12
翌朝、学校を出てマンションのエントランスを抜けたところにリュウさんが仁王立ちをしていた。派手な髪色と紺のタンクトップに白のジーンズを履いたリュウさんは悪目立ちをしていて、道行く人は皆一瞥していた。
「よう、おはよう」
腕を振りながら俺の元へ寄ってくる彼に悪気はないのだろうが、戸惑ってしまう。
「何ですか、こんな朝っぱらから」
「俺はさっき仕事が終わったところなんだ。ちょっとお前さんに会いたくなったんでな」
「今から学校なんですが」
いいじゃねえか、と肩を叩く、非常に困ったことになってしまった。
「とりあえずここで話すのはやめましょうよ」
そうだな、とリュウさんはあの空き家へ向かった。
リュウさんは俺よりずっと大きな背中で、俺よりもずっと堂々としていた。その風格に尊敬はしたが、目立ってしまうし近所の人の目が気になってしまう。やはり関わりたくはなかったし、一緒に歩いたりもしたくはなかった。
俺のマンションから空き家までの距離は約十五分ほどで、車が行き交う道路の下り坂を歩き雑木林の先にある。
「昔はな、ここらにも人がいたんだぜ」
雑木林には人一人いなかった。静寂と木々のざわめきしか聞こえない空間はどこか不気味で早く逃げ出したい気持ちになった。いつもは雑木林を通らずに回り道をしてでも大きな道路を通ることにしている。
「春になると桜が恐ろしいほど咲くんだが、空き家が増えてからはあまり人がこないようになってしまったんだ」
「リュウさんもここら辺に住んでいたんですか」
まあな、と言った。
「でも俺はあまりこの街が好きではないんだ。ここは嫌なことが多すぎた」
「じゃあ、どうして」
言い掛けて口ごもった。ふふっとリュウさんは笑う。
「ここに居続けるのか、ってか。そりゃあ、やりたいことがここにあるからさ。可愛い恋人だってダチだっているから充実している。そんなもんだよ」
凛としていて奈々子さんに似ていると思った。
空き家に到着して、今日は空き家の二階にあるリュウさんの部屋に入ることになった。
リュウさんの部屋には学術書が床に積まれていて気を抜いたら転けてしまいそうなほどだった。数学の本や、化学や医学書、薬の辞書など様々な種類の本があった。
「座る場所がないな」
俺は仕方なくベッドに座ることにした。リュウさんは折りたたみ椅子に座った。
「難しそうな本が多いですね」
「日々勉強しなければならないからね。もちろん娯楽本もたくさんあるけど」
違法ドラッグを売るための勉強とは何なのだろうか、と疑問に思う。ただ法律の本も転がっているので、俺には知らない世界があるのだろうと無理矢理納得した。
「昨日、さくらちゃんが蓮君の自宅へ行ったでしょ」
「話したかったことってそれですか」
リュウさんは頷いた。もっと重要なことだと思いこんでいたのだ。拍子抜けをして脱力する。
「会いましたけど、やましいことは一切していませんよ」
「わかっている」
ただ、君に直接聞いておきたかっただけだ、と付け加えた。本で埋まっている机に置いているデジタル時計には八時半とあった。
「不安なんだよ。さくらちゃん、何を考えてるのかわからないから」
「話をしたりはするんですか」
「もちろん。俺はできるだけ彼女の趣味や嗜好に合わせているつもりだけど、それでも壁を感じるんだ」
しょんぼりとした表情で手遊びをするリュウさんは、誰が見ても落ち込んでいるとわかるほどだ。
「最近は君とよく遊んでいるし、歳が離れているのがいけないのだろうかって、悩むんだ」
「それを言ってみたらどうですか。さくらちゃんも無意識なのかもしれませんし」
「勇気がないんだ」
がくりと肩を落とした彼の表情は恋に悩む少女のようだった。ああ、俺の中のリュウさんのキャラクターががらがらと崩れる音が聞こえる。
「そうだ、君に聞きたかったことがあったんだ。君は奈々子のことが好きなのか」
赤面した。そんなにあからさまだったのかと、自らの行動を振り返りながら
「どうでしょう」言葉を濁す。
「好きかどうかはわからないが、やめておいたほうがいい。君には危険だ」
「さくらちゃんは」
「さくらはまだ安全だ。だけど、君のような相手じゃさくらちゃんはやっていけないだろうし、共倒れしてしまうはずだ」
「それは何を根拠に」
リュウさんの目は泳いでいた。俺には言えないことがあるのだろう。
「俺は君のような人間を巻き込みたくはないんだ。だから、奈々子から離れろとは言わないが、親密な関係にはなるなよ」
奈々子さんを抱きしめたあの日を思い出して、胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、下半身の膨張の気配を感じた。
「俺は、奈々子さんといるときに嫌なことを忘れられるんです。最近嫌なことばかり続いているから」
「ドラッグ依存症者もそういいながら抜け出せなくなるんだ」
苛立った。彼はドラッグを売る立場であり、依存症者を利用する立場なのに、どうして善人ぶるのだろうかと。もしかしたらリュウさんは善人ぶったつもりではないのかもしれないが、俺にはそういうニュアンスに聞こえた。
「奈々子さんをドラッグのように利用なんてしてません。ドラッグと人間関係は全くの別物でしょう」
「人間関係に依存する人間だっている。人畜無害の人間なんて存在しないが、奈々子は人の中でも毒が強いんだ」
「あなたは」
あなたは、いったい奈々子さんの何を知ってるのですか。と言いたかった。けれど言えなくて、拳を握りしめたまま立ち上がって、そのまま立ち尽くしていた。
「君は若いんだから、こんな寂れて治安の悪い場所に来るべきじゃないんだ。いずれ警察がガサを入れにくる頃合いだから」
リュウさんの目は遠くを見ていた。何もかもを諦めてしまった目で、再び俺を見た。
「まあ、俺は君がどんな過ちを犯してもどんな失敗しても責任は取れない。ただの忠告だよ。気にくわないなら聞き流してくれてもかまわない」
本が散らばった床を見たまま、結局俺は何も言い返せなかった。カバーがぼろぼろにはがれて黄色くなってしまった「フェルマーの最終定理」が目に留まって、リュウさんの表情を思い返した。虚しくなった。
遅刻してでも学校へ行くべきか悩んだのは午前九時半のことだった。苛立った感情はすっかり消えてしまって、リュウさんと本を読んだり中学数学を教えてもらったりしていた。昨日の信司の言葉は気になっていたし、隼斗の様子も見ておきたかった。しかし、遅刻していくと後々面倒になる気がしたし、やはり気が重かった。加藤さんといつもの顔で喋れるかもわからなかったし。
こうやって言い訳を重ねて今日も学校を休むことにした。リュウさんが学校に電話をしてくれると言ってくれたので、「病欠として」休むことにも成功した。リュウさんは容貌こそヤンキーのようではあるが、話し方や態度は一般的な青年男性だった。
「ごめんな。もっと時間を選んだ方がよかったな」
今更、彼は俺に謝った。目尻は垂れて眠たそうな表情をしていて、小さな子供のような甘えて優しい顔だった。加藤さんはこんなリュウさんの顔をどう思っているのだろうか。
「いいですよ。俺も学校に行きたくなかったので」
「伊藤君のことか」
そんなところです、とつぶやいた。俺の座っている隣に座って、リュウさんは上半身だけ布団に体を預けてしまった。
「気にするなよ。あいつはあいつで、悩んだ結果が死だったんだ。あんなのレアケースだよ」
悲しすぎると思った。それは追いつめられた結果なのだろうか、それとも現世に意味なんてないと思いこんでしまったのだろうか。わからない。リュウさんはすぐに寝息を立てて眠ってしまった。赤ちゃんのような表情ですうすうと穏やかに眠るリュウさんが、悪人に思えなかった。いや、悪人だなんて思っていない、だが、犯罪者なのは確かで、犯罪者は世間では悪なのだ。
リュウさんは犯罪者なのだ。
いくら犯罪者で悪なのだとしても、今ここにいる、柔らかな産毛をなびかせながら寝返りを打つリュウさんはただの一般市民で、ただの二十代の男性なのだ。誰かの大事な人で、日本国民で、基本的人権を尊重されなければならない一市民なのだ。
俺は唇をぎゅっと噛みしめて頭を抱えた。
昼頃に信司からメッセージがあった。携帯の通知は三度ほど鳴っていた。それを開く勇気は一切なく、スマホの電源を消して学生鞄の奥に投げた。
奈々子さんは昼過ぎに帰るとリュウさんは言っていた。
この俺の心を渦巻く奈々子さんへの感情をどの語彙で説明すればよいのか、わからなかった。好きなのか、と聞かれても正直、俺自身がわかっていないのだ。胸はどきどきするし、奈々子さんのことばかりを考える。奈々子さんに会うと心が騒ぐし、奈々子さんとどんな形でも一緒にいたいと願う。
この感情は何なのだろうか。
俺の少ない語彙で、このばらばらな感情を寄せ集めて形作ってしまうと、途端に失ってしまうような気がするのだ。だから言葉にしないことを努めた。ただ、奈々子さんのことを考える時間が何よりの幸福だから。
いつか、この暖かい感情も失ってしまうのだろうか。いつか、奈々子さんのことを忘れてしまうのだろうか。そう考えるとどんな残虐な映像や悲惨な事実よりも恐ろしくて、苦しかった。
俺はまだ、失った経験がないから失うことを知らない。
母と誰かの行為がフラッシュバッグして、頭がずきずきした。ずきずきした頭を押さえながら、トイレで一人になるためにリュウさんの部屋を出る。どうしてこんな時にあれを思い出してしまうのか。鮮明な記憶は、どうして色あせないのか。奈々子さんのことは今にも忘れてしまうそうなほど、脆い記憶なのに。
二階のトイレはリュウさんの部屋の向かいにあった。トイレと記載された木の板もぶら下がっている。そこに小走りで駆け込んで、便座に座り込み、安堵のため息をついた。
「あれは昔のことだ」と幾度も繰り返して、記憶のチャンネルを切り替えた。切り替えたチャンネルには信司と隼斗がいた。彼らが殴られている映像が流れだして、脈がいつもより早く打つ。呼吸もしづらくなって胸を押さえながら、もう一度チャンネルを切り替える。奈々子さんの映像だ。ダンスダンスレボリューションを踊り終えた奈々子さんが俺を睨んでいる。
「どうして会いに来るの」
冷ややかな言葉を投げかけられた記憶の中の俺は放心状態のまま、返事もできない。
こんなこと、思い出したくも考えたくもないのに。こんなとき、さっくりと死んでしまえたらいいのに、と思う。真っ暗なノイズが流れるチャンネルが一番落ち着くのだ。
一人で居るのは安心する。けれど、一人だと嫌な記憶を思い出してしまうから、嫌いだ。




