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空き家に行くと奈々子さんがいた。丁度外出しようとしていたところで、俺の存在には気が付いてないようだった。ジーンズとTシャツを着た姿で小さな肩掛けの鞄を持っている。凛とした表情をしている奈々子さんの顔を見て、おどおどしている自分が無性におろかに思えて足元を見た。奈々子さんが扉に鍵を閉めているとき、声をかけた。
「どこか外出するんですか」
丸まった背中をぴんと張って、できる限り大きな声を心がける。
鍵を閉める音の後、ゲーセン行こうと思ってさ、と声が聞こえた。石段を降りながら
「お前も一緒に行くか」
と人差し指で鍵のチェーンを回しながら、白い歯を見せてにっと笑った。
今日は自転車に乗ってこなかったので、少しだけ後悔した。ここから再寄りのゲーセンは二十分ほど先にある道路沿いに立ち並ぶマックやファミレスの隣に半ば寂れたゲームセンターが居座っていた。
「よく行かれるんですか」
横に並んで、早歩きにならないように歩幅を合わせることを意識しながら歩く。
「いやあ、最近は行かないんだけど、久々に行きてえなあってさ。ここ田舎だからさ、遊べるところ少ねえじゃん」
俺と同じくらいの目線の奈々子さんの鎖骨に光るハート形のネックレスが太陽の光にさらされてキラキラと反射している。思わず目をそらしてしまう自分は臆病だ。
「ただあの騒がしい空間が好きなんだよ。心が躍るっつーか」
奈々子さんはズボンのポケットからいつも吸っているセブンスターを取り出して、一本だけ口にくわえた。
「私はガキだからさ、華やかで鮮やかなものに惹かれてしまうのさ。君は違うようだけど」
煙草に火をつけ、煙を吐いた。苦い煙が奈々子さんのピンク色の唇から吐き出されていく。
「俺も小学生の頃はよく行ってましたよ。きらきらしたものも嫌いではないです、派手な空間も嫌いではないのですが」
母の怒った表情が脳裏に浮かぶ。いつだかのことを思い出して、腕にある遠い昔の傷口を抑えた。
「君はまだ子供だから仕方がないさ。不自由はいつまでも続かねえよ」
地面はかすかに濡れていた。そういえば学校にいるときににわか雨が降っていたことを思い出した。空気が澄んでいることを意識したのは久しぶりかもしれない。奈々子さんの周りは煙草の煙で覆われていて、俺の周囲も奈々子さんのまとった空気を共有していると思うと、古傷の痛みなんて忘れてしまいそう
だ。
広々とした道路がある歩道を二人で歩いた。他校の生徒が喋りながら歩く横を、堂々とした気持ちで歩いていると、歩幅を合わせていたはずの俺が、奈々子さんにぬかされてしまい、奈々子さんの小さく細い背中を追いかけて小走りをする。歩道橋を渡って五十メーター離れたところにあるマクドナルドの隣に、黒ずんだ看板が大きく目立っており、薄汚れた建物がこじんまりと建っていた。ドライブスルー客でいっぱいのマクドナルドと比べてゲームセンターの駐車場には車が一台も停まっていなかった。
そのゲームセンターに一歩足を踏み入れれば騒がしい音楽と、聞いたこともないアニメ声優のような黄色い声で店内は満たされていた。ユーフォーキャッチャーはピンク色に輝いているし、奥にあるパチスロ台は人もいないのに七色に点滅している。
黒ずんだタイルの床を踏みつけながら店内を巡る。
「奈々子さんはどのゲームがしたいんですか」
呆けている奈々子さんは俺の声で我に返ったようで、五秒くらいの沈黙の後に
「ダンスダンスレボリューション」
とだけ言って、それがあるだろう場所に早足で向かった。ダンスダンスレボリューションの機械の上に乗り、百円玉を入れて、奈々子さんはミスを連発しながらも踊った。
「やっぱ楽しいわ。蓮君もやってみなよ」
息を荒げた奈々子さんは体を左右上下に動かしながら、後ろにいる俺を見て言う。派手な音楽とともに踊る彼女は煌びやかな空間に合っていると思った。踊る奈々子さんは目の前にいて楽しそうに俺に話しかけながら踊っているのに、俺はとても遠くにいるような気がしてたまらない。煌々と光る空間に溶け込めるのは限られた人間だけなのだ。
ゲームが終了した後、息を切らして奈々子さんは機械から飛び降りた。
「蓮君は何か遊ばないの」
肩を上下させながら、腕で額やうなじの汗を拭きとった。白いうなじがかすかに見えて、見ちゃいけないようなものを見た気持ちになった。
「俺は、得意でもありませんから。見ているだけでいいです」
そうか、と奈々子さんはつぶやいた。
「君はどうして最近になって空き家に来るようになったんだ?」
同じ目線の奈々子さんは鋭い目つきで俺の目を見た。マスカラが塗ってあるまつ毛が五秒に一度ほど瞬く「どうしてだ?」
何も言えなかった。なぜなら、居心地が良いから以外の理由がなかったからだ。それを奈々子さんに言ってしまうのは気恥ずかしかったし、俺の些細なプライドが許さなかった。
「もしかして私のこと」言わせるまいと言葉を遮って、
「言いたくありません」と言った。
すぐに目をそらした奈々子さんは、そうか、とまたつぶやいた。俯きがちになって、俺から距離を取る。
「もう六時を過ぎているし、早く帰りな。あんたはまだ中学生なんだから」
背を向けて、またダンスダンスレボリューションをプレイしようとしている奈々子さんの体は、さっき
ほど楽しげではなく、どこか寂しそうな背中をしていた。
「また」
と声をかけ、返事を待たずに走ってゲーセンを出た。出てから、何をするでもなくただぼうっとした頭で道路沿いをただ歩いて、あてもなく歩こうと思ったけれどそんなことはできないから、大人しく帰宅することにした。
母は家にいた。けろっとした顔で、この間のことはなかったかのような顔をして、洗濯物を干しながら
「おかえり」と言った。
「今日は天気がすぐれないから部屋で干すの」と聞いていないのに説明をはじめて、どういう風の吹き回しなのか、と疑問に思った。
「どうしたんだ」
「どうもしてないわ、そんなに洗濯物を干してるのがおかしいかしら」
ここ一年も母は家事を放棄していたというのに、今更どうして母親面ができるのだろうか。
父はテレビの前で胡坐をかいて、いつものようにスマートフォンを触っている。部屋は母が片づけたのか整えられている。この間家を出て行ったことを詫びたいのだろうか。いや、母はそんな人ではない、それぐらいわかっているだろう。
シャツを叩いてハンガーにかけていく母の姿はただの平凡な母親だった。それに違和感を覚えてしまうのだ。模範的な母親の姿は喜ばしいはずなのに、裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
「今日は仕事が早く終わったのよ」
畳みかけるように母は言った。父は何も言わずにスマホを触り続けている。俺は空間に耐えきれなくなって自室へ駆け込んだ。
奈々子さんの刃物のように鋭い目つきを思い出す。「どうして最近あの家に」俺は復唱して考えた。何より強く願ったことは奈々子さんに嫌われたくないということで、もう一つは奈々子さんの日常の一部に
なりたいということだった。勉強机の前にかがみこんで、まとまらない思考を小さなメモに書き込んだ。それは、様々なことだった。
「俺は奈々子さんについてどう思っているのか」好意は抱いているはずだ。ただこの感情が恋愛なのかはわからない。
「あの家に行く理由は」それは奈々子さんに会うためで、現実逃避だ。
現実逃避をして何になるのだろうか。そもそも現実逃避をするほどのつらい現実なんて俺にあるのだろうか。
ぎごちない感情は結局パズルを散らかすだけで、余計にむず痒く心苦しい思いにさせた。
とりあえず勉強をしなければ、と強迫的に暗示をかけ、書きなぐった紙をゴミ箱に捨てて、学生鞄に入っている教科書を机に投げた。投げたら非力な教科書は小さな音を立てて、それは空しく響いた。非力なのは俺のほうだ、と思った。パステルカラーの数学Ⅱは俺よりも自信をもっているように見えた。
クラスの連中の隼斗と信司に対する仕打ちはエスカレートしていった。ニュースでも報道されなくなってきたにもかかわらず、日に日に暴力行為は増していき、ついには別クラスまで巻き込んでいってしまった。
それでも二人はできるだけ通い続けたし、逃げようともしなかった。それが褒められるようなことなのかはわからないが。
そんなある日、俺は腹痛で歩けなくなった。朝一番のことだった。
胃腸が弱いなんてことはない、熱もないのにどうしてか、腹がさすように痛むのだ。ベッドから起き上がることすらできずにいたのを見た父は「どうしたのか」と聞いた。歯を磨いてから急激に腹が痛くなったので扉を開けたままだったのだ。
「どうしてか、お腹が痛いんだ」
「じゃあ学校は休むのか」
悔しかった。隼斗も信司も学校へ通い続けているというのに、暴力を振るわれてすらないこの俺がはじめに音を上げてしまうだなんて。しかし、今の状態では歩くこともままならないことは確かで、学校どころではないのは事実だ。心配そうに僕を見つめる父に向って、休むことにするよ、と弱々しく言った。
布団の中で考えていたことはほとんど奈々子さんのことだった。奈々子さんは俺のことをどう考えているのかとか、奈々子さんに恋人はいるのだろうかとか。そして、そんなことばかりを考えている自分に幻滅した。今、この時に隼斗や信司は殴られているのかもしれないというのに。どうして俺は彼女のことばかり考えてしまうのだろうか。きっとこの腹痛は罰なのだろう。小心者な俺に対する戒めを自ら行ったのだ。
そうやって考えているうちに腹痛は和らいできて、睡魔に誘われてうつろうつろと眠りに落ちてしまった。




