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さくらちゃんと呼んでいい? と聞いたらだめよと叱られた。どうして? と不機嫌な表情を無視して問うたら
「あんたのこと、嫌いだから」
そう言って俺から背を向け、鞄を背負いなおした。揺れたポニーテールからはいつもとは違う芳香剤のような花の匂いがした。
交差点を走り、「また明日ね」と大きな声で背を向けたまま、立ち尽くした俺を無視してどこかへ行ってしまった。
すぐに信号は赤に変わってしまった。
「元気だな」
自分で口に出して冷静さを保っているのだ。恐ろしく面倒で、厄介なことに首を突っ込んでいることにようやく気がついた。
今日は奈々子さんのところには行かず、まっすぐ家へ帰った。時間は六時半を過ぎていた。
きちんと家事をしなければ、という使命感と、家で誰かの喧嘩には巻き込まれたくないという、ある種の自己保身が頭をぐるぐると駆け巡っている。
家へ帰ると、珍しく平和が存在していた。
「やあ、遅かったね」
部屋の隅には綿埃が掃除されないまま放置されているし、父の下着や靴下がフローリング上に放置されている。
父が働いていた時に許容していたことが、無職になった途端許せなくなるのはどうしてだろう。
リビングのクッションに体を沈ませて、いつものようにスマホをいじっている。どうせソシャゲに決まっている。
「掃除の一つくらい覚えてもいいんじゃねえの」
「蓮さんがやったほうがうまくできるじゃないか」
「やっていけばうまくなるもんだよ」
ええ、と甘ったるく語尾を伸ばす喋り方も癪に障る。これが自分の父親なのだ。
「今日は俺がやるけどよ」
情けない、と思った。時々、いつもは見て見ぬふりをしている俺でもたまに我慢ができなくなる時がある。そんなときもどうにか我慢をしてやり過ごしている。
しかし、この我慢はいつまで続くかわからないのだ。掃除機のコードをコンセントにつなぎ、床を滑らせていく。
父がダメで母も役割を放棄して、一体誰が親なのかわかったもんじゃない。
換気すらされていない部屋は埃っぽく、湿気が多い。大きな機械音は連続性があり不自然な動作もなく、安心できる。フローリングから畳の境目を踏みつけた。
伊藤についての報道がヒートアップしている様子をネットで見ていた。あることないこと書いてあるのは理解できる。
ただ、学校では「なかったことにされ」つつあるし先生もできるだけ触れないように努めている。正直、その態度にもうんざりしていたし、隠ぺいするならもっと上手にしてくれたらいいのに、とすら思う。
「いじめ自殺が起きた中学の生徒だけど質問ある?」
というスレッドを見つけた。多分、釣りだろうと思ったが、もしかしてと期待をかすかに抱いた胸を抑
えきれずに、タップした。
「i君と同じクラスだったんだけど」
俺と同じクラスなのか、とわくわくしてしまう。
そのスレッドは既に七百書き込みもあり、更新をしたらすぐに千を超えてしまった。
内容は「伊藤が死んだ理由は不明」「ひどいいじめはなかった」「学校では半ばパニック」「伊藤は元々気弱で目立たない子だった」「投稿主は男」「自殺した意図が俺にもわからない」というものだった。
目新しい情報は皆無だったが、スレッドの投稿主が誰なのかが異様に気になった。すぐに大手ニュースサイトでスレッドの内容が転載されて別のサイトでも話題になってしまっていた。「燃料投下」なんて言われ方もしている。明日、どうなるのだろうか、と不安になった。
うちの中学ではソーシャルネットワーキングサイトの利用が禁止されているのだ。裏サイトやネットいじめが流行った頃に禁止されたらしいが誰ひとり守っていない。
むしろソーシャルネットワーキングサイトに登録してない人がハブられるほどだ。
犯人探しにならなければ良いのだが、と杞憂した。
杞憂したことは現実となった。
「昨日のヤフーニュース見た?」
嫌な予感は的中した。彼らはプログラムされた機械のように同じことを同じように話していた。
「ヤバいよね、先生知ってるのかな」
知らないはずがなかった。
「皆、机に伏せろ」
ホームルームの最中に三十センチ定規を持ったゴリラは勢いよく扉をあけながら言った。さすがに焦りすぎだろうと、教室にいる俺らは皆、同じことを思っただろう。
当たり前だが、誰も名乗り出なかった。
「お前らであることは分かってるんだ」
そりゃあ、俺達だってわかってる。赤黒い肌ににじむ汗をぬぐいながら叫ぶゴリラの姿はひどく滑稽だ。
「大変なことになるからな。もし、正直に言うなら後で職員室に来い」
予想はつくだろうが、誰も行くことはなかった。当たり前だ、匿名掲示板に書き込んだ理由もわからないのだろうか、あの男は。
そんな感じで、昨日より更に教室は混乱していった。
「あほらし」
信司は変わらない。
「ネットに降臨したから何やねん、そんなの釣りかもしれんのにな。まともに受け止めてるのがアホみたいやで」
もっともだ。心の中で何度もうなずく、しかしその信司の一言は、クラスの中にあった大きな火薬を着火させてしまった。
教壇の前の席にいる小太りで坊主の男が声を上げた。
「この間から気になってたんだよ、お前、何様のつもりで話してんの」
信司ははあ、と苛立った声で返答したので、その男も強気に言った。
「そうやって見下している自分がカッコ良いと思ってるんだろ、人が一人死んでるんだぞ」
その言葉に「そうよ、前から気に入らなかったのよ」等と続々と声が上がる。俺が名前を知らないような影の薄い女や男も同様に声を上げた。主張するなら今しかない、と言わんばかりだ。
その声々は高らかに空中へ上昇していく。何事かと他の教室から見物に来る生徒が扉の向こうで嬉々としている様子は、見世物小屋を彷彿とさせて気分が悪くなった。
「お前らいい加減にしろよ」
混沌とした空気を切り裂いたのは隼斗だった。
「隼斗も信司と仲がいいもんな」
隼斗の真後ろにいる痩せた男に煽られて、教室の扉を勢いよく蹴り上げた。扉の向こうから小さな悲鳴が聞こえる。それからゴリラと担任の田中の声が扉の向こうで誰かを叱責していた。
隼斗から醸し出される険悪かつ陰湿な怒りの感情は滲み出ていた。調子に乗りすぎた、と焦る人も多かっただろう。しかし、場の混乱が読み取れない人もいるのだ。
「本当は隼斗が殺したんじゃないの」
声の主は不明だが、その無神経な言葉に隼斗は自分の机を大きく蹴り上げた。睨みつけた目は殺意に満ちて、ぎょろぎょろと教室中を見渡していた。
「何をしてるの」
止めたのは田中だった。背後には眉間にしわを寄せたゴリラもいて、隼斗は硬直するしかなく、やっと我に返ったのかおもちゃを買ってもらえない子供のような表情をして机を元に戻していた。
クラスの雰囲気はいつまでもどんよりと曇っている。俺の知らないところで、何かが変わりつつある現実をやっと知ったのだ。
あの小太りの男が仕向けたクラスの混乱は、混乱ではなく初めから計画されたものだと知ったのは昼休憩のことだった。
信司と俺と隼斗は加藤さんに呼び出され、昨日加藤さんと話した校舎裏に呼び出された。
「あのね、これ見てよ」
それはA4用紙にコピーされたもので、手書きで書かれたアンケート用紙だった。
「これ、あんたら以外全員書かされたのよ。書いてあるでしょ、伊藤を追い詰めた犯人は誰かって。前から今日の茶番は計画されていたのよ、一人じゃあんたらに逆らえないものね」
俺と隼斗は見入っていた。定規を使わないで引かれた線の上にはクラスメイトの名前が匿名で書かれている。信司の名前は十あって、俺は二つ、隼斗は八あった。
「わざわざありがとさん」
信司は加藤さんを一度だけ見て、すぐに教室へ戻るために歩き出した。ズボンのポケットに手を入れていつものように大股で歩いている。信司は、揺るがない。
「対策を取らなくていいの」
「俺が実際にやったわけちゃうねん。証拠もないくだらない遊びに付きおうとる時間がもったいないわ」
首をかしげて、唇を撫でる加藤さんは大丈夫かしら、とこぼした。
「私は、この状態を放置してると大事になるような気がするのよ。昨日の掲示板の件もそう」
それは俺も同じだった。一種のパニックに陥りつつあるような不気味な雰囲気はある。
「とりあえず、様子を見るしかねえだろ」
そう隼斗は言った。俺と加藤さんも同意した。何もできないことは明白だったからだ。
伊藤が死んでから混乱していたはずの教室は伊藤が死ぬ前のそれに戻りつつあった。時間が解決したのだと、安心したが本当にそれだけなのか、わからない。
朝のことがあってから隼斗と信司は休憩中に教室にとどまることを避けた。それはトラブルを避けるためだったのだろう。
加藤さんは俺の席に来て、勝手に信司の席に座った。「なんだか静かになったわね」
愁いを帯びた彼女の表情は作り物のようだった。
「仕方ねえよ」
クラスメイトが笑いながら話している内容は、伊藤のことではなく、信司や隼斗の話題だった。加藤さんは俺の耳元でささやいた。
「やっぱ、あの二人を悪者に仕立て上げようとしてるんだわ」
そりゃあそうだろう、と思う。かすかにしか聞こえないが、言っている内容は支離滅裂で破たんしていた。
「心の平穏を保つためなのでしょうね」
だから、俺たちは何もできなかった。ある種のいじめなのだから、あの二人が解放されたら次は俺と加藤さんがターゲットにされるのだろうから。
だから結局、見守るしか方法はないのだ。




