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あの人は私たちの親を憎んでいるわけではなかった。ただ突然、居心地が悪いからと親を嫌悪していることを告白して出て行った。隼斗の親は確かに押しつけがましい親だ。だが、私の親はそうではない。
信仰しなさいと叱られたことは一度もないし、私たちが学校の人たちと同じように「いただきます」や
「ごちそうさま」を言っても咎めなかった。隼斗の家ではいただきます、を言おうとしただけで叩かれたりしたらしいし、友達と初詣に行くことすら許されなかったそうだ。
受験だって、就職や進学だってきついことは何一つ口にしなかった。勉強しろとも言わない親だったのに、どうしてあの人は家を飛び出したのだろうか。
家へ帰るとリビングの机の上にラップをかけられた夕飯が置いてあった。母は皿洗いをしていて、父は新聞を読んでいる。
「遅かったじゃないか」
「友達と遊んでいたの、ごめんなさい」
時間はもう二十三時前である。
「心配したのよ。電話にも出ないし」
皿を洗いながら私を凝視した。
「本当にごめんなさい」
あの人が家を出てしまってから、二人は過敏になり、中学生で夜遅くまで外出を許可していたのだから、寛大ではあったのだろうが。
普通の親に戻っただけなのかもしれない。じゃああの人がいた頃は普通じゃなかったのか? そんなことはないはずだ。
「明日も学校があるんだから、早くご飯を食べてしまいなさい」
父は新聞に目を落としたまま言った。
あの人に会っても聞けないことがある。それは家族のことや、出て行ったわけ、恋人のことや将来のこと。親の信仰している宗教が気にくわないという反抗期の子供のような理由ではないことは薄々察しがついていた。では、一体。
「お姉ちゃんは、いつになったら帰ってくるんだろう」
ぽつり、とつぶやいたら母が固まってしまった。すぐにまた皿についた泡を洗い流しだした。「お母さんにもわからないわ」
「寂しくはないの」
聞いたら父の怒号が降ってきた。「やめなさい。お母さんが人一倍心配していることをさくらも知っているだろう」
私は黙るしかなかった。だって母が泣き出してしまったから。私がもう一言でも言葉を発してしまったら、ますます母が涙をこぼしてしまう。そうしたら、また父に怒鳴られてしまう。
黙って私はラップに包まれたおかずとご飯を持って自室へ移動した。父が母を慰めている声が聞こえる。しゃくりあげる母の声は発情期の猫のような声だった。私はラップについた水滴を見つめていた。やるせなくなった。
「お前、気を使いすぎじゃね」
私にそう言ったのは龍だった。龍と出会ったのはいつだったか覚えていない。ただ、地主でお金持ちの五十嵐家長男で一目置かれていたのは知っていた。公園や近所の行事には必ず龍はいた。中学受験に成功してから一度、疎遠になったが龍が大学一年の時、私が小学生の頃に近所の図書館で再会した。
龍の格好はそのときから奇抜だった。なにがきっかけで道を踏み外してしまったのかは知らないが、いつだか
「東京の大学へ進学したかった」
と泣きそうな声で言っていたのは覚えている。「東京じゃなくてもできることはあるじゃん」
励ましのつもりで言ったのに、龍は顔を歪めてわんわん泣き出したのだ。今になって思うと、龍の気持ちも少しだけ分かるような気がした。
「もう、叶うことはないからいいんだよ」
それから、龍は違法薬物を売る集団と連むようになってしまったし、大学も中退してしまった。地方の国立大学だけれど、偏差値が低いわけではなかったし、研究レベルも低いわけではなかったのに。「どうでもよくなった」と「もう勉強なんてしたくない」とぼんやりとした顔で言った。
私には龍のように好きなことや夢中になれることが一つもなかったから、龍がやりたいことや得意なことを諦める気持ちがわからずにいた。
隼斗の言葉を借りて言うなら「甘え」だと思ったし、「諦めたら叶うことも叶わない」とも思っていた。
そんな龍に私は「気を使いすぎじゃないか」と言われてしまったのだ。そんな、というと龍に失礼かもしれないが、龍だって自分の人生を生きてはいなくて、私よりもずっと苦しい思いをしてきたはずなのに。
腑に落ちなかったのだ。けれど、あの人がいなくなってから、その言葉がよくわかるようになった。心の中央にはぽっかりと穴があいていた。
公立の中学にいる子たちはバカばかりだから嫌いだ。小学校のときに仲が良かった子たちはみんな私立の中学へ行っちゃって、公立の子は残りかすみたいなくだらなくて中身がすかすかの人間しかいない。私もそんな人間の一人なのだろうけど、私の意識が私にある以上、私は私を特別な唯一の人間だと認識してしまうのだ。
認知バイアスがなければ、人は一人の人として生きていけない、というのは龍が言っていたことだったっけ。私にはさっぱりだ。
「加藤さんは、修学旅行どこに行きたいの」
ホームルーム中に、来年行く修学旅行の話をしていた。アンケートを取って多数決で決めるのだそうだ。候補は五つあり、その中から二つ選ぶ。
「断然東京ね」
「私も行きたいかも。一度も行ったことないし」
「渋谷のいちまるきゅーとか?」
「そうそう、あとは渋谷のスクランブル交差点とか!」
ここら辺に住んでいる人の大半は東京に行ったことがない人たちだ。でも、東京の景色や東京の駅名、あとは東京のグルメなんかはいくらでも知っている。テレビでは東京の特集ばかりなので、私たちは東京のことを隣町の出来事を話すかのように語ることができるけれど、それは虚しいことであることも承知である。だから、私たちはその話を極力避けるのだ。
男子は地元志向が多いので、東京に憧れている人はあまりいない。せいぜい、クラスのオタク連中くらいだろう。
「東京の何がいいんだ。人が多くて息苦しいだけだぜ」
というのは隼斗だ。私たちが楽しく喋っている会話に聞き耳をたてていたのか。どうせ隼斗の言いたいことは何かわかっているのだ。
「あんたにはわからないでしょうよ」
「東京のことはわかるぜ。ずっと横浜に住んでいたし」
女の子が「えっ、マジ」と本気で驚いていた。私が言いたいことは隼斗には理解ができないだろう。はじめから与えられた人間に渇きの感情は理解できないのだ。
「ずっとここら周辺でしか生きてこなかったのよ、あんたは都会者だからわからないでしょうけど」
「自然があるしいいじゃねえか、イオンだってあるし」
話をするだけ無駄だと思った。イオンは109の代換品にはなり得ない、それを理解していないのだ。
教壇の前に立つ田中がアンケート用紙を回収し始めた。「先生も東京には一度しか行ったことがないのよ」と私たちの会話に加わる。
プリントを抱き抱えたまま、腰を低くして、椅子に座っている私たちと目線を同じにした。
「今はまだモールがあるし、暮らしやすいけど先生が学生の頃には本当に何もなかったのよ。商店街はあったし、百貨店もあったけど。違うのよね……東京のそれとは」
「じゃあ、高校卒業して上京すりゃよかったじゃん」
田中は眉をくねらせて
「そんな簡単じゃないのよ。私は一人娘だったから、許してもらえなくてね。父はここが好きな人だったから、進学も他県は認めないって頑なで」
隼斗は黙り込んだ。そんなの、甘えじゃねえか、と思っているのだろう、顔に書いてある。田中は耳に髪をかけた。
「みんなはこれから可能性が無限にあるんだから、がんばれば東京くらい行けるわよ」
とってつけたかのような言葉だった。一教師としての理想論なのだろう。
中学生の私たちは明るい未来があるはずで、誰しもが可能性を持っているはずなのだ。根拠もなく信じ込むしかない。無意識に信じ込める人間が幸福なのだろう、その人の未来が暗くても、現在が暗くてもただ、明るくて笑顔でいられたら幸福なのだ。多分、龍が言いたかったことはこういうことなのだろう。
実際のところはわからないけれど。
「学校なんて牢獄だよ」
伊藤の台詞にぎょっとした。さらりと混じりけのない言葉を吐いてしまう、その彼の性質が私は苦手だ。
昼休憩に校舎裏で二人だけで話していた。教室の中にいるのが退屈だった。伊藤も退屈だったようで、校舎裏に私を呼びだした。校舎裏は陰になっていてペンペン草や雑草が堂々と生えている。
「加藤さんは、僕みたいに思うことはないの」
学校をそれ以外のもののようだと考えたことは一度もなかった。首を横に振る。
「加藤さんは、幸福なんだよ。龍さんには愛されているし、親とは仲がいいし。いいじゃないか、それ以上何を求めるんだ」
「何を言ってるの。私は何も求めてはいないわ。求めていないと言ったら嘘になるかもしれないけど、これを高望みだとは思わない」
「学校なんて牢獄だ」
伊藤は輝く青い空を憎んでいるのだと思った。地獄の業火を見ているような目つきで睨みつけていたからだ。
「じゃあ、伊藤が心安らげる場所って」
言い掛けて口を閉じた。
「奈々子さんは、いい人だよ」
なのに、と伊藤は砂を蹴る。
「加藤さんはどうして、そんなにわがままなんだ」
「わがままなのはあの人のほうよ。勝手に家を飛び出したのよ」
「君に愛想をつかしたからじゃないの」
何を言ってるの、と大きな声を出した。思ったより大きな声だったので、喉を押さえた。
「伊藤は、何を知ってるの。何も知らないのに、知ったような口を利かないで。今日の伊藤はいつもと違う」
「それは、いつも僕を見下しているから」
「そんなわけない」
これは嘘だ。
「そんな話しかしないなら、教室へ戻るわよ」
くるっと180度回転して、ペンペン草を踏みつけた、くしゃっと鳴る。
「奈々子さんのこと、好きなんでしょ」
ペンペン草を見ていた。踏まれたペンペン草は私の脚によって惨めな姿に折れ曲がっている。踏みつけていた右足をゆっくりと引き上げた。
「そりゃあ、姉として好きよ。多少は」
肩を小さく丸める。ごおお、と飛行機が遙か高く空の上を飛んでいた。
「そういう好きじゃなくて。恋人としての好きなんでしょ」
「何を根拠にそんな酷いことを言うの」
「酷いことなのか」
「そりゃあそうだよ。私は女で、あの人は姉なんだよ。そんな、ありえるわけがないじゃない。ありえないわ」
「じゃあ、目を見て言ってよ」
「どうして」
「嘘をついてるとき、加藤さんは目を見て話さないから」
体中から冷や汗が吹き出た。どうして、伊藤がそんなことを知っているのだ。どうして、私でも知らない事実を、あたかもずっと前から知っていたような口振りで言ってしまえるのだ。
私は仕方なしに伊藤の目を見た。伊藤の目は茶色くて濁っていた。
「あの人のこと、好きじゃないわ」
なんてばかばかしくて恥ずかしいのだろうか。あるわけがないのに。私は異性愛者のマジョリティなのに、どうして疑問に思われなくちゃいけないのか。
第一、私は龍と付き合っている。私は龍のことは嫌いだが、ふつうは相思相愛の者が恋人になるものだ。だから、異性の恋人がいる以上、私は女性を好きだと疑われることはありえないはずなのだ。なのに、伊藤に疑惑をもたれている。そのことが不快で、悔しい。
「わかったよ。忘れて」
伊藤は私から目をそらした。
「私、あの人の妹らしくいられている?」
「僕にはわからないよ」
伊藤はズボンに手を入れて、しゃがみこんだ。




