午後5時 夕暮れ時に
「はぁーぁ、終わった終わった」
「帰宅部がよく言うよ。部活やってる人からしたらまだ楽なんだよ?」
大きく背伸びをすると八雲が呆れたようにじとりとこちらを見る。日が沈むのも随分早くなってきた。彼女の髪が夕日に照らされて赤くなっている。
帰り道、なぜか当然のように八雲が一緒についてきて、いつも一人だった道に話し相手ができた。周りから見たらさぞ不思議な光景だろう。印象の薄い奴と転校生が一緒に帰っているのだから。
「そういえば八雲、部活とかやんないのな」
「うん、興味ないし」
「ふーん、冷めてるもんだな」
まぁ自分も同じなのだが。
それを最後にしばらく会話が止まる。気まずいとはあまり思わないが、何か話した方がいいだろうか。えっと、話題は…話題…。
「えーっと…」
そう、自分の口の中だけで呟いたと同時だったと思う。景色がいきなりがらりと変わって、でも目の前に八雲はやはりちゃんといて、あれ?でも髪の毛が重力に逆らっているような…
状況に追いつくのは直後、だがそれを把握した時点でもう事態は遅かった。つまりは、この瞬間に、
視界が、逆さまになっていた。
「…………え?」
逆さになった八雲の顔が驚いたようにこちらを見ているのが視界の端に映ったと思ったら、自分の腹が何かに掴まれながらものすごい勢いで押されて、口から飛び出して来そうなものを必死に抑える。
そのまま足が浮いて、くの字になりながらひきずられ、あっという間に隣の人通りの少ない路地に押し込まれると動きは止まった。
しかし腹を離されたと思いきや、今度は頭を地面に思い切り叩きつけられ、首を何かに押し付けられている。
「……し…やる」
「ぐ……っ、かはっ…!!」
苦しさにバタバタともがき、その手を振り払おうと掴む。眩む視界に白い靄がかかり、そうかと思えば急に首が離されて、自分の上に乗っていた重み衝撃がどん、という衝撃と共に消えた。
「げほっ!…こ、琥珀…?」
「…図に乗るな、人間。誰に手を出したと思っておる」
低く、冷たい声がすぐ横から聞こえる。その声は確かに琥珀のものだったが、しかしこちらに向けられた言葉ではなかった。
琥珀の見下ろす視界の先を伺えば、もう一人の人間が倒れ込んでいる。
いや、人間…?
ガハガハと苦しそうに倒れてる姿は皮肉にも今の自分と酷似しているが、その姿はどう見ても違う。
藍色の浴衣に水色の細い帯、少しはだけた裾の下から覗くのは男っぽい、筋の張った足だが、その上が異様だ。腰あたりからは黄色い尻尾…それも狐の尻尾がふわりと出ていて、顔は狐面で隠されている。
その狐面は少しの間苦しんでいると、さっと飛び上がり、再びこちらへ飛びかかってきた。それに琥珀が応戦しようと空中から金の剣を取り出して…
「お遊びは、そこまでだよ」
二人がぶつかり合う直前、ピンと張った声がして狐面の動きが止まった。その手は頭の上で別の手に掴まれていて、首筋に白い手がかけられている。
背後に突然現れて狐面を止めたのは、八雲だった。しばらくその姿勢で固まった後、八雲の顔がにこりとほころぶ。
「別にお遊びもいいんだけど、これ以上やるとそこの琥珀が本気で怒っちゃうからね。あなたの身の安全を保障できなくなるよ?」
その明るい声に狐面の尻尾がピクリと反応して、次に発されるのは絞り出したような白旗宣言だ。
「…は、はいはい降参!ったく…まじにすんなってーの。悪かったな、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、まさか殺されかけちまうとはねぇ」
「分かればよし。琥珀も、その剣しまって」
「…次からは知らんぞ」
むすっとしながらも琥珀の手の中にあった剣が空気に混ざるようにして消える。まだ若干苦しい首をさすりながら、狐面に目を向けた。
「お前誰…」
「よーくぞ聞いてくれました!そう、この俺こそは津堂要!ちょっぴりいたずら好きでチャーミングな狐くんだぞ☆」
顔につけられた面が勢いよく上に投げられ、それにつられて目が上を向く。すると狐面が空中で消え、下に目を戻すと男子高校生がそこには立っていた。
制服を見るに、同じ高校である。いや、さっきの狐面の男はどこに消えたのだと驚くとにひっと男子高校生が笑った。
「驚いたか?驚いただろ!俺は狐を体の中に取り憑かせてるからな、ほら、狐って 【化ける】 もんだろ?こうやって化けるのが得意なんだよ。てか、名前聞いた時点で俺だって分かってくれても良かったんだけどな?って、そんな暇もなかったか。がはは!」
「あーいや…ん?名前?お前有名人とか?」
「いやいやぁ度忘れしたって?ダメだなぁ、俺の名前くらい…え、まじで言ってる?」
腕を組みながらしみじみと言われても、そして改めて俺の言葉を飲み込んで驚かれても、知らないものは知らない。なんせ俺は…
「クラスメイトの名前さえ覚えてないわけ?」
「そうだよ悪いか…って、ん?お前まさか…」
「そうだよあんたのクラスメイトだよ!あーくそ、確かにクラスの事とかに興味ない奴だなぁとは思ってたけど、まさかここまでとは…」
「な、なんかごめん」
「謝るなよ!まるで俺のんが存在感薄くて覚えてもらってないクラスメイトみたいになるだろ!?あぁいいよどうせ俺は花の高校生活でクラスメイトにすら名前を覚えてもらえない可哀想な印象薄い男子高校生だよ…!」
どこから取り出したか、手拭いを前歯でギリリと噛んで悔しがる津堂。嘘か真か、ホロリと涙まで目尻に浮かんでいる。
「あーあーあーもう俺ショックだわ、泣けるわまじこれ泣けるわ…」
「お楽しみのところとーっても悪いんだけど、そろそろ帰ろう?私寒い」
目を手のひらで覆って空を仰ぐ津堂と俺の間に、そろりと八雲が割り込んでくる。もう大丈夫だと見るや、琥珀が姿を引っ込めた。
それをきっかけとしたように3人の足が動き出し、とりあえずは薄暗い裏路地から出る。
「そういや、なんで俺襲われたわけ?冗談にしてもガチで死ぬかと思ったんだけど…」
実際、腹に感じた衝撃も、首を押さえられた苦しさも冗談ではなかった。批難も込めて津堂に尋ねると、彼は悪い悪いと笑う。
「 〈BEE〉 の転校生がやってきて、初日からクラスメイトを昼休みにかっぱらって行ったらそりゃ興味持つでしょ。でも普通に自己紹介してもなんか今更感あるじゃん?だからちょっと演出をしたかったんだけど…まさか名前も知らないなら普通で良かったかな」
「普通で良かったよどっちにしろ…あれ、お前も 〈BEE〉 か」
「もちのろん!ほらこの通り」
そう言ってポケットから取り出されるのは黒い端末だ。裏には黄色い蜂のロゴがあって、八雲のものと一緒だと分かる。
「にしてもびびったわぁ。ちょっと襲ったらなんかおっかない女の子出てくるし、誤解を解こうと思ったら首筋に手かけられてるし。お前の仲間、まじでおっかねーな」
「それはやった方が悪い。言っとくけど、琥珀はかおるだけを何に代えても守ってるから。かおるの髪の毛一本でも傷付けたら津堂くんもただじゃいられないね」
「待ってなんでそんなに俺守られてるわけ。え、琥珀って俺の騎士とかそんな感じの存在?」
八雲の諭すような言い方に津堂が若干身を引くが、それより驚くのは俺の方だ。何があってあんな小さい子に守られてるんだ。何が悲しくてあんな小さい子に守られなくちゃいけないんだ。
「あれ、琥珀の強さはかおるならもう知ってると思うんだけど…納得いかないの?俺の方が強いからいらないとか思っちゃってる?」
「知ってるよあいつが化け物級に強い事は!そうじゃなくて…なんていうの?ビジュアル的に、ほら、さぁ…」
「俺もそれには共感するよ…男が女の子に守られてるとか、ロマンがない。というか真逆だな、格好悪いったらありゃしないね」
腕を組み悩ましげに首を振る津堂。しかし言い終わると、ん?と首をかしげる。
「琥珀ちゃんの方もよくやるよね…もしかして、何?柊にぞっこんなの…んごっ!」
「何を言うておるたわけが!誰がこんなガキに惚れるか」
その言葉が終了する前に琥珀が出てきて、津堂にアッパーを食らわせた。背中が大きくそり返るも、鼻血を流しながら津堂が戻る。
そのついでに浴衣姿に変わり、懐から小刀を出して琥珀に突きつける。
「何しやがるんだこの幼女!俺ぁ今なんも柊にはしてねーぞ!」
「おいそれは…」
さすがにまずいだろ、と止めようとするが琥珀が俺の前にズイっと出てきて小刀を弾いた。ついでにその手には金色の小さなナイフが握られている。
「儂のプライドが傷付けられることも許さん!というか、なんじゃ幼女とは!儂はこう見えて…」
「幼女を幼女って言って何が悪い!おいチビ、そこのチビ!チービチビチビチビチビチビチビチビチビチビチビチビ!」
「ビチビチ言っておらんでもう少しまともな日本語を喋れ!魚かお主は!」
金色のナイフが手の中で夕日を反射してキラリと輝き、その輝きが一直線に津堂に向かう。それをひらりとかわしたはいいものの、ナイフが津堂の浴衣に刺さった。
「あっぶねぇな!おーおー、事実言われたからってキレるのか、器まで幼稚なのか!チビなのは身長だけにしとけよオラ!」
仕返しの一撃。が、それも琥珀はかわす。
「なーにーをー…!!大体恥ずかしくないのか見た目はこんな子供にそんな刃物振り回しよって!大人のプライドとやらはないのか!」
琥珀が手首を返す。しかし津堂がかわす。
「こんな危ねぇ奴にかけるプライドなんざねーよ!そっちこそいいのかよたった今自分で自分を子供だって認めたぞ」
「見た目の話じゃ見た目!こう見えても儂は500年近くは生きておる!お主よりもよっぽど年上じゃよ丁重に扱え!」
「じゃあ言わして貰うけどお前こそ大人の余裕っての見せろよあぁ!?年寄りにしちゃあそれこそ器小せえだろうが!」
「なんじゃと儂を年寄り扱いしおってからに!」
「お前が500歳とか言ったんだろうがよ!」
「あぁそうじゃお主よりよっぽど高いところの存在じゃよ畏れよ敬え!」
「誰がこんな幼女敬うか…!」
「こほん」
可愛らしく、この場には酷く相応しくない声が二人を止めた。黒髪がさらりとなびく。八雲はにんまりと微笑んで首を少し傾けると、
「…ふたりとも、もういいかな?」
「「痛い痛い痛い!!!ごめんなさい許して!!」」
二人の悲鳴が夕焼けの中に響き渡ったところで、俺のため息が重なった。なんだかここ数日で、大分騒がしくなった気がする。
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「こ、この、にんげ…ん、ごとき…っ」
絹の糸のように細くて弱々しい声を、己の手でかき消す。最後まで発せられる事のなかった言葉の代わりに、ぎらりとひん剥かれた目がその恨みを物語っていた。
その光景を見ていた他の化け物が震えながら後ずさろうとする。
「お、お前が…Dr.キラー…!?」
「あぁそうだ。本名は粟野だ。覚えなくて結構」
自己紹介しながら、なんともいいあだ名ではないかと思う。医者のくせに善人じゃない、俺にぴったりではないか。
「ひ、ひぃ…っ!」
左手に掴まれた死体を放ると、ドサっと音を立てて草に埋もれる。それを見届けもせずに、目を細めた。
「随分と…夕日が眩しいな」
自分が善人だと思ったことはない。
善人になれると思ったこともない。
自分の記憶の中で一番古くに覚えてることは、あぁ、自分はいい人になれないな、というぼんやりした感情だった。きっと性格も口も悪く、人を救いもせずに騙したり脅したりして、そんな風に生きていくのだろうと、そう思った。
そして慌てて逃げようとする化け物に白衣の内側から取り出した針を投げ、その首筋に刺す。もう出ない声の代わりに血を溢れ出させるそれを左手で掴み上げ、殺す。
ふと周りに散らかした死体を眺める。今で何体だろう。200足らずといったところか。これから一週間は狩りに出るつもりはないから、もう少し狩ったほうがいいだろう。
「そうだよな」
『あぁそうだねぇ…あんたは最近は少し人を治しすぎてる。あたしの優しさで今は成り立ってる、っていったところだよ。感謝しな』
頭の中に響いてきた声。それはまだまだ飢えてるのだと俺に告げる。
「それはありがたい」
視界の端に何かが蠢く。迷わずに手を伸ばしてそれを掴むと首を締め上げて息の根を止め、命を吸い取る。恍惚とした感情が流れ込んできて巻き込まれるように自分も満足感を得るのを感じる。
その隙を狙ってか、最初から囮を放り込んだのか、背中に大きな化け物が飛びかかってきた。振り返るついでに蹴りを食らわすと、潰れた猫のような声を出して、近くの木まで吹っ飛んだ。
『はぁ〜。やっぱりこの瞬間は最高だねぇ。これだからやめられないんだよ』
「その分仕事をして貰えるとありがたい」
『馬鹿言うんじゃないよ。もう十分じゃないかい』
「よく言う。腹空かせると機嫌損ねてそっぽ向く奴が」
『理にかなった代償ってやつだよ』
言いながらも襲ってきたり逃げたりする化け物を殴り、蹴り、刺し、回し、掴み、殺して殺して、殺し回る。子供の時に大好物を口にしたような幸せが全身を駆け巡る。
半ば夢中になって狩り続け、ふと気づく。
「気配が…少ないな」
『狩りすぎたんだ…もうここらもすっからかんだねぇ』
もうこちらを襲うどころか、逃げる気配も感じられない。周りからもう獲物がほぼ消えてしまったかのようだ。しかしできるならもう少しくらいは収穫が欲しい。耳をすませて目を凝らして、どこかに獲物はいないかと探る。
かさり、と奥の方で何かが動いた気配がした。すぐにその方向へ駆けつけ、辺りを見る。どれでもいい、狩るしかない。
実際、最近自分のところに駆け込んでくる怪我人や病人が増えた。普通の医者でも治せるレベルなら自分のところに来る必要はない。自分のところに来るのは、それこそ奇跡が必要な瀕死の怪我人や、誰にも治せないような患者ばかりなのだ。
しかし、今までそんな重傷で運び込まれてくる人は少なかった。元々化け物のことでのトラブルも今よりずっと少なかった。
明らかに、化け物が凶暴化してきている…。
「見つけた」
視界の端に何かを捉えると、ほぼ勘任せでそっちに突っ込む。慌てて逃げようとしたそれを手元のメスを投げて止めた。
「あぁああっ!」
「え…?おい!どうしたんだよ!!」
泣きそうな声が二つ。足元に転がっていたのは二匹の小型犬ほどの大きさの化け物だ。片方の腹にメスが刺さっている。
もう一方が必死に溢れ出る血を止めようと傷口を押さえ、涙を流していた。
「嘘だ!!血が…あぁ…血が…!!」
すがりつく片方を払いのけ、腹から血を流している方を左手で摘まみ上げる。もう長くない。命が消える前に食らわせなければ。
『おやおや美味しそうじゃないの〜。さぁ早く、その命を寄越しな』
堪らないというように頭の中でそう声が上がる。こちらも止める意味なんてない。さぁ早く…
「な、ん……で…」
「待てよ!!!なんでそんな事するんだよ!お前ら人間だろ?僕たちを殺す意味なんてないだろ?僕たちが何をしたって言うんだよ!!!」
手の中のかすれた声に、放り投げられたもう一方が騒ぐ。騒ぎながらこちらへ飛びかかってきたが、手のひらサイズのそれは一蹴りしたら地面にへたばった。
「頼むよぉ…なんで、なんで僕たちなんだよぉ…ねぇ…!!」
涙がぼろぼろと溢れ、地面に吸い込まれていく。その間も自分の中の疼きはより一層強くなり、だんだんと左手の中の命が消えていく。
『もう待てないよあたしは!はぁ〜…やっぱ最高だねぇ〜…』
恍惚とした表情が見えてきそうな声に、押し出すような声が重なる。
「…の……て」
その発生源は自分の左手の中。つまり死にかけの小動物のような化け物だ。
「おね…い…」
「え?なんて…?なんて言ってるんだよ!!」
「そっ…ち…は…っ…みの、が…し…て」
「何言ってるんだよお前…!」
「悪いな、それは聞けない」
最後に左手が赤く輝き、命が完全に消える。同時に満足感が胸に押し寄せてきて、なんとも言えない気持ちになる。
「あ…ぁっ…ぅあぁあああぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」
パタリと力を失った体が完全にぶら下がるのを見て、足元の小さいやつが騒いだ。死体を放り投げると、必死にそこへしがみついて泣き叫ぶ。
すると数秒もしないうちにこちらへ目を向けて怒鳴ってきた。叫び声をあげながら血を口から垂らして、こちらへ飛びかかってくる。
「なんで殺したなんで殺したなんで殺した!!僕たちは何も人間にしてないじゃないか!!僕たち親友だったんだよ!!なぁ、なんで!?なんで殺したんだよ!!!殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる人間なんて殺して絶対に殺してっ………………………」
喉を掴み上げ、手が赤く輝くとその声も消えた。途端に辺りが静かになる。もうここには何もいないだろう。理由は分かりきっているが。
手の輝きと夕日が重なって見えて、手を下ろした。親友だと言う二体の体がドサっと重なる。それを見届けると、
「…狩場、変えるか」
そう呟いて、白衣を翻した。