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ヒステリックな私たち  作者: 橘セロリ
少女の話
10/26

9

 下校途中に電話がかかってきた。それはやはり龍からだった。一人でスポーツバッグを背負いながら、小幅で歩いていた。明日は体育館の工事で部活がないのだ。電話に出て「どうしたの」と聞いた。すると、「伊藤が心配で」とのこと。


 むかついた。私は今もこうやって重たいスポーツバッグを背負いながら電話をしているというのに、伊藤が心配で、だなんて。そりゃあ、私が現在どんな体制か何て知る由もないだろうけど、それにしたって


「今大丈夫?」とか、一言あっても良いだろう。

「私のことなんてどうでもいいのね」

「そんなわけないよ」

「じゃあ、今すぐここに来てよね」


 電話を切ってやった。


 すると十分もしないうちに龍の車が道路脇に駐車した。窓を開けてから「さくら」と柄の悪そうな容貌の龍がにゅっと顔を出す。


「大きな声で呼ばないでよ」


 叩きつけるように言ったら、龍はしゅんとした顔になった。わかりやすいわ。


 車の助手席に座り込み、スポーツバッグをずどんと足下に置き、シートベルトを装着している私を龍は凝視した。


「珍しいな」


 あっ、と不意の声が漏れた。


「一応、私はあんたの彼女だし」

「そういうところが好きだよ」


 ためらいもなくこんな恥ずかしい台詞を吐く龍のことをほんの少しだけ尊敬している。龍はハンドルを握り、エンジンをかけた。


「どこか、行きたいところとかあるのか」

「鞄が重いから呼んだだけ」

「じゃあ、さくらちゃんの家に送ればいいのか」

「ううん。ドライブがしたい」


 きょとん、とした顔をしたまま「わかった」と凛とした声で答えた。どうしてか、龍に悪いなと思う。龍が私を理由もなく肯定してくれたときに、どうしてか不安になる。


 その肯定の言葉の裏を考えてしまうからだ。無条件の優しさがいつか底をついてしまうのではないか、いつか龍に見捨てられるのではないか、とありもしない暗い未来について思いを巡らした。


 車の窓を開けると風が頬を叩いて髪を浮かせた。目はしばしばする。だけど胸が躍った。そんな中、風景は次々に移り変わっていった。それはまるで断片的な映画のフィルムみたいだ。マック、下校中の中学生、子供連れの家族に個人経営の学習塾、駐車場が埋まっているコンビニに、誰一人患者がいない歯医者、そこにいる誰かの人生や生活を第三者の視点でただ眺めることは愉快だ。まるで私が神様になったような気持ちになれるからだ。


「伊藤君はどうだ」

「クラスで机を蹴り飛ばしてた」


 ああ、と消え入る声。


「あいつ、どっかおかしいよ」

「気が滅入ってるんだろ。優しくしてやれよ」

「嫌だ。どうして私があいつなんかに優しくしなきゃいけないのよ」


 赤信号だったのでブレーキをかけた。ペットボトルホルダーに置いてあった水を龍は一口だけ飲む。


「そりゃ、俺だと伊藤君の傍にいてられないからさ。さくらちゃんは同じクラスだし、なんだかんだで面倒見がいいからさ」

「好きで面倒を見ているわけじゃないわ」


 龍のポケットからバイブ音が小刻みに聞こえる。


「伊藤のことが嫌いなのか」


 青信号の間抜けな音楽が耳に触る。


「嫌いなのかもしれない」


 幼稚園の制服を着た小さな子供たちが右腕をあげて、笑顔で歩いていた。


「どうして」

「それは知らない」

「奈々子のことか」


 車は動き出す。両手でハンドルを握った龍は真剣な顔つきで正面を見ていた。


「そうかもしれない。それより、伊藤の言動が気にくわないの。だから、苦手」

「あいつはいい奴だと思うけど」

「龍は誰にでもそう言うじゃない。きっと凶悪犯罪者でも同じことを言うに違いないわ」


 龍は黙った。私は言い過ぎたなと後悔したが、謝ることもしないまま、ただ車の外の風景を追い続けた。


 心の中はぽっかりと大きな穴が開いていて、その穴はとても深く、血がにじんで痛々しい。そこからはずっと空っぽの音がする。


 この感情をなんと呼ぶのだろうか。


 寂しい、悲しい、切ない、心細い、辛い、むなしい。すべてに当てはまるような気がするけれど、すべて間違いであるような気もする。


 もしかしたら、私は孤独なのかもしれない。人はいるけど人と完全に交わることができない。水と油は分離する、その油は私なのだろう。


「龍はどんな私でも一緒にいてくれるの」


 聞いたら、猫背だった背をかすかにのばして


「もちろん」と自信ありげに言った。


「浮気しても? バイでも? 窃盗犯でも? 凶悪犯罪者でも?」


 早口でまくし立てたらくすくすと人なつっこい表情で笑い出した。


「俺がさくらちゃんのことを好きである限りはね。どんなさくらちゃんでも好きだよ」


 もしかしたら、と思った。もしかしたら、彼はすべてを知っているのかもしれない。私が彼のことをあまり好きではないこと、私の最低な性格や奈々子にやったこと、すべて知っている上で、装っているのかもしれない、と。


「セックス、してもいいよ」

「さくらちゃんが責任の取れる年齢になったらね」


 機嫌の良い表情でハンドルを右に回した。



 龍は私にミスドのドーナツ二つとオレンジジュースを奢ってくれた。オールドファッションを二つほしいと言ったら、意外そうな顔をして黒い革財布から一万円を抜き出した。


 気づけば隣の市にまで来てしまっていた。高速道路を突き抜けた先にある大きな市である。


 ミスドの隣にはハイカラな酒屋があって、その真正面にはジャズバーがあったし、ここから百メートル先にはパルコがあった。


 店の手前の道路に停めていた車に乗り込んで、龍は浮かない私の表情に心配をした。


「どうした。ドーナツ足りなかったか」


 違う、と答えた。


「どうして私はここに生まれなかったんだろう」


 ははは、と乾いた笑いを浮かべて龍はエンジンをかけた。


「そりゃあ、運命としかいえないな」

「隣の市なのに、こんなに違うなんて」


 私の住んでいる市にはジャズバーなんてものもハイカラな酒屋もパルコも存在しない。ここから見えるものすべてが私の住んでいる半径百メートル以内に存在しないのだ。


「でもここは危ないぜ。昨日だって覚醒剤所持していた男が逮捕されてたってニュースがあっただろ。人が多いってことはつまりトラブルや危険も多いと言うことだ」


 狭い路地をすいすいと抜けていく。薄暗い町に輝く色鮮やかな蛍光灯の色は、私の知らない色だった。こんな輝く光の一部になりたいと、強く思って、窓から見えるありふれた笑顔に心が沈んだ。


「あの人も、あの街に不満があったのかな」


 龍は黙りこくっていた。知らないからなのか、知っているからなのかはわからない。ただ、一ついえるのは龍の表情が険しかったということだけだ。


「そんなに都会がいいのか」


 そりゃあそうよ、と当たり前に返す。


「いつか、さくらちゃんが高校生くらいになったらいくらでも連れて行ってやるよ。パルコでも東京タワーでも自由の女神でも見せてやる」


 龍の顔を見たくなくて、必死に外ばかり見ていた。今見てしまったら罪悪感で押しつぶされてしまうと確信できたからだ。


「どうして、龍はそんなに私が大事なの」

「わからない」


 いつもなら好きだからとか言ってくれるのに、今日は違った。「なんだかさくらちゃんが可哀想なんだ」と付け加えて、ちょっと前に買った缶コーヒーを口に付けた。


 私はただ、そっかとしか答えられなかった。なぜなら、胸が痛くてたまらなかったからだ。


 

 家の玄関に見知らぬミュールがあった。その赤いミュールはひっくり返って八の字になっていた。


「遅かったじゃない」


 その声の主は母だ。母はエプロンをつけたまま、玄関で立っている私に笑顔を投げかける。開かれた扉からはカレーのにおいが漂ってきた。


「誰か来てるの」


 母はいつもより上機嫌に思えた。


「奈々子が帰ってきたのよ」


 頭が真っ白になった。信じられなかったという方が正しいのかもしれない。今更何しに帰ってきたのか、と言葉は喉元に引っかかる。


「早く手を洗って着替えなさい」


 いつもより声色が明るい母を目の前にわがままなどいえるはずがなかった。玄関にある八の字のミュールと運動靴をそろえながら、リビングにいる三人の和気藹々とした雑音を聞いていた。

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