた容姿と、少女漫画から飛び出して来た女の子のような仕草で、男性を虜にするのが上手い。
普段一緒にいるわたしたち四人の中で、一番声を掛けられるのがカナコ。
ちなみに、一番声を掛けられないのはわたしだ。
塚地はわたしの恋人で、付き合ってそろそろ一年になる。
わたしと彼は大学で同じ講義を聞き、食堂の同じメニューを好み、同じサークルに所属して――などというベタなきっかけでお互いを認識し、付き合うに至った。
所属しているのは映画鑑賞サークル。
よく訊き返されるけど、『映画サークル』ではない。つまり二人とも映画を観るのが好きなのだ。だからデートの行き先はほぼいつも映画館である。
塚地が特に好きなのはミステリーやサスペンスで、わたしは謎解きや冒険、ファンタジーといった種類の作品。
「こういう、少し重なっている部分で共通の話題ができるし、好みの差分では新しい興味を得られる可能性が――」と、趣味を語るにも小難しい表現を彼は好む。
要するに、共通の趣味を持つ者同士が恋人として付き合うのはいいことだ、ということらしく、塚地は満足げだった。
もっとも、わたしたちが一緒のところを見掛けたホナミの感想は、「あまり恋人同士には見えなかった」ということらしいが……
ちなみに、わたしにとっては彼が初めての恋人で、一方の塚地は二人目だという。
彼は前の彼女のことを多くは語らなかった。だけど、わたしのように趣味の繋がりではなく、勉強で繋がっていた恋人だということを聞いた。
当時の彼女も彼と同じく勉強が好きか、成績のいいタイプの女性だったのだろう……と勝手に想像している。
塚地は中肉中背――身長一七三センチは平均身長だと本人が力説していた――で、眼鏡を掛けている。それ以外はこれといって特徴のない容貌だ。
そしてダサくもなくイケてる風でもなく、集団の中で埋もれてしまうタイプだ。
わたしも彼と同じく、目立たないタイプだと思う。
わたしは、カナコのようにメイクに時間を割く性格ではないので化粧気はない。髪型も、ここ数年ずっとショートカットだ。
美容師に「たまには気分を変えませんか?」と言われてカラーリングすることもあるが、明る過ぎない色に抑えてもらっている。
身長が高めなので、もっぱらスニーカーや厚底過ぎないサンダルを履く。ヒール高めのパンプスを履くと、視線が塚地と同じ高さになってしまうのだ。
実は一度だけ、ヒールを履き慣れないお洒落をして――カナコやホナミたちに着せられて――彼と待ち合わせたことがあった。だが並んで歩いている間中なんとも気まずく、それ以降は履いていない。
わたしたちの交際は大学構内でのちょっとした待ち合わせから始まり、休日に待ち合わせて映画を観たり、たまにデートスポットを巡り、記念日には初めてのお泊りデート、というように発展していった。
そして今では互いの家に半同居――同棲という言葉をわたしは好かない――という状況にある。
やがてやって来るマンネリ一歩手前の、割とよくあるパターンなのだろう。
現実は映画のようにドラマチックな展開もなければ、ハッピーエンドのラストシーンのように『いつまでも幸せに暮らしました』とはならないものなのだ。
* * *
実際の『恋愛』とは、えてしてこんなものか……と思っていた矢先に、カナコから問われたのだ。
そのせいで、わたしはどこか醒めた気分になり掛けていた。
「喧嘩なんてほどの話でもない。わたしは『排水溝に生ゴミを溜めるなんてまっぴらだ』と言っただけなんだけどね。ここはわたしの家だし、うちのルールに従って欲しい、と」
仕方なく、そう説明した。
元々わたしは自分のプライベートを必要以上に他人に話すのは好きじゃない。一個人の私生活なんて、なんの盛り上がりもないつまらないものだ。
特にわたしは、毎日つつがなく暮らすことを好む。
事件やハプニングなどは自分には関わらないで欲しい。ドラマは映画の中だけで充分だとも思っているのだから。
「呆れた。家事をやってくれるだけでもありがたいのに、なんでそんな小さなことで口論しなきゃいけないのよ。塚地くんも、『サカモトは頭が硬い』って呆れていたわよ」
素気ない態度でこたえるわたしに対し、カナコは本当に呆れたような表情をした。
小さく口を開け、アイラインとつけまつげで大きくした目をしばたたかせる。ますます小動物めいて来る。
無条件に男たちから「ごめんなさい」を引き出すとっておきの表情らしい、と聞いたことがあるが、女であるわたしには当然、そんな効果はない。
標準より黒目がちに見えるのは、カラーコンタクトのせいだろうか。
わたしの家に来た時は、わたしのルールに従う。そして塚地の家に行く時は、彼のルールに従う。それはわたしたちが付き合い始めて少し経ち、お互いの家を訪問するようになった頃に決まったことだ。
しかもそれを言い出したのはわたしではなく塚地の方なのだ。
塚地がカナコにどう話していたのかは知らないが、それはわたしたちの間だけのルールだ。
第三者に話すなとまでは思わないにしても、第三者であるカナコがそのルールに口を出すのを許すとは、一体どういった理屈なのだろう。
カナコの口振りは、家事の苦労を知っているかのようだった。
でも彼女は一度もひとり暮らしをしたことはないはずだ。実家暮らしで専業主婦の母親がおり、しかも近所に両祖父母が住んでいるというのだから。
数人いる従兄弟たちは男ばかりで、カナコが初めて生まれた女の子だったらしい。そのため、両親のみならず両祖父母からも猫かわいがりを受けていたと聞いた。
だから苦労知らずに育ったのではないだろうか。
小耳に挟んだ話では、家庭科の授業以外で料理をしたことがないらしいが、その真偽まではわからない。
おまけに普段からカナコは、「やっぱり料理も家事も得意な男性じゃないと、結婚する気にはならないわよね」なんて言っている。
他人のことになると突然意見が変わるのは、何故だろう。
目を見開き口を尖らせ、いかにもお説教してますというポーズをしながらカナコはくどくどとわたしを諭す。
だけどわたしはそれを聞き流しながら、この可愛らしいと形容される顔から、つけまつげとアイラインとまぶたを二重にしている糊を拭い去ったら、どんな顔になるのだろう……と考えていた。
世の女性たちの化粧に対する情熱は、時々すさまじいものがある。
入学したての女子大学生は当然、長年生協にいるパートさんや清掃員さんに至るまで、ほとんどの女性がメイクをしている。
だがわたしはといえば、乾燥する冬期は仕方なくクリームを擦りこみ、紫外線の強い時期は肌が傷むのを防止するという理由で日焼け止めを塗りつけるが、消したり描いたり足したりといったメイクはしていなかった。
この広い大学構内でそんな女性は、数える程度しかいないだろう。
服装も清潔であればいいという感覚の持ち主なので、リーズナブルでシンプルな――わかりやすく言えば、ジーンズショップなどで同じデザインの製品が簡単に手に入るような、Tシャツやカッターシャツで済ませてしまう。
わたしがカナコのようなフリフリの服で構内を歩いていたらきっと、頭がおかしくなったと思われるだろう。
小柄で可愛らしく見える女性というのは、それだけで、他の欠点を覆い隠せる程度には秀でているのかも知れない。
そういえば、諺にも――
「ねえ? 佐加本さん。そもそもシェアハウスの同居人ってわけでもないのに、ルールを決めることに問題があるんじゃない? 恋人同志なんだし女の子なんだから、佐加本さんの方がもっと心を広く――」
一体、カナコは塚地にどこまで話を聞いたのだろう?
彼女の上から決め付けるような言葉を聞き流すのも、どうやら限界らしい。さすがに気分を害して来たような気がする。
特に、型にはまったジェンダーロールは、わたしが嫌う代表的なものだ。それを振りかざしているカナコ本人の、普段の矛盾した言動を棚に上げていることも癇に障った。
わたしの家のルールなど、塚地のルールに比べたら大した問題じゃない。
靴は端に揃えて置く。脱いだ衣類はコート掛けや脱衣カゴへ。食器は汚れを軽く落としてシンクにある洗い桶――水を張って、洗剤を少し入れてある――へ入れること。
それから、問題になった生ゴミの件だ。
食べ残しやソースなどは、シンクのそばに置いてある小さく切った新聞紙で拭ってビニール袋へ入れ、そのあとで食器を洗い桶へ浸けるのだ。
洗い物を始める前に、生ゴミの袋の口を縛りゴミ箱へ捨てる。
これだけ準備しておけば、排水溝の掃除も大したことにはならないし、ニオイだって立たない。
彼は初めこそルールに従っていたが、やがて「ねえ、そこまで細かくなくても大丈夫じゃない?」とソースがべったりついたままのパスタ皿を洗い桶へ突っ込んだり、残った魚の骨を排水溝へ落としたりするようになった。
初めての彼氏ということもあり、遠慮してなかなか注意できず、わたしは黙ってやり直しや掃除をした。
どうやらそれはよくない態度だったらしい、と理解した時にはもう遅かった。彼はすっかりルールを無視するようになっていたのだ。
そこで改めて塚地にお願いしたのだが、その結果、こんな状況になっている。
* * *
カナコがある程度満足し、大きく息継ぎをしたタイミングで、わたしはようやく反論した。
「全然小さなことじゃない。洗う前にゴミはゴミ袋に捨てればいいだけだというのに、それを怠る塚地が悪い。汚れや食べ残しが付いたままだと洗剤だって余計に使うし、あいつ、溜めた生ゴミを捨てるわけでもなく、結局ほったらかしなんだから」
最近は「あとでまとめて掃除するよ」なんて言って、結局そのまま帰ることが多い。
一度帰り際に指摘したら、彼は腹立ちまぎれにシンクの掃除をして、マグカップの縁を欠けさせた。
何か硬質な物同士がぶつかる音と「あっ……」という声でわたしはソファから立ち上がったが、彼はムッとした表情のまま洗い物を済ませ、その件に関して何も説明せず帰って行ったのだ。
塚地から謝罪の言葉は出て来なかった。
わたしは普段じっくり選んで食器を買うのが好きだ。
その時はたまたま、間に合わせで買った安い物だからよかった。けれど万が一、ようやく出会えたお気に入りのカップだったりしたら、一ヶ月くらいは落ち込んでいたと思う。
その一件で、わたしは今までの彼の言動を思い返した。
彼は、仮にトラブルの原因が自分にあったとしても、謝罪を口にしない性格らしい。
そのくせ、自分が気に入らないことを他人に言われたりされたりすると、それが悪意によるものではなく単なる意見の相違だったとしても、ものすごい剣幕で謝罪を求めるのだ。
更に、自分の家にわたしを招く時は、やれ靴は何番目の棚だの、やれリモコンはこの順番に並べろだの口うるさい。ほんの数センチずれたところで、リモコンに手が届かなくなるわけでもないのに。
挙句にはトイレットペーパーの使用量にまで口を出して来る性格だった。別に、一回に何メートルも使用するような物じゃないのに。
あいつがルーズなのはシンク周りのことだけ。それも自分がやりたくないからルールを持っていないというだけで、他人に食事の後始末をさせるのは平気なのだ。
彼の家や彼自身のこだわりには、その他にも様々なルールがあって――
いや、その時の作法や手順に対する細かさまでは、さすがに他人に伝えるには憚られる内容なので、わたしは思い留まる。
おまけに、考え過ぎると彼のよくない部分ばかりを思い出してしまいそうになる。これでは彼に対して冷静なジャッジができない。
「――まぁ、なんというか、お互いこだわるところが違い過ぎて、それが段々窮屈に感じ始めているのかも知れない。一度話し合おう、と言ったのだけど、それも曖昧にされているし」と、わたしは話を適当に切り上げた。
「うぅん……あたしも、あなたたちのルールに口出しするつもりはないからいいけど。でもそのこだわりのせいで、愛想尽かされないようにね」
カナコはそう言ってため息をついた。
もう充分口出ししていると思うのだけど。おまけに、こだわりが強いのはわたしではなく塚地の方なのだけど……そこは指摘しない方がいいような気がする。
片頬に人差し指を当て小首を傾げた彼女の様子は、男性の目には可愛らしく映るのだろう。
多分、男性のひとりである塚地にも。
そんな風に考えながら、わたしは曖昧な笑顔を作った。
* * *
その二ヶ月ほど後、『カナコと塚地がこっそり付き合っているらしい』という話をホナミから聞いた。
一緒にいたヨシエも同意した。以前カナコたちが一緒にいる場面を一度ならず見掛けたことがあったらしい。
だがその時の二人は、親しげというよりは相談をしている様子だったので、わたしを心配させまいと思って黙っていた、と。
わたし自身、もっとショックを受けるかと思ったが、出て来たのは「やっぱりね」という平坦な言葉だけだった。
「やっぱりって、知ってたの? でも佐加本さんと塚地くん別れた様子がなかったからてっきり」
ホナミは目を丸くした。てっきりなんだと言うのだろう。
でも彼女の目には『期待外れだ』という色が現れているように思った。どうやら修羅場を期待していたようだ。
「カナコが『塚地に相談された』って言って来た時に、なんとなく近いうちにこうなるような気がしてたのよ」
「ふぅん……」
ホナミはまだ腑に落ちない表情だった。何を期待されているか理解しがたい。でも、わたしが滅多なことで感情を乱さないのはホナミも知っているはずだけど。
失恋した、という実感はなかった。
というか、わたしはもうその話題には興味がなかった。
「カナコは生ゴミの処理が上手なんでしょうよ」
わたしが薄く笑ってそう言うと、ホナミはますます不思議そうな顔をした。
「もうさぁ、今度からヴュッフェ行く時カナコ呼ぶのやめよっか?」と、ホナミは口を尖らせる。
彼女は当事者のわたしを差し置いて、まるで自分が傷つけられたように憤慨していた。
カナコは小柄で、ふわふわした美少女という雰囲気の子だ。対してホナミは身長が高めで細身ながらもグラマラス。服装や化粧も派手め。
二人のタイプはまったく違うのだが、どちらもそれなりに異性からは人気が高い。
そしてグループの中では、異性関係に関してホナミとカナコが特に積極的だった。
なのでホナミには『ひょっとしたらいずれは――』という危惧もあるようだ。彼女は自分が好いた相手を、万が一でもカナコに取られることがあってはたまらないのだろう。
「わたしは気にしないけど、ホナミがそうしたいならそうしてもいいんじゃない」とこたえた。
その言葉はホナミには不満だったらしいが、『カナコ外し』をわたしのせいにされたくはない。面倒事が増えるだけだ。
小学生じゃあるまいし、今時絶交宣言でもないだろう。
もっとも、フェイドアウトしたところで、大学構内で塚地やカナコとばったり会ってしまうという可能性もある。
今までの待ち合わせの困難を思えば、その確率は低そうだけれど。
元々わたしは『誰かのペースに合わせる』というのが苦手なのだからしょうがない。今時、恋人がいなければ人間失格のレッテルを貼られるわけでもないし。
マイペースで平和な人生を望むわたしにとって、あの、他人の領域にずけずけ土足で乗り込んで来ては引っ掻き回して帰る、というタイプの人間が合わなかった――ただそれだけなのだろう。
「あぁそうか……」
ふとこぼれた言葉に、先を歩くホナミとヨシエが振り返る。
「なになに?」とホナミは目を輝かせた。
「いや、なんでもない……あの二人、よく似ていたんだなぁ、と思って」
一見人当たりはよさそうだが、変なところで細かく、他人の空間を徐々に浸食して行き、最後には自分の色に塗り潰したがる性格……とでもいうのだろうか。
彼らは――わたしと趣味が似ているという塚地ですら――わたしが決して過ごすことのないような人生を送っているに違いない。
彼らの『恋愛』の行く末はどうなるのだろう。上手く噛み合って円満に過ごすのか、お互いに塗り潰し合って険悪に別れるのか――
俄然、興味が湧いて来た。
「ねえ、来週のスイーツヴュッフェ、カナコが行きたがってた店じゃない。せめてそれだけは一緒に行こうよ」
そう言って、わたしはホナミたちに笑顔を向けた。これからが恋愛の楽しいところなのだから――そう確信して。