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至って普遍な日常を迎えた朝はいつもより朝日が射していた。何もないとは言い難いけれど、非日常があるわけでもない。平凡な地方都市に訪れる朝は、やはり平凡なものだった。
平凡というと聞こえはいいが、悪く言えば中途半端なのだ。特別良いところがなければ、特別悪いところもない。退屈な街である。
こんな街だから、クラスメイトの女子の中では東京に憧れる連中もいるが、そんなのは少数派で、ほとんどはこの生ぬるい街に満足している。そもそも、上を目指してる子供は中学受験をさせられているから、半端者ばかりが集まっている。それが棲み分けなのだろうし、世の中はそういう風にできているのだろう。
こういう俺の考えは特殊だと様々な人に言われたが、そんなことはない。ただ、知りすぎただけだ。母が不倫したり、リストラされてしまった父が放心状態になっている様子を間近で目にすれば、将来の夢なんて語れるはずがない。
こういう話を少しでも大人にした日には、俺は可哀想な子供と慰められることだろう。勘弁してくれ、あんたら大人にとっては狂った世界なのかもしれないが、俺にとってはこれが正常なんだ。口を出さないでくれ。
とりあえず俺は、学校に到着して、いつも通り、二年五組の教室へ向かった。俺らの学年は他に比べておとなしい、と先生は週に一度は口にするが、よくわからない。
教室の中の男子は下ネタを嬉々と話していた。くだらねえな、と悪態をつきたくなっても、それを言ってしまうと大変なことになってしまう。くだらないことに従わなきゃ、学校では生き残れないのだ。
「今日も蓮は早えな」
蓮というのは俺のことだ。教室の一番前の席に脚を投げ出して、行儀悪く座っている友人の隼斗は機嫌良く続けた。
「今日さぁ、宿題忘れたんだけど写させてくれね? 内申落ちるのは嫌だからさぁ」
目を伏せて、いいよ、と答えた。宿題をしている以上、ノーはありえない。
「サンキュ、今度ジュース奢るよ。蓮は真面目だから助かるわ」
「真面目じゃねえよ、俺は塾行ってないから、宿題をする時間があるだけだよ」
「ふうん、でもお前は成績良いよな、羨ましいぜ」
後で貸すから、と俺はひらひらと手を振りながら自らの席へついた。廊下側にいた隼斗を一瞥すると、バレー部の加藤さんと他愛ない話をしていた。俺は静かに席につき、俺の前の席でふて寝している信司に声をかける。このいつもの流れは毎日繰り返されるはずだった。
「今日は伊藤休みなの?」
俺の斜め下の席に座っている信司は舌打ちをした。「あいつをいじるの楽しいんやけどなあ」
彼は元々標準語で話すのだが、中学に上がってから似非関西弁を話しだした。以来、関西弁キャラとしてクラスの人気者となっていた。
朝のホームルームは誰もが気だるそうにしている。今日は担任がいない、会議で遅れるとクラス委員が言っていた。
「この前はちょっとやりすぎじゃなかったか」
俺はあくまでも軽口を叩く感じで言った。信司は、
「おめー優しすぎとちゃう、伊藤みたいな甘ちゃんは俺たちみてえなクラスのリーダーが躾にゃダメなんよ」
「信司は正義感が強いな」
有り合わせの言葉を繕った。
「やろやろ? 尊敬してもいいんやで」
「調子乗りすぎだから」
俺と信司は腹を抱えて笑った。すると教室の入り口付近にいるバレー部の加藤さんが
「あんたらうっさいよ。坂本さんの声が聞こえないじゃんか」
と大声を上げて、俺と信司は黙り込んだ。
委員長は教壇の横に立って、生徒会や体育祭の報告をしているが、後ろの席にいる俺たちには聞こえないほど小さな声で話している。
「委員ちょの声が小さすぎて聞こえませーん、雀の鳴き声みたいな声じゃあ後ろにまで届かへんで」
信司はクラス中に響くほど大きな声で言った。クラス中の男子たちは爆笑した。俺も、一緒に笑う。委員長はもじもじしながら焦っているので
「このバカのことは気にしないで続けてください」と俺はフォローした。
そんなバカなことをしていたら、教室の扉が勢いよく開かれた。つかつかと大きな足音を立てて入ってきた担任の田中の顔は、怒っているのか悲しんでいるのかがよくわからない表情をしていた。今日は珍しく、ぼさぼさの整えられていないミディアムヘアが一つに束ねられていた。
「あのババア、離婚でもしたんか」
信司は小さな声で俺に声をかけた。いや、確か田中は独身だったはずだ。
「ちょっと坂本さんは席に戻って」
「残念なお知らせがあります」
教壇に立った担任は俯きがちになって顔を隠した。
「伊藤君は今朝、事故で亡くなりました」」
クラス中はざわつきだした。信司はうそやろ、とにやにやして俺をじっと凝視した。俺はただ、平穏な表情を保ちながら、嘘だろ、とつぶやくことしかできなかった。
伊藤が事故で死んだ。その事実はたちまち学校中で話題となった。一階の空き教室前にあるブルーシートと、それを調査する警察がいたことから、皆「本当に事故なのか?」と疑っていたし、噂によると自殺なのではないか? と言われだした。
「伊藤が自殺したって嘘に決まってんだろ。わざわざ学校で?」
隼斗はホームルームが終わってすぐに、俺と信司のいる窓際の席にまできて眉をひそめた。
「田中がゴリラと話しとったで、悲惨な姿やったって」
「にしたってよぉ、伊藤が自殺する理由なんて何もないだろ」
「隼斗、おめえ焦ってるんか? 最近ニュースでよういじめ自殺について報道しよるもんなあ」
隼斗は黙り込んだ。信司はこうやって隼斗を攻めているときが一番楽しそうだ。
「だいたい、わしらは中学生やねん。もしもわしらが伊藤を殺すまで追いつめていたとしても実名報道はありえへんし、法律が守ってくれるんや。だから、隼斗、そんなびくびくせんでええって。あほらしいわ」
饒舌に語る信司に逆らえず、隼斗は縮こまってこくこくと頷いた。「気にしすぎだよな、そうだよな」
「あんたら、伊藤君のことを何か知ってるの?」
俺らの輪にバレー部の加藤さんが割り込んできた。
「田中に聞いたんだけど大変らしいよ。電話が鳴り止まないんだって」
バレー部の加藤さんは長いポニーテールをゆらゆら揺らしながら、身振り手振りを加えてコメディアンのように話す。彼女も学年では有名な女子で、男女問わず様々な生徒から人気を集めている一人だ。
「そんなに大々的に報道してるのか」
「よくわからないけど。そこら辺は先生教えてくれなかったわ。マスコミに何か聞かれても黙ってろとはいわれたけど」
「わしもテレビデビューできる日がきたか」
「余計なことはしないでよね。来年受験なんだから」
バレー部の加藤さんは隼斗の肩を叩いて、大丈夫よ、と励ましている。
こうやって半ば傍観者となった俺は、報道や自殺という単語を聞いてからずっ怯えていた。
いじめ自殺報道から、加害者の家族や住所を割り出すネットの祭りを目の当たりにしていたことも理由の一つで、本当のことをいうと、俺もその祭りに参加していた。だから、もしも炎上してしまったら信司の言う「法律」なんてものが通用しなくなっていることを身を持って知っている。
だいたい、法律の脆弱性なんてものは両親を見ていればわかることだ。
「蓮も怯えとるんか?」
「少しだけな。やっぱ、怖ええよ」
信司と俺は保育園からの幼なじみなので、本音も多少は口にできる。隼斗は小六の秋にこの街に引っ越してきてからの仲だから、信司ほどは仲良くはない。
「蓮は大したことしてへんし、もっとひどいことした連中おるやろ。せやから平気平気」
伊藤がクラスで浮いていたことは二年五組のクラスメイトの過半数は知っている事実だ。担任の田中も目撃しているはずだ、第一、田中もいじりの対象だったけれど。
「もう少しで授業始まるから戻ろ? 信司の言うとおり、気にしたって私らには何もできないし」
まもなく授業のチャイムが鳴り響いた。いつもと同じ平凡な音のはずなのに、今日だけは特別煩わしいものに思えた。
三時間目の体育の前の数学の授業で提出物を集めていたら、授業に遅れてしまいそうになっていた。いつもは隼斗や信司と行動するのだが、今回ばかりは先に行ってもらった。
学校の昇降口は明かりもなく、薄暗かった。すのこはがたがたと不安定でささくれたっていて、生徒数も無駄に多い中学だから無駄に広い。教室を移動している女子が大きな声で、誰かの噂話をしている様子を横目で見てから靴を脱ぎ捨てた。
下駄箱は三番だ。嫌な数字だといつも思う。井上だから一番になることはない。二番になることはときどきあるけれど、伊藤のせいで三番だ。
俺は下駄箱にシューズをしまおうとしたとき、奥の方にきらきらと光る白いものを発見した。正方形の袋に入れられたその岩塩のようなものを手に取ろうとしたとき、一緒に十桁の数字が並んだ紙もあった。おそらく、誰かの携帯番号だろう。しかし、どうしてこんなものが俺の下駄箱にあるのだろうか?
二番の下駄箱はからっぽだった。もしかして、誰かが間違えたのではないだろうか? なんて思ったけど、間違えでこんな無意味なものを入れるだろうか。とりあえず、俺はその岩塩のようなものと紙を体操着のポケットへ入れた。