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ヒステリックな私たち  作者: 橘セロリ
少女の話
8/26

7

「私は透明な存在だから」


 いつだかあの人はそんなことを私に言った。それはいつのことだっただろう、確か二年前ほど前のことだった。姉が家出する二ヶ月前だったはずだ。


 私はその言葉の意味がわからなかった。


「世界や神を憎んだって、何も変わらないんだよ」


 そういうあの人に、

「けれど、信仰すれば救われるかもしれないよ」と励ましのつもりで言ってみたけれど、浮かない表情のままだった。

「あんたには、いつまでたってもわかりっこないよ」

「どうして、わからないなら教えてよ、ねえ」

「そういうことじゃないの。わからないほうが幸福なの」


 当時の私はとても幼くて、あの人の背中を追いかけるだけで幸福だったから、何もわからなかった。


 今思うと、あの人は神を憎んでいたように思う。私は父や母の言うとおりに、考えもせず信仰しているけれど、あの人は神に背を背けた。


 透明だからなんだっていうのか。


「僕は透明なんだ」


 あの人と同じような台詞を吐く男に嫌悪する。そして、私にはその台詞を口にすることができないもどかしさが歯がゆい。


「義務教育なんて、家族なんて、社会すべてなくなってしまえばいいんだ」


 じゅうじゅうと焼いている最中、聞こえてくるその狂乱した声に、どこか冷静な気持ちで向き合っていた。


 社会や個人を恨んだってしかたがない。もしかしたら私が達観しているだけなのかもしれない。でも、そうだろう、現在の社会を抹消する方法なんて存在しないし、あったとしてもそれは暴力であり違法行為だ。


 すべての焼き鳥が焼けた後、大きな皿に焼き鳥を盛りつけて、一つだけ、串から落ちてしまった鶏皮を口に入れる。


 その皿とコップを三つ、御盆で運んでいる最中にいやな音が聞こえた。玄関からの足音だ。


「伊藤君、どうしたんだ」


 それは奈々子の声だ。私はちょうど台所と和室に繋がる廊下にいた。ふすまを開ければすぐそこには三人がいる。立ち止まって、うつむく。


「さくらはいるの?」


 あの人の声はいつもと違ってとろけていた。


「ああ、台所にいるはずだよ。焼き鳥を焼いてもらってる」


 私は勇気を振り絞ってふすまを開けた。二人はぎょっとした目で私を凝視する。


「私はお化けじゃないのよ」


 御盆をちゃぶ台に置いてから、逃げ出したくなる気持ちを必死に押さえて畳の上に座る。


「伊藤君はどうして泣いてるんだ?」

「知らないよ、勝手に泣き出しちゃったんだもん」


 龍はとても困っていた。


「焼き鳥食べないなら私、食べちゃうよ」


 焼き鳥は、もも肉、砂ズリ、肝、ハツ、皮、と豪華で、悔しいけどそれらを調理した龍を尊敬してしまった。


 私はその中の砂ズリを一本だけ取り、食べる。伊藤はうつむいたまま正座をしていて、あの人はあぐらをかいて皮を食べているし、龍は戸惑っていた。


 伊藤みたいなみっともない真似をしたくない。子供じゃないんだから、泣いて騒いだって何も解決しない。


「伊藤はさ、甘えてるんだよ」


 うつむいてうっすらと隠れていた奴の眉がぴくりと動く。


「世界に文句を言ったって結局自分が変わらなきゃ何も変わらないんだよ。伊藤は自分が変わることを拒んでるでしょ。みっともないよ、そんなの」

「さくらちゃん、さすがに言い過ぎだ」

「龍は私の彼氏なのに伊藤の肩持つの? 事実じゃない。自分は人を傷つけておいて自分は傷つきたくないなんて虫が良すぎるのよ」


 龍は何も言い返さずに、むっとした顔をした。龍はそんな理想的な平和主義だから、親や親戚にも舐められたのだ。


「自分の意志で勝手に透明になってるんでしょ」


 小さく小さくなってしまった伊藤に罵倒すると心がすっと軽くなった。


「いい加減にしろよ」


 なのに、私の嫌いなあの人は私の気持ちを知らずに、こんなことを言う。

「伊藤くんが可哀想だろ。さくらはもっと人のことを思いやれる子じゃなかったか」


 あの人のきれいな目は今、私に向けられていた。しかし、その目には嫌忌がにじみ出ている。


「あんたは、人のことを一切考えられないよね。そんなところが大嫌い」


 あの人は黙り込んだ。伊藤はうつむいていた顔を上げて「奈々子さんは悪くないです」と励まし始めた。胃がむかむかする。胃にあるものすべてを伊藤にぶちまけてやりたい。


「みんな、私のことなんて何もわかってないんだ」


 自分が思っていたより声はか細く、切れ切れで、いつの間にか泣いてしまっていた。


 どうして泣いているのか、それさえわからずにただ、声を上げて泣いた。みっともなくて、はしたない、だから泣きたくなかったのに。龍は泣いて丸まった私の背中をさすり出すし、あの人は私に同情し出すし、何もかもが上手くいかないし、何もかも私に優しくなくって、私だけ疎外されているようだ。


「大丈夫、俺はわかってやれるから」


 嘘だ。そんなの「俺の中にある都合の良いさくら」のことだろう。きもちわりい。そんなだからずっと童貞だったんだ。あの人は龍の隣にいて、私のことをじっと心配そうに見つめていた。手を伸ばせば、すぐに奈々子の白くて細長い腕を掴むことができる距離に、私はいるのだ。


 あの人にキスをしたらどんな反応をするだろうか。あの人は泣くだろうか、怒るだろうか。これはちょっとした好奇心で、いたずら心である。だから恋愛感情とは無関係のものだ。龍だって「お前のことをわかってやれる」と言ったじゃないか。私がおそれているほど私の住んでいる世界という者は怖くも、厳しくもないのかもしれないじゃないか。


「ちょっと、便所行ってくるわ」


 そう龍がふすまを開けて部屋を出た。


 ぴしゃり、その音と同時に私は腰を浮かせて、あの人の腕を掴んだ。小さな悲鳴が口から漏れる。いつもは汚い口調の彼女の、か弱い女の声だ。


 左腕を力一杯ひっぱってあの人の唇を奪った。あの人ではない。目の前にいる女性は奈々子である。奈々子は驚愕している。ふるえている。私の頬を叩いて「何をするの」と覇気のない声しか発せない奈々子は、かわいそうで弱かった。


「むかついたの」


 有り合わせの言葉でごまかした。その心の内はあの人にはばれてはいないようで、息を荒げながら、唇に指を触れている。伊藤も伊藤で、感嘆の声すら発せられない様子で、私でも奈々子でもないどこかを見つめていた。


「私をからかってるんだろ」

「そうだよ。あんたなんて嫌いだから、あんたが動揺しそうなことをしてみたの」


 少女のような表情で顔をしかめたそいつは目を潤ませていた。


「酷いよ。私の知っているさくらじゃねえよ」

「私の知っているさくらってどのさくらなのよ。大体、あんた勝手に家出してさ、もうずっと話してなかったのに会ったときだけは家族面するの、おかしいと思うんだけど」


 伊藤はやめろよ、と威勢良く言う。なんだか、私が悪者みたいだ。


「もう、私帰る」


 焼き鳥を食べる気もなくなってしまって、泣いてたせいか頭はくらくらするし、視界はどんどん遠ざかっていく。いやなことばかりだ。


 部屋を出ると龍がいた、何か聞かれたような気がしたけれどすべてを無視して、空き家を出て、道路の端っこをとぼとぼと歩いた。どんなに私の感情が爆発しそうでも、私は社会の倫理や法律から逸脱することはできないし、結局はその程度の悲しみなのだろう。そして、それはおそらく普遍的なものであり、ほとんどの人間は人生を変化させるような感情の移り変わりや、文学的な喜怒哀楽など無縁なのだろうし、無縁だからこそ作品を純粋な感情をもって楽しむことができるのだろう。


 でも、それは悔しいこと、悲しいことでもある。監獄の檻から抜け出すサバイバルストーリーや、監獄を破壊するエンターテイメントに憧れても、一生実現することはなく、監獄の中で、家畜みたいに生きていくしかないのだ。いつか食べられる家畜の豚は、自らと豚だと認識しないだろう。家畜が家畜だと自覚したら、家畜はどんな思いを抱くのだろうか。たぶん、自分で自分の舌を噛んで死ぬに違いない。


 空は真っ赤に染まっていて、白い雲と夕焼けのグラデーションが交わり主張しあって、それはそれは、感情を動かされそうなほどきれいだと感じたけれど、そのきれいな空を見ていると、自分の惨めさや心の汚さが余計に醜いものに思えてきて、ああ、さっさとあいつらと縁を切りたいな、いっそのこと今日交通事故に遭わないかな、とか考えてしまう。


 でも実際に交通事故に遭ったらとても困るし、そんなに死にたくはないし、死ぬ勇気も微塵もない。


 こんな自分を弱いな、と卑下してみても、無益だ。むなしい、それは私にとっていやなことだ。この世のすべてがいやなことだらけだ。でも、こんな世界に生まれてしまった以上、生きていくしかないのだ。私が人である以上、感情に振り回されなくてはいけない。それは回避不可能な現実で、くだらない必然なのだ。


 それでも空はきれいだ。

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