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たどり着いた場所は大きな川だった。だだっ広い道路の端に駐車して、誰もいない河川敷を二人で歩いた。小麦色と緑色の雑草が生い茂っていて足を踏み出すたびに間抜けな音がふしゃふしゃと聞こえる。
「ここが自由になれるところなの?」
雑草の生えていない土は湿っていて運動靴で踏みつけると靴の裏が泥だらけになってしまう。
「嫌な気分になったときとか、よく来ていたんだよ」
ふうん、と頷いて橋の下まで駆けた。太陽の光がまぶしくて目をあけられないからだ。
「ほら、あっちきれいだろ」
橋の下から太陽がある方向に龍は指を指した。水面がきらきらと反射しながらあたり一面が真っ白に煙って、光の光線をありとあらゆる方向に向けてはなっていた。真っ青な川に浮かぶ、その輝きに私は見とれてしまっていた。
水面が風で吹かれるたびにそのきらきらも形をかえていく。時折魚やカモメが視界に現れては消えていく。カモメはすいすいと水面のぎりぎりを飛行して私たちがいる場所よりずっと先にあるもう一つの大きな橋や山を越えていくのだろう。
私はいつのまにか、私ではないような気がしていた。いつも思い悩んでいるあの人のことや伊藤のこと、学校のことなど些細な小さいことに思えてきて。
「嫌なこととか、どうでもよくなってくるんだよ。ああ、俺、この世界にいていいんだなって思えてくる」
龍も同じ方向を見ていた。ポケットに手を入れて私の隣に立っている。顔を見てしまったら、またいつもの日常に戻ってしまうような気がした。だから、私はあのきらきらを見続けた。
ずっと見ていたら私もあんな風になれるような気がした。もちろん、あと数分もすれば忌まわしい日常に戻らなければならない。けれど、この瞬間だけは、この風景に同化することができる。あのきらきらに私の求めているものがあるように思えた。いつか、私も手にすることができるのだろうか。二人の影は傾いたまま、風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。
平凡な休日を終えて、平凡な月曜日を迎えるはずだった。けれどその月曜日は私にとって一生忘れられることのない月曜日となってしまった。
そう、伊藤は自殺したのだ。
毎週月曜日はバレー部と吹奏楽部の朝練があるため、六時頃から学校に入ることができる。バレー部の朝練は七時からだが、その前に清掃やミーティングがあるため六時半には集合していなければならない。
その日、六時十五分頃には学校へ到着していた。ミーティングのための用紙を教室に忘れていたからだ。二年五組の教室を出て、一階へ続く階段を下ったところに空き教室があった。
朝日によって暗くなった空き教室付近に、大きな影があった。いつもはそんなものないのに、と不思議に思って空き教室の扉のほうへ近づいたら、教室の扉にひもをくくりつけている男の体がぷらぷらと揺れていた。糞尿の臭いが鼻を刺す。信じられなかった。だからその体と廊下のタイルを交互に見た。その抜け殻は私に背を向けている。その顔を見るのに躊躇した。もう誰かがわかっていたからだ。しかし、わかっているにも関わらず体は硬直して、震えていた。歯はがちがちと無意識に歯ぎしりして、足は今にも崩れ落ちてしまいそうなほどである。
「ねえ、あんたもう死んじゃったの?」
聞いても返事はなかった。ときどき、体がぴくりと動いていたような気がしたが、意識があるわけではないようだった。
つばを飲み込んで、足を一歩前にやった。そいつの顔を見なければ、という気持ちが強かったからだ。
首を吊った人の顔なんてほとんどの人は見る機会がないだろう。そんな特別な経験を中学二年生で経験してしまったのだ。ここで、逃げていれば人生は歯車を狂わされなかったのではないか、そう思う。しかし、ここで逃げていたとしても、別の類似体験をするに違いない。
伊藤の顔は穏やかだった。その顔を見て、負けてしまった、と思った。こいつには一生勝てるはずがない、この安らかな表情が私の後ろ側に張り付き、惑わせるのだろう、と確信し、その一方で勝った、とも思った。精神的には伊藤のほうがずっと優れているかもしれないが、あの人のそばにいることに彼は負けてしまったのだ。私は精神的な強さや潔さなんていらないのだ。
こいつは負けた。いつかあの人の心から消えてしまうだろう。生きているものが死んだ者に勝ることはないのだから。
廊下の端のほうに小さな紙と正方形の袋、あと遺書のらしき手紙が置いてあった。遺書らしきものの中身は簡潔だった。これから先、生きていくことはとうていできません、と一文だけ書いてあり、その後に龍やわたし、あと菜々子さんによろしくとだけ書いてあった。
私は伊藤を死に追いやったと自覚していた。あの罵倒で傷ついた伊藤の表情を思い出し、急に吐き気を催した。私が罪を感じる必要は一切ないのだ。あんな言葉で死ぬならば、奴はいつか自殺していたに違いない。私が罪を感じる必要なんて微塵もないのだ。そう、私は自分に何度も言い聞かせた。言い聞かせないと正気が保てなかったからだ。
彼はわざわざ監獄で死を選んだ。選別されたのだ。それを伊藤はわかっていたのだろう。
安心して、その遺書を目立つところに置き、正方形の袋に入った覚醒剤と菜々子の電話番号を持ち、その場を去った。どんな顔をしてあの人に会えばよいのだろうか、そんなことをぼんやりとした頭で考えていた。
昇降口にまできて、伊藤の下駄箱を探した。たしか、伊藤の出席番号は三番だったはずだ。伊藤のシューズには名前が記載されていなかったのを覚えている。その下駄箱にあったシューズにも名前はなかった。
下駄箱の奥の方にそれらを入れ、逃げるように体育館へ向かった。