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カラオケへ行っても歌うことをしない。ただ三人でだべったり、トランプをして遊んだりする。それに飽きたら歌を歌ったりするけれど、そんなことは希である。
先に部屋を取っておいたのだけれど、その部屋がだだっ広くて得した気分である。マラカスやタンバリンは二つずつ設置してあり、十人は優に座れるであろうソファに横になってみる。そのまま、スマホで龍と伊藤に連絡をした。
隣の部屋から熱唱している男のナルシストな声が聞こえる。ああ、龍よりは下手だが、龍の歌い方にそっくりだ。
龍はメタルが好きなので、よく洋楽のメタルバンドの曲を歌う、トレーニングを受けていたこともあったようで歌はうまい。ビブラートも伸びているし、喉がはちきれてしまうのではないかと、心配してしまうほどの高音と声量もある。龍は、そつなくできるタイプなのだ。勉強も人間関係も、すべて人並み以上にはできる。
だからこそ腹が立つ。どうして奴は大学院を中退してしまったのか、大企業からのオファーを断ってまでも違法薬物に携わる仕事をしたがるのか。
「広い部屋だな、ラッキーじゃん」
本人は私が奴の将来について考えていることなんて、知る由もないのだろう。
ずかずかと龍は私の隣に座って、私の顔に手をかざした。
「疲れたのか。練習試合が近いんだもんな」
別にそんなわけではなかった。練習試合が近いのは事実だが、それ程度でぐったりするほど柔な体ではない。龍はすぐに私のことを子供扱いして、女扱いするから嫌いだ。
「大したことないわ。ちょっと考え事をしていただけよ」
「ババ抜きするから、早く起きあがれよ」
その言葉にむっとしたけれど、顔に出さずに私は上半身を起こした。
「三人でババ抜きってつまらないわ」
「いいじゃないか。俺は楽しいから好きだぜ。伊藤くんも楽しいよな」
私の真正面にいた伊藤は控えめに頷いた。
「伊藤くんももっと近くに来なよ」
おずおずと伊藤は私の左隣に移動した。右隣には龍がいる。液晶テレビには名前も知らないアイドルがCDの宣伝をしていた。
「龍さんの負けですね」
「ほんっと、龍はババ抜き下手なんだから。すぐにやにやしちゃって」
龍は机に突っ伏して本気でショックを受けていた。
「ババ抜きが苦手なのに、龍さんはババ抜きばかりしたがるのが不思議だよ」
「ルールが単純だし、頭脳ゲームが好きなんだよ」
「頭脳ゲームをする前に感情を顔に出さない訓練をした方がいいんじゃないの」
思わずにやにやしてしまう。伊藤も可笑しいのか、顔が緩んでしまっていた。
そんな間に龍はパンクバンドの曲をリクエストしてしまっていた。しまったと思ったが時既に遅しである。
シャウトしながらヘドバンする龍は高揚していて、伊藤は
「龍さん、この曲歌えるんですか、すごい」
などと興奮している様子だ。二人は幼なじみであるが、共通の趣味を持った友達でもある。伊藤の歌はお世辞にも上手いとはいえないけれど、音楽が好きという気持ちが伝わってくる。
TOEIC900点の龍はつまづくことなく英語の曲を歌いきってしまった。伊藤はきらきらとした瞳で龍のことを眺めている。私は腕組みをして考え込んでしまう。
確かに歌を歌っているときの龍は格好良くはある。目鼻立ちははっきりしているし、二重で鼻は高い。色白だし、身長も高い。ただ、何かが足りないのだ。一般的には格好良いのかもしれないが。どちらかというと、あの人とのほうがお似合いだろう。私みたいな中学生なんかより。
「そういえばさ」
伊藤が私に話しかけた。丁度龍の歌も終わったところだ。
「奈々子さんが寂しそうにしていたよ」
「またその話? 自業自得じゃない」
あの人は実家があるにも関わらず家を飛び出したのだから、それで寂しいのなら家へ帰れば良い話なのに。
「事情があるんだよ」
龍はマイクを置いて私の隣に座った。
「うちの事情?」
「そうだ。さくらちゃんは知らないかもしれないが」
「何で私が知らないのよ。教えてよ」
「どうして?」
は? と聞き返した。どうしてもこうしても私の家の事情なのに。
「直接奈々子に会えばいいだろう。俺はいえないよ」
「まあまあ、二人とも」
伊藤はいつもの困った顔でメニューを開いている。
「二人して意地の悪いことをしてるのね。見損なったわ」
伊藤は食べ物を注文していた。フライドポテトとコーラとオレンジジュースと烏龍茶を頼んだ。
「多分食べたら落ち着くよ」と私を見透かしたような顔をしていた。
ああ、腹が立つ。みんな死んじゃえばいいのに。
フライドポテトを食べてから十五分くらい経った頃、イライラが徐々に消えてしまった。伊藤とは長い付き合いだ。私の特長をよく知っているのだろう。
「気が向いたら会ってみるわ」
正直にいうと、あの人のことは嫌いだが、あちらがそこまで言っているのなら会っても良いと言えてしまうほどの、中途半端な嫌悪感しか持ち合わせていなかった。
「あんたら、頻繁に会ってるんでしょ、知ってるわ」
「ただ話してるだけだよ」
ふうん、と嫌みっぽく言う。だって私知ってるんだから、二人が私の話をしていることを。まあ、私だってあの人のことを聞くために龍と付き合ってるのだからおあいこなのかもしれないけれど。
それでも良い気はしない。
「でも、奈々子さんは良い人だよ」
と伊藤が言う。
「惚れてるの?」
冗談半分にからかったら、伊藤はまんざらでもなさそうな顔をしやがった。
「そんなこと、考えないよ」
「俺が中学生の頃は大人の女性に憧れたけどなあ。ボインでナイスバディのお姉さんに誘われたいなあって」
龍の話は聞いていないし、その話はもう何度も聞いた。
「惚れたっていいのよ。あの人男受けしなさそうだし、もらってあげればいいんじゃない」
「男受けしないことはないぞ」
え、と不意に声が出た。
「奈々子はあんな性格だけど、案外モテるんだぞ。たくましい女が好きな男もいるみたいだし」
「じゃあ、今付き合ってる人が居たりするの」
「さあ、それは知らないが。最近は男を見かけないし、多分いないんじゃないか」
なんだそれは。
「龍ってあの人と仲が良いのだと思ってた」
「仲が良いからっていちいち恋人の話をしないだろう」
龍の言うことはもっともだ。
どうしてなのだろうか。私の心は沈んでしまっていた。海底で圧迫死してしまいそうな気持ちだ。深海魚はきっと私をあざ笑っているに違いない。いびつな形の魚に笑われるなんて。いや、深海では私の方がよっぽどマイノリティなのだろう。人間の形は非合理的すぎるのだ。いびつなあいつらのほうがよっぽど合理的である。
「さくらちゃんは奈々子が誰かと交際して都合が悪いことがあるのか?」
「そんなわけないわ」
咄嗟に大きな声が出て、しまった、と思った。なんだか私がやましい感情を抱いているみたいじゃないか。
「仕方ないさ。まだ姉離れができないんだろう。まださくらちゃんは中学生だしね」
そう、と頭は虚空だった。
「いつか、丁度良い距離が保てるようになるよ」
丁度良い距離、とは一体どれほどの距離なのだろうか。
そもそも、人との距離に客観的な丁度良さなんて存在するのか? 存在するとしたら私は具体的に聞いてみたい。しかし、そんなものは存在するはずがないことを私は知っている。
人間関係において客観性など存在しないのだ。賢明な大人はみんな知っていることだ。知らない大人は愚かなだけで、たいていの人は知っている。だから腹立たしいのだ。
車は走る。ぼんやりとした頭で外を眺めていると私は私を失ったような気持ちになる。
どこかを浮遊しているみたいだ。
「伊藤くんは家へ帰るの?」
「今日は帰らないと、さすがに怒られます」
龍は心配そうな表情をしていた。伊藤の親は伊藤に暴力を振るう。だから伊藤の腕には痣が常にあって、消えることはない。彼が一番嫌なのは半袖になることなのだそうだ。
「いつでもうちに来なよ」
お人好しなところが嫌いだ。自分と似ているからなお、不安になるのだろう。
「いつか、僕は母さんに殺されるんじゃないかって恐怖で眠れなくなるんです」
隣にいる伊藤の顔を見た。
「児相行きなさいよ。そんなに追いつめられているなら」
それは、と言葉に詰まってうつむく伊藤は弱々しかった。
「お母さんを見捨てられないよ。あの人は、あの人なりにがんばってるんだよ」
「がんばってるからって子供に八つ当たりをして良い理由にはならないでしょ」
小さな、とても小さな声で「加藤さんは恵まれているからわからないんだよ」と言った。言ってすぐに泣き出した。
いつもならかちんときて嫌味の一つでも言うはずなのに、どうしてか伊藤のことがとても哀れに思えて、ごめん、と言った。謝るようなことはしていないのにとても申し訳なくなってしまったのだ。
伊藤はしゃくりあげていた。その顔を拭う左手は傷だらけで根性焼きの痕まであった。
「奈々子のところ行くか」
龍は聞いた。その言葉に、伊藤は鳥のさえずりよりも小さな声でうん、と言った。
「さくらちゃんは車にいて良いから、ごめんな」 気にくわなかった。どうしてこんな状況で私のわがままなんかに気を使うのだろうか。心底幻滅した。それは本当の意味での子供扱いに思えたからだ。
伊藤は透明な袋に入った白い粉を握りしめていた。お母さんの手を握る子供の手のように臆病な手だった。




