人の中で
此処は何処だろうか?
八月になれば、屋台が道の両端に列を成す大通りの一時で在った。
立ち止まって辺りを見渡せば夥しいまでの人が居る、成る程と並々ならぬ違和感に気付くまでには若干の時間を要した。
この人混みには覇気が無い。
前髪で隠れた目許が、そう見せるだけかも知れない。
けれども、薄気味が悪くてしょうがない。
皆が俯いて俺の向く方とは逆行するのみで、何か催しでも在るのかと勘ぐって、俺は近くの石椅子にゆっくりと腰を落とした。
気が付くと、俺は立ち尽くしていた。
これは夢だ、でなければいきなり違う場所にはいまい。
俺は、ほっと肩を撫で下ろした。
目の前にはやたらに行儀良く体育座りする少年少女達が俺に背を向け、黒板を見ている。
この場所は見覚えがある。
後ろを振り返ると机が密着して並べられていて、水槽の金魚が恨めし気に此方へ遊泳した。
廊下側の壁には学級新聞が貼られ、後ろの棚には時代に似つかわしくない赤黒のランドセルだけが在った。
そうだ、俺の通っていた小学校だ。
暫く静観していると、教師が現れる。
眼鏡を掛けた、女らしさを感じさせない短髪の教師だ。
授業中に受け狙いなのか、漫画の話をしたりもしていたが、如何せん好みに世代差が在り過ぎて生徒から人気という訳にはいかなかった。
その教師は入るや否や、自分の机に手を伸ばす。
俺は悪ふざけで一度だけ、机の中を覗いた事がある。
一段目には赤と青のシャーペン、分度器等の文具。
定規なんかは無駄に大きくて、子供ながらに何時使うのかと思ったりもした。
それより印象に残っているのは二段目で、手前にキャラメルが入っていたのだ。
その他には問題用紙や小難しい資料があるのみだったから、当時は魅力的な菓子に気を取られていた。
それを知っていたものだから、これから用紙を取り出して学習するものだと思い込んでいた。
は……?
次に飛び込む光景は、信じられないものだった。
鈍く光る銀色、切先は天を向いている。
包丁だった。
危ない、殺される!
出入り口の扉まで逃げるも女教師は全く反応しない、どうやら子供達が目的らしい。
構わず取っ手を掴むと、誰かが声を上げた。
振り返ると鮮血が黒板や生徒達にまで飛び散って、周囲を赤く染め上げた。
周りは微動だにせず、ただただ前を見つめるのみだ。
人が殺されてるんだぞ……自分だけでも助かりたい筈なのに。
状況を整理しようにも、脳の処理が追いつかない。
「クソッ、ボケ共…もうどうなっても知らねぇぞ!」
柄にもなく、自然と切り付けられた生徒に駆け寄る。
教師に飛び掛かった時、腹を刺されたようだった。
其処には同級生の沖田君、別段親しくはなかったが野球をしていたらしい彼が、赤く腫れた頬に面皰
の愛嬌のある顔立ちの彼が、当時の面影のまま突っ伏していた。
床の血溜りを、教師が躊躇せずベチャリと踏み付ける。
赤い足跡は他の生徒に歩み寄る。
けど、沖田君優先だ。
仰向けに起こす時、だらりと血が溢れ、足を伝って地面に垂れていく。
「ごめん」
痛ましい姿に思わず謝罪すると、彼は
「あぁ……、あぁ……」
と、返事とも呻きともつかない声を上げるのみだった。
教師は片っ端から、生徒の首に包丁を突き刺して殺していく。
引き抜くと腕まで沿うように流れる血が、止まる事なく溢れ出て、折り曲げた肘からぽつぽつと落ちていく。
大きく口を開け笑っている生徒達には、飛び散った血が口内にまで入り込んで、歯を赤く塗らした。
相変わらず沖田君と俺以外の奴等は死を拒まない。
どう考えても異常だ。さっきから俺の行動を無視・・・・・・見えていないのか?
けど足音は聞こえた筈・・・・・・。
真面目に思索するのも馬鹿らしく思え、沖田君に視線を向けると、急に扉が滑る。
目を遣ると、白黒のエプロンのメイドが立っている。
切れ長の瞳に黒髪のショートヘア、長身でいかにも利発そうな女だった。
「助けてくれ!」
俺はその女に叫ぶ。
女は首を縦に振る事はなかったが、包丁を持った教師にも物怖じせず、睨みを利かせていた。
教師が女に気付くと赤一色の包丁をきらびかせ、血が垂れる度に一歩、また一歩と女へと進んでいく。
どうなる?
女は大丈夫だろうか?
今更、後悔した。
けど、逃げ出さなかったアンタにも多少の責任はあるんだぜ?
教師が間合いを詰めると、一気に緊張感が辺りを包む。
互いに見据えながら距離を縮め、拳を強く握り締めている。
動けば、今度こそ狙われるかもしれない。
静観する他ない。
両人が目と鼻の先と言える程近付くと、再び信じられない出来事が起こった。
は?
閉まる扉、メイドの帰り際の
「失礼しました!」
と、やたら溌剌とした声が教室中に響いたのが、かえって不愉快で俺の神経を逆撫でした。
怖くて足が竦んで、動けなかったならまだ理解出来る。
けど失礼しましたはないだろう……。
逃げるなら、何故睨み合ったんだ……。
解決してくれると期待した俺が馬鹿だった。
教師は相変わらず、ずっと笑みを浮かべながら背筋を伸ばし座っているかつての生徒達に手を下し続ける。
血塗れの包丁は赤黒く染まり輝きを失うも、殺した人数の凄まじさを端的に語っている。
体は言う事を聞かないが汗が頬を伝い、何とか自分を取り戻した。
だが、俺が恐怖心を抱いていたのは、凄惨な殺人現場でも教師に対してでもなかった。
ただの一人として抵抗しない、死を望む人形にだ。
彼らは大きく目を見開かせながら、ただただケタケタと笑い、変化を享受していた。
俺がおかしいのか……?
そうだ、俺が恐れているのはこいつらじゃない。
ああなってもいいと、順番を待ち侘びている俺自身が、怖ろしくて仕方ないのだ。