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ヒステリックな私たち  作者: 橘セロリ
少年の話
16/26

4

 彼女は奈々子という名前なのだという。彼女は古風な名前を嫌がっていて、自分はあまり好きではないと言っていた。俺からすれば古風な名前のほうが個性があって素敵なのに、と思うけど。


 結局、長話をしていたら夕日が今にも山の奥に落ちてしまう頃になっていて、時刻は七時を過ぎてしまっていた。すっかり、洗濯物のことを忘れていたことに、妙な焦りがあった。生乾きの臭いがついてしまうからだ。


 それに母も帰宅する時間帯だ。


 帰りたくない、と駄々をこねたくなった。それを察したのか奈々子さんはこうたしなめた


「でも、蓮君には帰る家があんだから、さっさと子供は家に帰りなさい」


 どうにも言えなくて、しぶしぶ家に帰るしかなくなった俺は、自転車をいつもよりのろのろと漕いだ。奈々子さんの、別れ際の「またね」が耳から離れない。


 ゆるやかな坂道を上ってすぐの場所にマンションが立ち並ぶ地帯がある。その一角に年季の入ったマンションがある。そのこげ茶色の建物の二階に住んでいる。駐輪場に自転車を収めて階段を上っていると、ちょうど帰宅途中の母親がいた。


「蓮、今帰りなの」


 スーパーの買い物袋をゆらゆら揺らし、屈みながら階段を一段一段上っている。


「いや、洗剤なくなったから買いに行っていたんだ。母さん、遅かったんだね」


 俺は母親が五時上がりの仕事であることを知っている。母は俺から目をそらして


「友達とお茶していたの」


 頬の筋肉を震わせながら、声をしゃくりあげた。母が嘘をつくとき、決まって声がしゃくりあがるのだ。


「そっか、お疲れ様」


 階段を二段飛ばしして、母親の先を越していく。


「洗濯物を済ませなくちゃいけないんだ」


 と母と同じ空間にとどまらない言い訳をした。


 俺の中にあるもやもやとした様々な感情や言葉たちが、一斉に形作ろうとしはじめたところを無理やり引き裂いた。


 後ろを振り返ると、スーパーの袋を階段に置いて休憩している母親が伸びをしている。  

あんなにも、俺の母親は惨めだったろうか。ふと目線を落とすと、階段の端には死んだカメムシが転がっていた。



 母親が不倫をしていることに気がついたのは小学五年生の時で、ちょうど人気ゲーム機会社から新しい携帯ゲーム機が発売された年だったはずだ。


 父親が不倫をしていることを打ち明けたのは小六の冬のことだったから、母親のほうが先に不倫をしていたことになる。


 父は母の気を引くために不倫をしているが、母親の行為は純粋な恋愛感情からなのだといつだか父が言っていた。だから俺や父に負い目があって、いつも隠そうとしているのだと。さっきの母の反応があからさまだったことを見ればすぐにわかるが、一切隠れていない。


 今でこそ、慣れてしまったけれど、純粋純朴にのびのびと成長した平凡な小五男児にとって、母親の不倫は衝撃的な事件だった。


 こういってしまうと生々しいことに感じてしまうけど、母親の不倫を知ってから同じお湯の風呂に入りたくなくなってしまったし、ハグをされることにも抵抗を感じるようになった。


 母にとっては聞き分けの良い可愛らしい息子が親離れをしだしたとでも勘違いしているのかもしれないが、この変化はそんなにも些細なものではないし、成長過程に生じる健全なものでもない。


 もしかしたら、母は黙って気づかないふりをし続けてくれているのかもしれない。だとしたら、なんて酷い親なのだろうか。綿で首を絞められている気持ちだ。


 生理的嫌悪感すら覚えている息子の前でさえ、いい親であり続けようとする母はエゴの塊でしかないだろう。もういっそのこと、「あんたなんて息子じゃない」くらい言ってくれた方が楽なのだ。「あんたなんてどうでもいいから、私はパパじゃない他の男を好きになったの」くらい言ってくれさえすれば。


 俺のことを大げさだと、誰かは言うかもしれないが、そりゃあ母があんなことをしている姿を間近で見たらどんなに親を溺愛している子供でも一歩距離を置くだろうし、きっと普通の感性を持った人だったなら考えるだけで苦痛で思い浮かべたことを悔やむに違いない。


 ああ、思い出しただけで頭がかち割れてしまいそうになる。あの忌々しい風景は僕の脳裏に浮かんでは消えて、映像を一枚ずつ写真に撮って映しているかのように、鮮明にスローモーションに、再生され続けている。その映像のチャンネルを変えることは容易だが、別のチャンネルを付けているとすぐに誰かが頭のチャンネルを切り替えて、またあの映像をつけようとする。この繰り返し。


 今日の晩御飯は久々に母の手作りだ。それも俺の好物だったハンバーグらしい。タネは昨晩作っておいたもので、あとは焼くだけなのだと、母は嬉々と語った。


 妙な罪悪感で胸は締め付けられた。母の手作りハンバーグはいつも通りの味で美味しかった。



 中学への通学路がいつもより妙に騒がしく感じられた。報道の車やアナウンサーたちが学校の前にぞろぞろと集まっていたからだ。


 俺はできるだけ目を合わせないように校内へ入ったが、校舎も伊藤の話題で持ちきりだった。誰もが伊藤の噂話をしていたし、悲しみの表情を浮かべるわけでもなく、ただ非日常を楽しみ、これからの展開がどうなるか、悪人は誰なのか、その解答を心待ちにしていた。


 この様子を奈々子さんが見たらなんて言うのだろうか。とふと考えた。きっと怒るに違いないと確信した。


「よう、今日は早いじゃん」


 隼斗は手をぷらぷら振った。


「ちょっとな。つーか、今日騒がしくね」

「なんか炎上してるらしいぜ。俺もよくわからねえけど」

「ネットでか」


 そうそ、と隼斗は頭の後ろに腕を組んだ。


「何か実名で晒されてる奴もいるらしいんだと。俺とお前はセーフだったよ、俺が確認したからさ」

「誰か知ってるのか」

「うーん、俺もよくわかんないや。うちの学校の生徒じゃない奴もいたっぽいし」


 伊藤の自殺から話が拡張しすぎて混乱してきた俺はとりあえず、自分のクラスに学生鞄を置くことにした。


 二年の教室は二階にあって、五組は一番端の教室にある。そこにたどり着くまでに、様々な噂がいたるところで飛び交う様子を尻目で見た。


「伊藤の兄ちゃんってゲイなんだって」

「虐待を受けてたらしいよ」「三年をボコボコにしたって聞いたけど」「伊藤が二組の山田とヤッてたって」


 本当なのか定かではないろくでもない噂話ばかりだ。


「伊藤って覚せい剤常習犯だったって」


 足はぴたりと止まった。冷や汗が首筋をすっと流れた。


「何か、どこかで吸ってるのをみたことがある人がいたらしいよ。ハイなときは人が変わったようになっていたって」


 声の主は四組の前の廊下の壁にもたれて話していた。


「それ、誰が言ってたの」


 聞くと、一度目を大きく開かせた女子は、しまったという顔をして唸った。


「確か、五組の加藤さんが言ってたよ。仲がいいでしょ、聞いてみたら」


 バレー部の加藤さんのことだろう。俺は軽く礼を言って、すぐに自分の教室へ向かった。



 窓際の端の席に鞄を投げて、教室のドアに近い席にいるバレー部の加藤さんに声をかけた。まずは「おはよう」加藤さんは驚いた顔をして、夏目漱石のこころに落としていた目線を俺に向けた。


「あ、おはよう。どうしたの、かしこまって」

「伊藤のこと、知ってんの」

「何を?」


 口ごもった。言いたくなかったからだ。


「覚せい剤とか、やってたって聞いたんだけど」

「蓮が伊藤に興味持つなんてどーいう風の吹き回しなの」そう鼻で笑った。

「そんなの、どうだっていいだろ」


 加藤さんは首をひねる。


「ま、私はどうでもいいんだけど。ただ、見ただけよ。薬売りと話して受け取ってるところ」

「薬売り? って危ない薬を売ってる人の子とか?」

「そうそ、しかも伊藤がぺこぺこしてたわけじゃなくて、結構仲良さげに話していたから、不思議でね」

「どうして薬を売っているとかったんだ?」


 加藤さんはしまったと、言いたげな顔をして、「なんとなくよ」と顔をそむけた。


「そんなことより、今日は一時間目から漢字の小テストなんだよ? 私、勉強したいんだけど」


 勉強する気なんて微塵もないくせに、と突っ込みたい気持ちを抑えて、俺は仕方なく退散せざるを得ない状況になった。「ありがと」と一言言ってから自らの席へ戻った。

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