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パジャマ姿になってあの人の隣の席にどすんと座った。
「どうして帰ってきたの」
置いてあるカレーとサラダを凝視して言った。嫌みっぽくはないはずだ。
「特に意味はない」
ぶっきらぼうにあの人はひじを突いた。父は私の真正面にいて、新聞を読んでいた。
「さくらに言う義理なんてねえよ。つか、あんた中学生なのにどこ行ってたんだ」
「友達と遊んでいたの」
「友達、ね」
酷く不機嫌そうな奈々子にいらだったのは言うまでもない。恐らくこの間のキスが原因に違いない。しかし、今は家族団らんだし、少しは我慢をすればよいのに。もしも母や父に聞かれたらどうするつもりなのだ。
「奈々子はどうして怒っているの」
母は眉をくねらせて椅子に座った。奈々子はますます不機嫌な表情になって知らない、と言い捨てた。
「もう二十歳すぎてるのに、そんなんじゃ大人げないよ」
「まあまあ、さくらもそこまで言わないの」
母も内心同じことを考えていたのだろうか、私に対する口調が優しかった。
「いいから食べようぜ、せっかくの飯がさめちゃうよ」
そんなこんなで、特別なことは起こらずにふつうの家庭のように雑談しながら、夕飯は終わった。
「ごちそうさま。じゃあ、私は勉強するね」
完食後、逃げるように自室へかけこんだのは、私はあの人の隣で一般的な妹を演じるのに耐えきれなかったからだ。
自室へ駆け込んでも、緊張は収まらなかった。あと十歩歩けばあの人が存在するのだから。緊張しないでいられるはずがない。
おかげで勉強に手がつかない。考えていることはあの人に関する不快な感情や記憶についてだった。そのことで頭がいっぱいになってしまった私は、いつも以上に愚かになるのだ。スマホで好きなアーティストの好きな曲を聴いたって意識はあの人の元にあるままで、こちらへ戻ってくることはない。
「さくら、いるのか」
そうやって悩んでいる先からあの人は現れる。あの人は扉を躊躇なく開いてから、勉強机に座って勉強しているふりをしている私の背後に近づいた。ばたん。と扉は自ら閉まった。
「勉強しているのか、偉いなあ」
「そりゃ、あんたとは違うからね」
「そんな言い方はないだろう」
背後にいるのか、知らないシャンプーの香りがふわっと鼻を通り抜けた。シャンプーを変えたのだろうか、それとも私の知らない誰かと使っているものなのだろうか。
「さくらは、私のことが嫌いなのか?」
振り返らずに、ノートを端から端まで頭の中で復唱して気を紛らわしていたが、
「嫌いなら、もう会わないからさ」
その一言により冷静さを完全に失ってしまった。混乱していた、という表現の方が正しいだろう。いつものように悪態の一つでもつきたかったけれど、それさえ困難である。息が止まっている錯覚、四方からじわじわとコンクリートの壁に迫られて、身体を押しつぶされているかのような気持ちになっていた。
「あの」
精一杯の言葉をあの人は聞き逃さなかった。うん、と答えた綿飴のような声に安堵する。
「少しなら、会ってもいい」
「嫌いじゃなかったのか?」
「好きじゃないけど。ちょっと言い過ぎたよ、謝る」
「あのキスは?」
「忘れてよ。忘れないと殴るよ」
振り返らなくてよかったと思った。だって、今の私の顔は誰にも見せられないようなひどい顔をしているはずだからだ。
奈々子はばかみたいに喜んでいた。にやにやと気持ちの悪い笑顔を浮かべていたし、ぶっきらぼうな私を可愛いとからかった。ばかみたいだ。そんなところが嫌いなんだ。
「奈々子は、またどこかへ行ってしまうの?」
聞くと、奈々子は黙り込んだ。
「無視しないでよね」
椅子を回して奈々子の顔を見ると、呆気にとられた、とでも言いたげな表情をしていた。みっともない顔だ。いつものクールで不良な奈々子からは想像もつかないだろう。
「奈々子なんてさくらに呼ばれたのが嬉しくて」
猫背になって顔を細長い指で覆っていた。爪の先にはアゲハチョウが閉じ込められている。私も無意識で言ってしまっただけだったので、奈々子の反応にどんな顔をすればよいのかがわからず、薄ら笑いを維持していた。
ごめんとか、ありがとうとかそういうありふれた言葉を投げかけるところなのかもしれないが、どうにもらしくないし、似合わない。素直なキャラではないし、変わった反応されても戸惑ってしまう。
こうやって思考を巡らせている間も、この人は喜怒哀楽を思い切り表現しているし、それを恥ずかしいとか、らしくないなんて気取ることをしない。
「悔しいなあ」
目の前で今にも泣きそうなその女に聞こえないほど小さな声にもならない声でつぶやいた。
学校は監獄なのだろうか。ジャージを脱ぎながら思った。確かにこの紺色のジャージは全員統一されたものだし、制服だって機械のように同じだ。
髪型や、持ち物にも制限がある。その制限は恐らく不必要なものだ。お団子結びをしたって法には触れないだろうし、たとえお団子結びをしていたって健全な精神は養えるはずだ。
社会に出る通過地点だ。学校という施設によって私たちは選別されている。気づかない人、それに気がつく人の二種類の人間が存在して、気がつく人の中でも気がついても気にしない人と、気にする人の二分される。
気がついたってどうしろというのだろう。私たちは無力だ。環境を変えることができないし、不良品だと気づいたところで個人がどうこうできるはずがない。つまり、考えるだけ無駄なのだ。だから聡明な人は考えることをしないのだ。考えたって不幸になるだけだから。そう、思考は毒だ。死の病とは孤独によるものではない。孤独な思考によるものなのだろう。
私たちは不都合な真実から目をそらすために生きている。なぜなら、人は孤独から逃れることができないから。目をそらすために、暇つぶしを続けなければ、生きていけないのだろう。
伊藤は今、どんな顔をしているのだろうか。
体育の授業が終わって汗くさい教室から逃れるためにトイレへ向かった。学校のトイレは異質だ。排便するだけの空間ではなく、唯一個人が一人になれる場所だからだ。
一番奥のトイレの個室に入ってスマホの電源を入れた。胸と腹がむずむずと痒い。どうしてなのだろう。伊藤が学校を休んだからだろうか。
龍にメッセージを送った。
「学校さぼっちゃおうかな」
思ってもいないことを伝えてなんになるのだろうか。学校について考えると無性に学校から抜け出したくなるのは何故なのだろう。伊藤も同じことを考えたのだろうか。
龍からすぐに返信がきた。
「さぼるなら、迎えに行くよ」
返事が来るなんて思ってもいなかったから戸惑った。いつもは寝ている時間なのに。
うん、と返事をしてしまった。けれどその回答を送った後は胸の重りがすっと軽くなったような気がした。
この選択により失われるのはあと三時間の授業だけなのだ。それと引き替えに私は自由になることができる。
トイレの扉を勢いよく開き、電源を入れたままのスマホをブレザーにつっこんだ。
学校の校門を無事に抜けて、まぶしすぎる太陽をみないように俯きがちになって歩いた。穴がいまにも開いてしまいそうな白い運動靴を見つめながら、学校の百メートル先にある交差点まで歩いた。そこに龍が車できてくれるという。
五分もしないうちに龍の車がやってきて、その車の助手席に座り込んだ。
「珍しいな。こんな時間に呼び出すなんて」
ヘビーメタルの音楽が鳴り響く車内は外より湿度が高く思えた。シートベルトを着用すると龍は音楽のボリュームを落とし、ペットボトルホルダーにあるコーラを一口だけ飲んだ。
「どこに行きたい?」
「自由になれるところ」
「俺の主観で決めていいのか」
一つ、頷いた。十秒ほど悩んだ龍はすぐに車を走らせた。