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ヒステリックな私たち  作者: 橘セロリ
少年の話
18/26

6

 予感は的中した。


 奈々子さんは近所にある青い看板のコンビニで発泡酒と缶のカクテル、あとウイスキーを買い、俺は百円程度のスナック菓子を購入した。俺のぶんはおごりだといいながら、奈々子さんはするめいかを籠に投げて、合計で三千円近く買い占めた。


 それからすぐに家へ戻った。俺は飲まされるのか、と不安になって「そんなにたくさん買って飲めるんですか?」と耳打ちをすると、冷蔵庫があるから平気だよ、とウィンクした。


 そんな感じで俺は断りきれずに缶のカクテルのプルタブを開けることになってしまった。


「はじめてです」


 奈々子さんは驚愕した。


「私が中学の頃は外で缶ビールを飲んでたぜ、蓮君は良い子なんだな」


 奈々子さんは350ミリリットルの缶をいっぺんに飲み干した。


「やっぱビールに比べたら味は劣るな」


 俺は発泡酒とビールの違いが分からず、頭の中ははてなマークでいっぱいになった。それからカシスオレンジを口に流し込んだ。あれ、これジュースみたいでおいしい。


「どうだ、初めての酒は」

「ジュースみたいで飲みやすいです。伊藤君も生きていた時はこんな感じで飲んでいたりしてたんですか」


 まあな、とウイスキーのふたを開けた。


「あいつ、生きてたら酒豪になってたぜ。飲みっぷりが豪快だったし」


 話している途中で奈々子さんは目が潤みだした。


「ごめん、みっともないな」


 腕で拭いながら、俺に背を向けて体育座りをした。しゃくりあげる声が聞こえる。


 俺はどうすればよいのか、何を話せばいいのかわからなくなって、ただカシスオレンジを喉に流し込んだ。


「結局私、慰めてほしいだけなんだよ」


 どうにもできない、どう慰めりゃいいのかもわからない俺は、多分寂しい育ちの人間だろう。


 立ち上がって、奈々子さんの丸まった背中にぴったりと密着して、腕を体に回し、右手で頭を撫でる。


「すみません、俺にはこれくらいしかできないんですよ」


 細い体の背骨が体に当たる。年上でもこんなに体は小さいのか、とまじまじと抱きながら考えた。


「なんで私が、クソガキに慰められなきゃならねえんだよ」

「じゃあ、離れたほうがいいですか」


 すると奈々子さんは俺の腕を掴んだ。


「離れるなよ」


 それから、俺と奈々子さんは一時間くらいはずっと引っ付いていた。正直恥ずかしくて、顔から火が出そうになっていたけれど、酒に酔っていたせいかどうにか正気を保てた。これが俗にいう「酒の力」なのだなとしみじみと思い知った。


 奈々子さんの鼻が肌色に戻った後、俺と奈々子さんは目を合わせるのにも躊躇した。多分、お互い恥ずかしかったのだ。


「さっきのこと、忘れてくれよ」


 唇を尖らせて奈々子さんは言った。


「そのつもりです」


 俺は頷いて、時計が八時を過ぎているのに驚いた。早く帰らなくちゃ、母親に叱られる。


「また来てくれるか?」


 聞いた彼女の目は、泣いているわけでもないのに潤んでひどくか弱く見えた。


「ええ、絶対に来ますよ」


 笑顔をつくろってから、その後俺は走って帰宅した。



 家に帰ると母がヒステリックを起こしていた。俺はリビングを見渡してすぐに理由が分かった。口紅と、女物の帽子が置いてあったからだ。しかも部屋は散らかり放題で、今日もぬいぐるみとクッションが犠牲になっていた。


「あなた、何回浮気をすれば気が済むの。離婚はしたくないなんてわけがわからないわ」

「俺のほうがわけがわからないよ。自分は不倫をし続けてるのに、人の浮気は許さないなんて虫が良すぎるだろ」


 廊下にいる俺はどう身動きを取っていいのかわからずにいた。俺の自室はリビングの奥にあるし、トイレに隠れてしまったらそれはそれで後々怒られそうな気がする。


 いっそのこと、奈々子さんのところへ行けばいいのではないか。


 いや、そんなのもっとだめだ。奈々子さんの問題ではない、俺は中学生だ。八時を過ぎてしまった今でもかなり遅いのに、これ以上なんて。


 俺は考えを振り切って、リビングへ向かった。怒り狂って大声を上げていた母親は、すぐに俺のほうをぎろりと睨みつけた。


「遅かったわね」

「ちょっと友達と勉強していたんだ」


 そう、と母はすぐ納得していなさそうな声を出した。父は一安心とでも言いたげなため息を一つついて


「蓮さんが帰ってきたし、もう喧嘩なんてやめよう、な。みっともないよ」


 母は首を横に振った。


「蓮が遅くまで遊んでいたから、こんな喧嘩をする羽目になったんだわ」


 涙声の母親は俺の頬をぶった。


 頭の中では様々なことを考えた。やはり、俺はこんな家に帰らないほうがよかったのだろうか、どうして俺がこんな目に遭うのだろうか、父の問題なのに、どうして俺が。


「お母さん、蓮さんは関係ないじゃないか」


 母の腕を掴む腕を振り払って母は外へ飛び出した。


 何が何だか、わからない。と母にぶたれた頬を抑えて立ち尽くすしかなかった。



 いったい、俺が何をしたというのだろうか。と言いたくなる経験はこれまで何度もした。ほとんどが母親からのもので、父は大体見ているだけか無視をするだけだった。今回は良い方だ、まだぶたれたことを認識していてくれているのだから。


 これが特別おかしいことなのだとも思っていないし、親だって人間だ、怒りの感情や悲しみの感情だって存在するし、完璧であるはずがないのだ。だから、俺が多少ぶたれるのも仕方がないことなのだ。


 ただ、そう冷静に考えられるのは一日くらい経った後の話で、今の俺はどうにもいられない暴力の衝動と、むず痒く、もどかしい湿疹のような悲しみが胸の内でせめぎ合っていた。


 仕方がない。


 そう言葉を唱えても、感情は収まらないのは、俺が男で、思春期の子供だからなのだろう。


 ともかく、この場でやらなきゃならないことが一つあって、とりあえず俺はリビングを片付けなければならない。癇癪持ちの母がまた家で癇癪を起さないように、用心しなければならないのだ。


 ああ、こんな時、奈々子さんならどうするのだろうか、と考える。


 奈々子さんはすっきりとさばさばとした性格の持ち主だから、こんな状況にもうまく対応をするのだろうか。頬を叩く母親の右頬を殴ることくらい容易いのだろうか。


 俺がこんなに考えすぎることのないさっぱりとした性格なら、こんなに悩んだりしなくて済んだだろうに。そんな人間になんて一生なれないことなんてわかりきっているけど。


 母親は結局帰ってこなかった。


 どこに行ったのかなんて俺と父はわかりきっていたけれど、口にはしなかった。


 どこに行ったんだろうね、いつものことだし、数日したら帰ってくるよ、なんて取ってつけたような会話を交わしながら、インスタントカレーを食べた。その空気に耐えきれなくなった俺はバラエティ番組をつけて、二人でくだらないねと話した。


 こんな生活はいつまで続くのだろう。


「離婚はしないの」


 父の手が止まった。


「ないよ。俺、お母さんのこと大好きだもん」


 意味が分からないといつも思う。俺は牛乳を一口飲んで、テーブルに置く、


「お母さんはどう思ってるんだろ」

「したくないから、喧嘩したんだろうよ」


 無精ひげの伸びた顎を撫でて、テレビを一瞥する。

「しかし、他に面白い番組はないのか。芸人がご飯を食べてるだけの番組以外で」

「あるけど、健康番組とドキュメンタリーしかないよ。しかもあと十五分で終わるし」


 そうか、ならいいよ。と父はまたスプーンを手に持ってかちゃかちゃと音を鳴らしながら食べた。


 かつて、父は無職ではなかった。


 今みたいに無精ひげを生やしていなかったし、毎日風呂にも入っていた。帰りはいつも終電の電車で帰宅していた。父親はスーツ姿がよく似合っていたのに。


 ただ、俺も働いてほしいと強く言うことはできない。一応父は「療養中」であるし、既に歳も四十を過ぎていて探したところで見つかるかどうか定かではない状況だからだ。

二人は何も言わないけど、父の病気で国からお金をもらっていることだって知っているし、そこまでカツカツでないことも、知っている。


「もう働かないの」


 俺は聞いた。勇気を振り絞って聞いた。


「お父さん、働ける状況じゃないって先生に言われているんだ」

「でも、ゲームや浮気はできるじゃん」


 父は一度黙った。


「あのね、お父さんの病気は頑張っちゃいけない病気なんだよ。仕事中に発作が起きたら迷惑がかかるし、また再発してしまうからね。何より働くのが怖いんだ」


 ゆっくりと幼い子供に言い聞かせるみたいに言った。俺は納得ができない。一応精神の病気だとは聞いてるが、そういう人は一日中寝たきりだと誰かから聞いた覚えがある。


「そんなに前の会社がしんどかったの」

「もうこの話はやめよう」


 父はぴしゃりと言った。胸を押さえて息苦しそうにし始めた父は、すぐにトイレへ駆け込んだ。大きな背中を、俺は目で追い続けていた。


 父が詐病だと疑っているわけではない。ただ純粋に疑問に思っていただけだ。


 父が言うには「お父さんみたいな人は業界じゃ珍しくなかったからね」というらしいけど、信じられなかったし、そんな状況で社会が回るわけがないとも思っていた。


 しかも父は技術者だ。俗にいうシステムエンジニアで、仕事ができないわけではなく、不真面目だったわけでもなかった。家に帰って食事をしながら勉強をしていたし、休日も返上で働いていたのに。


 こんなことが特別じゃないなんてことがあるのか、と考える。いや、特別に決まっている。


「お父さんは過労死しなかっただけまだ恵まれているんだ」


 といつだか笑っていたことを思い出した。

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