どうしてこうなった
…どうしてこうなった。
目の前の景色に、俺は再びため息をつく。景色に、というよりはこの状況に、と言ったほうが語弊がなくなるかもしれない。
今朝までは、そう、今朝までは平和なはずだったのだ。どこにでもある高校生生活を送る、どこにでもいる高校生だったはずなのだ。
今のような…溢れんばかりの化け物に囲まれるような事なんて、何一つ予兆はなかった。突然それはやってきて、俺を巻き込む。
その肝心の化け物といえば、よだれを口から垂らして今か今かとこちらに襲いかかるチャンスを待ち望む。否、すでに襲いかかってきている。それでもため息をつく余裕があるのは、自分が強いとか、全くもってそうじゃない。
目を上げれば、目を吸い込まれそうな艶やかな、深い色をした黒髪を持つ少女が動き回っている。腰まで届きそうな髪で、人間離れした動きをやってみせるものだから、それは空気の中を自由に舞い、ある意味、現実離れした美しさも持っていた。
八雲黒。
彼女が細い手を、足を届く限りに動き回らせて立ち向かうのは、文字通りの化け物だ。その姿はまばらで、熊のような形をしたものもいれば、うさぎのようなものもいるし、知っている生物では例えようのない形をしているものもいる。
さらに右に目を向けると、栗色のふわふわとした髪を持つ少女…幼女?が金色に光る弓を手に、厳しい目つきで前を向く。小学生か、下手したら幼稚園ほどにも見えそうな外見だが、この子が姿に似合わずとんでもなく強いのをすでに見ている。
この二人に守られるような形で、今ここに立っているのだ。
とにかく言えるのは…全てが異様だった。
こんなの、日常じゃありえない。こんなにも大量の化け物と対峙しなくてはならないなんて、異常だ。
本当に、本当に思う。
一一どうして、こうなった。
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話は戻って今朝。そう、平和だった今朝まで戻ろう。少々長くなる回想だが、どうかお付き合いいただきたい。
目覚まし時計が鳴り響く中、フラフラと手を伸ばしてその音を止めたら、ベットからはい降りる。洗面、着替え、朝食を済ませたら玄関を開けて学校へ向かう。
自分が通っている高校は家からさほど離れてはなく、徒歩圏内である。家から出た瞬間に秋のさらりとした涼しさが首元を撫でて、山は紅に包まれていた。
少しの坂を登った先に学校はあり、門をくぐって、そのまま教室へ向かう…前に。少し離れたところから聞こえた声に引っ張られ、裏庭へと足の向きを変えた。ここの時点で何が起こるかは大体予想がついている。
そして角を曲がり、予想通りの顔が見えると、俺はやっぱりか、と息を吐いた。恒例行事化してきていることを、そろそろ正してやらねばと思うのだが…。
「おはようございます」
目の前に立つのは、篠原藍というクラスメイトだ。明るい茶髪のショートである彼女に、やはり敬語は少し似合わない。それに先輩ならまだしも、同級生に敬語でへりくだられるのはいささか居心地悪いが、それが癖のようなものらしいので直そうとも思わない。
いや、言葉遣い云々の話よりも、もっと大事なことがある。その悪い予感、というか経験から俺が予想する次の言葉に応えるように、藍は息を吸う。絞り出されるような声でで告げられたのは、いつもの同じ内容だ。
「…好きです」
「あのな、藍」
「はい」
「今までお前が告白してきたのは、これで通算14回目。今まで俺が断ってきたのは、13回。これで14回目だ。断る」
「えぇぇえええ」
藍の眉が八の字に下がり、見るからにしょんぼりするが、そんな声を出されたって困る。
今の言葉の通り、藍に告白を受けるのは、これで14回目なのだ。普通の女子なら1回や2回振られれば諦めるのが大多数だと思うのだが、どうやら藍は違うらしい。何度目の正直を狙っているのかもはや分からないが、その不屈の精神は見上げたものだろう。
そこまでアタックされるとあらば、幼馴染であるとか、男友達の中で一番仲良いだとか、そんな近しい距離を感じる人も少なくないであろうが、残念ながらというか、そうではない。
一番仲が良いとかいう以前に、自分は最初に告白されるときまで、藍の名前さえ知らなかったのだ。それどころか、クラスメイトの名前さえほぼ覚えていないくらい、周りと接点が少ない。当然、好かれるような真似をした覚えもない。
そんな理由があって、最初の時は「こいつ誰だ?」と「なんで俺なんかに?」の二つの疑問で首を傾げる他なかった。もっとも、その様子を見た藍が、
「あなたの事を愛している藍ですよ!」
と、笑えないダジャレをぶつけてきたのは印象に新しい。というか頭から離れない。いや全くもって笑えないどころか背筋がぞわぞわして自然に伸びてくる。
ともあれ授業開始が迫ってくるのは逃れられない。それを口実にして、俺はそそくさと教室に戻ろうと提案した。藍もそれに乗る。
今度こそ、と正面玄関に向かい、列の違う藍と下駄箱で別れる。自分のは少し奥の方だ。廊下をそのまま歩き、角を曲がろうとする一一一。
その瞬間だった。背後から声が聞こえたのは。
「一一見つけた、柊かおる」
ピンと張りつめられたまっすぐな声は、間違いなく俺の名前を指している。どうやら俺の事らしいと、振り返るとそこにいた少女に思わず息を呑んだ。
すらりと細くて長い手足、すっと伸びた背中、わずかに真っ白な肌が覗く首元から少し目線を上げれば、小さな赤い唇と形のいい鼻、そして猫のようにはっきりとした大きな目がこちらを見つめる。
それになにより、腰まで届きそうな、艶やかな黒髪が、こちらを吸い込んでいるように見えて、思わず彼女をじっと見つめてしまっていた。
…どこかで、見た事がある気が…。
彼女が少し身じろぎをして髪が揺れると、はっとして自分の無礼を自覚する。遠慮もなくガン見とか、失礼にも程がある。しかし「ガン見してごめん」なんて言う勇気もないので、バツの悪さを誤魔化すように口を開いた。
「え、えーと…俺に、用?…ですか?」
「そうだね。君に用があって来たんだよ」
はて、改めて目の前の少女の姿を観察する。制服はうちの制服だし、制服の腕に入った刺繍も俺と同じ青、つまり同じ学年。クラスメイトの顔さえ怪しい自分だが、こんな人がいたら印象に残りそうな気もする。しかし、そんな考えとは裏腹に、目の前の顔に見覚えはない。
「…あぁ、名乗ってなくてごめんね。私は八雲黒。今日転校してきたの。かお…柊くんと同じクラスだよ」
俺の顔な明らさまなほど疑問が浮かんでいたのだろうか、八雲はそう説明してくれた。途中で言い直したのは顔、という単語なのか、かおる、と呼び掛けたのか定かではないので放っておくことにする。
「それで、八雲さん。俺に用って何かな。教室への案内が欲しいなら…」
「ううん。後で言う」
先立って案内しようとする俺を、八雲は止めて、首を振る。そうかそれならいいのだが…。
八雲が今度は迷いなく靴を履き替えて、スタスタと教室の方へ歩いてしまっていた。
転校初日からこんなに間取りに詳しいものかと感心せざるを得ない、迷いのない足取りで八雲は自分の教室へと向かう。その後ろに、まるで俺の方が転校生であるかのようにくっついていく。
「そう言えばなんで俺の名前を知って…」
最初に出るべきだった疑問がやっと浮かんできたとこで、八雲が教室の扉を開けたために中断された。中からホームルームに入り込んだ乱入者へのざわめきが起きる。どうやら自分は始業時間に遅刻したらしい。
「おい、チャイムはとっくに鳴って…なんだ八雲か。迎えに行こうと思ってたんだが。その後ろにいるのは…柊か?」
「あ、すいません。私が迷っているところを案内してもらって…」
八雲が助け舟を出してくれた。しかしなんだ、先ほどの凜とした雰囲気を覆すようなそのか弱い声は。まるで転校したてで不安な女の子のようだ…って、そのままか。しかしその変わりように少なくとも後ろの俺は驚いた。
とんだ猫被りだ、と咄嗟に思ったが、考えれば俺は八雲の事をよく知らない。
そしてその声の方を向いたクラス中の息が漏れるのが同時にわかる。おそらく、俺が初めて見た時のようにその姿に目を奪われているのであろう。
入れ、という声で俺は席に着き、八雲は教壇の横に立つ。先生が黒板に八雲黒と書いたところでみんなの方へ向き直った。
「今日から転校してきた八雲黒さんだ。ほら八雲、何か一言」
「…よろしくお願いします」
頭を下げたと同時にはらりと肩からこぼれ落ちる髪が揺らめいて、さらにクラスの視線がはっきりしたものとなる。その起き上がるまでの動作、体の動かし方までが、はっきり言って美しかった。その緊張気味な、硬い声さえもその儚さを手伝っているようだ。
なんて、それは俺の座っている一番後ろの一番端の席から見ている感想であって、一番前の人はもっと色んなことを見ているのかもしれない。しかし俺はそこで異変に気付く。
一番後ろ、一番端だったはずの席なのに、もう一つ、後ろに空いている席があるのだ。昨日まではなかったはずの椅子と机。すなわちそれが示すのは…。
「八雲、お前の席はしばらくはあそこだ。次の席替えまで、後ろだが我慢してくれ」
はい、と短く返事をして、八雲は歩いてくる。その一歩一歩が、どうかこちらへ向かうなと願ったが、それも無駄に終わったらしい。俺の席の後ろに八雲は座ると、
「よろしくね」
と、初めて微笑んでくれたのだった。
思えば、この瞬間からだったのかもしれない。日常が崩れる音が聞こえたのは。
…何かと忙しかった朝は通り過ぎて、時刻は昼休み。予想通りというか、残念なことにというか、授業が終わった瞬間、八雲に連れ出されていた。迷いなく手を引かれてこちらに構う様子もなく進む八雲に、息も絶え絶えで行き先を尋ねると、屋上だと告げられた。
まさか恋愛マンガのように出会ってすぐに告白だなんて鼻から期待してはいないが、藍の事もあるので迂闊にその予想も信用できないのが悲しい所だ。それは別として、しかしそれとは無関係に、一つ問題がある。
我が校は、最近よくあるように屋上が頑丈な鍵で閉鎖されており、出入りが禁止されているのだ。これはもはや現代の常識だが、まさか前の学校では異例で屋上が開いていたから勘違いしているのではないか、と思いつき、八雲に確認を取ると、
「いいからついて来て」
と、また手を引く力が強くなる。もうヤケクソに近い気持ちになりながらそれでもついていくと、連れてこられたのは学校の五階、最上階である。ここからどうしようもないのだが、一体何をするつもりなのだろうか…。
すると、八雲はいきなり廊下の窓を開け始めた。途端に流れ込んだ風が目の表面を撫でてきて、俺は思わず目を細める。そして風が止み、目を開けると…。
八雲は、窓から身を乗り出してすでにその半身を校舎の外に投げ出していた。自殺志願者顔負けの勢いで飛び出す彼女を、慌てて止めにかかる。
「おいおいおいおい、どこいくつもりなんだよ!」
「どこ、って屋上に決まってるじゃん。さっき言った通りだよ」
そう言ってあっさりと窓の枠を乗り越えてしまうと、驚くべき事に、八雲は校舎の壁に何本か張られているパイプの内の一本に片手でぶら下がっていた。そしてこちらに空いているもう片方の手を差し出しながら、
「何やってるの?早く」
と、こちらにまでそのアクロバティックな行為に参加させようとする。冗談じゃない。仮にもここは五階で、落ちたら十中八九死ぬ高さなのだ。そもそも屋上なんて決して建物の外側からよじ登って行く場所ではない。しかしその葛藤を振り払うように、八雲はまたこちらを急かす。
猫のような印象を思わせるその真っ黒の瞳にずっと見つめられていると、不思議と居心地の悪さと、「男としてその度胸のなさってどうよ?」というものを感じてきた。ええいこうなりゃどうにでもなれ、とパイプをよじ登った時は生きた心地がしていなかった。
屋上にやっとの事でたどり着き、命が失われていない事への安堵で腰をストンと降ろすが、八雲はその安堵に浸らせる事なく、すぐに話を始める。正直、こんな大冒険をした後で話なんて…と思わなくもないが、こちらの事情に構ってくれる様子はなさそうだ。
というか、こうやって考えてるうちにも八雲は流れるように話し始めている。
「…柊かおる。男。2年3組19番、成績は常に中の中。学校からさほど遠くないマンションに一人暮らしをしているよね。恋人、友人と呼べる人はいないどころかクラスメイトの顔や名前さえ怪しい。でも今朝方、篠原藍っていう子に14回目の告白を受けている。今のところOKするつもりはゼロ。
なんなら身長体重、足のサイズとか髪の毛の伸びる速さとか、これからなりやすい病気とかも言ってあげるけど…いる?」
…すらすらと流れるように出てきてはいけない内容だと思うが、一つの間違いもなく、八雲は最後までノンストップでそれだけの内容を言い切った。なんなんだろう、これっていわゆる…
「あ、勘違いしないでよね。別にストーカーとかじゃないんだから」
「今それ完全にストーカーやってる内容になったよな!」
ツンデレの王道なセリフをツンと言ってみせるが、その内容が穏やかでないことへ声をぶつける。それに対して八雲は予想通りのツッコミが返ってきたというようにしたり顔で笑みを深めただけだった。
「まぁ、ストーカーなんてやってないのは本当だよ。私と君は、これが…初対面。正真正銘、本当に初めて顔を見たんだよ」
「ならなんであんな事…」
「そう!それが本題」
パチンと指を鳴らして八雲はこちらを指さす。こら、人に指をさしてはいけません。
「今、人に指差しちゃダメ、って考えたでしょ」
こちらの心を読んだかのような言葉に、自分の肩が跳ねるのが分かった。いや確かに、表情に出てたり、状況を考えたら予想できなくもない言葉だが、そうじゃないと、頭のどこかが告げている。
八雲は…人の心を読んでいる。ふざけた結論だし、現実にはありえないと分かっているが、それでも、何か確信めいたものが渦巻くのを止められない。いや、少しニュアンスが違うか。これは心を読んでいるんじゃなくて…。
「見てるんだよ。猫は暗闇でも目を光らせて【見る】ものだからね。私は生きている物の全てが見える。ここまで話を引っ張ってきたのはちょっとでも信憑性を高めたかったからなんだけど…どう?信用してもらえてる?」
「あ、あぁ…」
「あんまり、って感じだね。まぁいいよ、それが普通だし」
カラクリが一切見えないから、まだストーカーの線も消えたわけではないのだ。でもその内容をあっさり飲み込んでしまっている自分がいるのも事実。自分はここまで常識を知らない人間だったのか。
しかしかなり大きな事を告げたにも関わらず、信用されてない事を何も気にしない様子の八雲。クルリとその場で一回転したかと思うと、屋上の端へとふわりと飛んだ。その背後には落下防止の柵が張られている。それに背を預けて八雲は天に向かって手のひらを伸ばした。
「もちろん、それをただカミングアウトする為だけに屋上に引っ張ってきたんじゃないよ。ちょっとさ、柊くんにもただの一般人じゃないんだ、って教えたくて…」
ね、と言いながら八雲が跳ねた。真上に、というよりは背後の柵を背面跳びで越えようとする要領だ。しかしその柵は二メートルはありそうで、普通に助走なしで女子高校生が飛べるものだとはとても思えない。
…にも関わらず、伸ばした手のひらが空に吸い付けられるように八雲は軽く柵を跳び越えた。その後ろは当然何もない。強いていうなら十数メートル下に固い地面があるはずだ。それなのに、空に向かってたはずの手のひらがいつの間にか下を向いていて、八雲は頭から落ちていく。それまでの一連が全てスローモーションに感じられる。
同時に、耐え難い何かが胸に込み上げてきた。
一一嫌だ。失うのは、嫌だ…!
時間が引き伸ばされたような世界で、必死に落ちていく八雲を掴もうと足を動かして、手を伸ばす。ダメだ、このままじゃあの時と同じ………。
「クロネコーーーーー!!!」
突き上げてくる衝動に身を引っ張られるようにして、自分が何事かを叫んでいるのをどこか遠くで感じる。クロネコ?何を言っているんだ自分は、と思いながらも、胸を焼く焦燥感は消えやしない。
喉が熱く燃える。水どころかゼリーの中を歩いているように自分の動きは遅い。なのにクロネコは止まる気配なく落下していく。フェンスを乗り越えて、落ちる彼女の後を追いかけるが、その彼女はすでに地面のすぐ上だ。このままじゃ追いつく前に、クロネコは。
一一嫌だ、嫌だ嫌だ。また、自分のせいで…!
誰か、誰か助けて…。
「やれやれ全く、小娘の案に乗せられるというのも気分の良いものではないのう」
突然、声が響いてきた。幼い女の子の声だ。でもその声に似合わず、口調は老人のような女の子の声。すでに屋上から身を投げ出した俺の真横に現れたその子は、栗色の髪を風にたなびかせながらやはり俺と同じように落下している。
「儂としてはあのまま自殺が成功してくれた方が都合が良いのじゃが…お前の望みは叶えてやらねばならぬ。それにせっかく助けた命、無駄にされては敵わん」
そう言う内に、自分が落下している感覚、内臓が全部浮くような感覚が薄れてきた。それどころか下に落ちていた自分たちは、今度は逆に上へと浮いていく。八雲も同じように重力に逆らって戻ってきていて、数秒後には元のように屋上に降ろされた。
まるで、何事もなかったかのような光景だが、確実に今のは本当だし、栗色の髪の女の子が隣に新しく現れている。なんだったんだ、今の数秒は。
「こんな所にいるなんてずるいよ」
言葉も出ない俺を他所に、八雲が突然現れた女の子と言葉を交わし始めた。
「ずるいと言うより卑怯なのはそちらじゃろう。強引な手を使いおって」
「あなたの事を信用してたんだよ」
「ふん。よく言うわい」
「嫌だなぁ辛辣」
やっと今何が起きたのか把握できたが、理解はできていない。八雲が落ちて、なぜか次の瞬間には戻ってきている。
そしてその間に俺は必死に追いかけて…何を叫んだ?
「あのー…」
控えめに割り込むと、二人の言い合いがやっと止まった。しかし二人同時に目を向けられて、混乱した頭で少なからずドギマギしてしまう。
「何が起きたのか…説明してくれるか?」
改めてフワフワとした栗色の髪をもつ女の子をよく見れば、瞳が綺麗な琥珀色で、どこか日本離れした、ヨーロッパの人たちのような雰囲気があった。小学校低学年…幼稚園児にも見えなくはない幼さだが、口調は大人のようにしっかりしている。というか老人のようだ。
その子が、可愛らしい口を開く。
「それは良いのじゃが…あれは放っておいても良いのか?」
指さす先を辿ると、そこは本来そこから入るべきだった屋上の扉。しかし、いつもなら閉鎖されているはずの扉が、今は開いている。そしてその前には仁王立ちする担任の体育教師。
「…何やってるか、じっくり聞かせてもらおうか。柊!!!八雲!!!」
すぐに怒鳴るのは体育教師の性なのか、うちの担任だけなのか分からないが、この状況がまずい事だけは確実である。
「えーっと…」
助けを求めるように八雲の方を見ると、まるでイタズラっ子のような表情を浮かべている事に、少なからずイヤな予感がもわもわと立ち込めてくる。
そしてその予感は、次の瞬間には、確信に変わった。
「逃げるよ!!」
そう言って、彼女は俺の手を引き、今度こそ真っ逆さまになりながら身を踊らせる。先ほどは夢中だったからそこまで意識してなかったものの、内臓の浮くようなこの感覚は好きではない。
というか、決して女子にとって軽くはないだろう俺の体をまるで紐でも引っ張るかのように宙へ放り出すその力に驚きだ。
そして不意打ちのそれに、
「え、え、ぇぇええええ!?」
俺はただ情けなく悲鳴を上げる事しかできない。二人揃ってあっさりとフェンスを越えて、視界の端に栗色の髪の先が映った。そしてそのまま重力に逆らえずに2度目地面に真っ逆さまである。
上では赤かった先生の顔が真っ青になっているのだろうか。屋上に忍び込んだ生徒を叱ろうとしたら急に飛び降りたのだ、思考が追いついてるとも考え難い。
落ちた2人、いや、3人がどうなったのかと確認しようにも、その時点で栗毛の女の子の助けで無事に落ちた俺たちはすでにその場から姿を消していた。
八雲にものすごい勢いで手を引っ張られ、もはや自分が宙に浮いたまま引きずられているような錯覚を覚えるほどのスピードで街を走り抜ける。それに寸分違わず栗毛の女の子も隣にぴったりとくっついてくる辺り、並みの女の子でない事はいい加減分かった。
まだ秋とはいえ、これだけの猛スピードで駆け抜けていく俺たちに襲いかかる冷たい風に思わず閉口する。引っ張られる恐怖と身に受ける風のおかげで、どんどん体温が下がっているような気もしてきた。
しかし八雲がそれを構う素振りを見せる事はなく、角を右に左に、時折屋根や電柱伝いに黒い髪をなびかせて疾走する。忍者のような道の選び方に何回も肝が縮んだが、掴まれた手が離される気配はなく、死に物狂いでそれにくっついていく。
もう自力で八雲の後にくっついているのか、それともただ八雲に引きずられているのかさえ分からなくなっていく。幸いなのは、目的地があまり遠くなかったことで、お手軽体験の忍者修行はさほど長く続かなかった。
住宅街の先を抜け、繁華街の方まで行くと、そこには大きないくつもの店と並んでデパートがある。普通なら学校で普通に授業を受けるはずの時間の学生が、こんな所に用がある理由なんて思いつかないのだが、八雲はその手前で一気に立ち止まり、スタスタと自信たっぷりにデパートの奥へと入ってしまった。
今まで猛スピードで駆けてきたのに急ブレーキを掛けられ、反動で八雲の背中に頭突きを喰らわす形になったのは、お互いにとって触れないでいた方が良い話題だろう。隣で栗毛の女の子が冷めた目で見ているので十分だ。
拭いきれないかっこ悪さを誤魔化すように俺と八雲はなんとなく目をそらし続けながら、時折チラリと相手の様子を伺って、歩みを進める。
先生の追撃から逃げるためにこんな所に入ったのかと一瞬考えたが、制服の2人が平日の昼間、人の少ないデパートにいるのはどう見ても異色でえる。
もちろん八雲もそんなつもりはなく、どこか良い隠れ場所を探そうだとか、誰かに見つからないように辺りに注意を向けるだとかそんなことはせずに、一直線に立ち入り禁止と書かれた扉を開けて…
「いやいやいやいや、何やってんの八雲さん。明らかにデカデカと赤字で立ち入り禁止、って書いてあるじゃんか。何しれっと入ろうとしてるの」
「あぁ柊くんには説明がまだなんだよね。大丈夫、安心して付いて来ていいよ」
「安心しろって言ったって、怖い顔した警備員さんに既に肩を掴まれてるんですけど!?」
右肩に感じる少し暖かい重みは、ここまでの猛ダッシュで冷えた体に心地の悪いものではないが、その重みがカイロの役割を果たすだけでないことは知っている。明らかな制止の意図を感じて、思わず固まってしまった。
「君たち…学生だろ。どうしてこんな時間に…。それにこんな子供も連れて…。学校を抜けて来たのか?学校に連絡するぞ」
訝しげに向けられた視線の先には栗毛の女の子。未だ涼しい顔で我存ぜぬを突き通している。そしてそんな風に警備員の問いかけを無視するように流す人物は一人だけではなかった。
「安心していいよ。私の名前…八雲黒って、聞いたことあると思うんだけど」
そう八雲が告げた瞬間、警備員の顔は衝撃、疑い、八雲の髪や顔を見て確信、最後に小さな疑問を浮かべて、ちょっとした百面相だ。
「確か、この近くにはいないと…」
「ちょっと事情があってここに来たの。しばらくここにいると思うから、これからよろしくね」
「いいえこちらこそ。黒姫がいてくれるとなれば心強い」
その言葉にひらりと手を振って、八雲は立ち入り禁止の扉をくぐった。聞きなれない、しかしよくありがちな呼び名が胸に突っかかったまま、俺はその後を追った。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
ここまでだと、男一人に女の子三人という、若干ハーレム感がありますが、この話は基本的にハーレムじゃないんですよ!笑
きっとこれからまだ登場しない男の子たちが活躍してくれることでしょう…
更新ペースが落ち着かないかもしれませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
では、お楽しみください!