第一章 第五話
【お前を、夜魔に加えよう】
「……なん、だ?」
その声に、ふと、立ち止まる速人。
さっきまでの身体を焦がすような衝動は、未だに消えた訳ではない。
消えた訳ではないが……こんなガラス片なんかで立ち向かうよりも、もっと良い方法があると、何となく思えるのだ。
「なる、ほど……そうか」
そう思考を巡らした途端、速人には何故か自分に『ソレ』が出来ると理解していた。
──理屈じゃなくて、直感で。
そう理解した速人は、右手に握っていたガラス片を投げ捨てる。
そしてその直感が命じるままに、右腕の先に力を込める。
そこには、ボーリング球くらいの、黒い球体が出来ていた。
……いや。
──『ソレ』を、本当に黒と呼んでいいものだろうか?
──『ソレ』は、見る限り真っ黒で、光さえ反射しない。
──『ソレ』は、黒く見えるだけの、物理的にはあり得ないハズの球体だった。
……だが速人には、『ソレ』がどういうモノなのか理解出来ていた。
──触れるもの、全てを消滅させる。
……コレは、そういうモノなのだと。
その証拠に、周囲の大気がその黒い球向けて流れ込んで行くのを感じる。
──大気圧の関係で、『ソレ』が造りだした「何もない空間」に向けて空気が流れ込んでいるのだろう。
ヘクトパスカルという名前くらいしか暗記していない速人には、その原理なんざ全く分からなかったが。
……いや、多分、意味を理解していても、今の彼はそんなことを考えはしなかっただろう。
何しろ、その黒い球を見た瞬間に、彼の中の衝動は彼の思考全てを吹き飛ばし、彼の身体をその怪物目掛けて突き進ませていたからだ。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひひひひひひいひひひっ!」
そして、その衝動の赴くまま、怪我の痛みも感じないままに速人は走ると、その右手にある黒い球を怪物の顎に叩きつける。
その衝動に正気を焼き焦がされ、狂ったような笑いを上げつつ、まるで悪鬼の如き表情で。
「はっ!」
速人が叩きつけたその黒い球は、少年を紙屑のように切り裂いた化け物の牙を、まるでプリンか何かのように、全く抵抗なく抉り取る。
ついでに歯茎と顎の骨を半分ほど消し飛ばされたのは、流石にこの化け物でも堪らなかったのだろう。
ソイツが叫び声を上げる。
『GYAANNNNnnnn!』
「ひゃ~っはははっ!
良い泣き声だっっ!」
速人は笑いながら、黒い球を別の顎へと叩きつける。
それを数度繰り返し、歯を全て失った怪物は触手で彼を遠ざけようとするが、今の速人にとってそんな化け物の動きなんざ、止まっているも同然だった。
完全にその触手の動きを見切った速人は、黒い球で触手全てを消し去ってしまう。
「まだだっ! まだ泣き叫べ!
ひひひひひゃははぁ!」
抵抗の手段を失った化け物へ、速人は黒い球を何度も何度も叩きつける。
球自体の大きさはボーリングほどの大きさだから、その体積全てを削り取ったとしても、人間を丸呑みするような怪物に対して効果は少なかった。
だからこそ、速人は何度も何度も、その化け物の身体を少しずつ少しずつ抉っていくのだ。
身体を徐々に削られていく化け物の悲鳴と、化け物の悲鳴と悶絶を愉しむ速人の笑い声が辺り一面に響き渡る。
「……何なのよ、あれは?」
「どうやら、私達と同じになったようです、ね」
「……だけど」
背後で二人の少女が、狂気そのものという形相で笑い化け物を嬲り殺す少年の姿を、手を出すこともなく見つめていた。
「はっ。はっ。はっ」
目の前の怪物が動かなくなって凡そ二分。
ようやく速人は、相手が既に肉片と化したことに気付いたのだった。
「うぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
そして、雄たけびを上げる。
勝利の歓喜からか、恐怖から逃れた安堵からか、それとも自らが強者と化した満足からか。
自らの身体から、肩と左胸と左脇腹に開いた大穴から未だに血が噴出し続けているのにも頓着せずに。
「はっ……」
そして。
そのまま気が抜けると同時に、一つだけため息を吐くと……飛び散った肉片と、通行人、化け物、そして自らの血が飛び散った床へ倒れこむ。
──完璧に致死量と思われるほどの出血多量。
──彼は感じていないにしても脳内を駆け巡っていた怪我の激痛。
──暴れ回った肉体疲労。
──色々と混乱して参っていた筈の精神。
狂乱から覚めた速人の精神ではそれらに耐えきれず、自然と身体の力が抜けてしまったのだ。
……右前へと倒れたのは、左手がなくなって身体のバランスが悪くなっていたのが原因か。
そして、そんな彼を見下ろす少女が二人。
「ふっ……ふふふっ」
そんな二人の少女の顔を、薄れる意識の中で見上げつつ。
黒沢速人はどこか満ち足りた笑顔のまま、そこで意識を手放したのだった。
「……どうしますか、こいつ。」
「……勿論、助けるわ。彼の能力発動、見たでしょう?」
メイド服の少女の問いかけに、黒いドレスの少女は少しだけ迷いつつも答える。
迷ったのは周囲の状況を眺めたからだ。
──血塗れのアーケード。
周囲には人間だった肉片と怪物だった肉片が飛び散り、周囲は血と臓物の匂いで溢れかえっている。
こんな状況に突然巻き込まれたというのに、自分の保身さえ考えず、狂気をむき出しに暴れ回った、この少年を助けることが果たして……
「さて。そろそろ危ないわね」
そして、こんな状況で暴れ回った少年を眺め。
彼女は下らない悩みを一蹴すると、決断を下す。
「でも、この状態で意識を失ってくれて助かったわ」
黒衣の少女はそう軽く呟くと、出血多量により死が寸前だった速人の身体に向けて、その唇を開いていた。
そして……