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第四章 第四話


 んで。

 そういう経緯もあって、速人を風呂場に案内する係は、碧ではなく雪菜が行うこととなった。

 一応、碧は反対していたのだが、雪菜お嬢様の「窓を直しておいて」という鶴の一言で泣く泣く黙らされ……

 そうして、お嬢様の傍らにメイド服の少女が居なくなったのを良い機会と見た速人は、取りあえず気になったことを聞こうとして……


「……これで、良いのか?」


「……これで、とは?」


「いや、ずっとあのメイドにやられてばっかりだし。

 こんなんで訓練になっているのか? って思ってさ……」


 全身の打撲傷……ついでに言えば背中のガラス傷の痛みが、速人にそんな質問をさせた。

 その言葉を聞いた雪菜は、少しだけ笑う。


「ならば、どういった訓練を望みますか?」


「えっと。筋トレとか。

 その、拳法や剣術の型とか……」


 質問に質問で返された速人は、漫画なんかで見た特訓の光景を思いつくままに答えてみる。

 ……だけど、その答えはお嬢様の笑いを誘っただけだった。


「ふふふ。確かに人間同士と戦うなら、その訓練は効果あるでしょう」


「……へ?」


「ですから。

 拳法も剣術も、人間を打ち倒す、斬り殺すための技術です。

 拳や剣が通用しない相手には無意味なのですよ」


「……あ~」


 雪菜の応えに、前に戦った炎の球を思い出す。

 確かに、あんなの相手に拳法が何の役に立つというのだろう。

 防御も攻撃も一切が通用しない。

 ……役に立つと言えば歩法くらいだろうか?


「同様に、筋力をつけること自体は悪くないのですが、人間の力でああいう連中に対抗できる筈もありません。

 いや、筋力に頼る癖がつく分、生存率は下がるかもしれませんね」


 何となく、雪菜の言葉は誰かを指しているようだった。

 そして、その誰かがこの場所にいない以上、筋力を鍛えていた誰かの末路は言わずとも知れている。


「だったら、取りあえず動体視力と回避能力だけでも鍛えれば、生存率が上がります。

 生き延びれば、また戦えます。

 ですから……この訓練はまず死なないことが前提なのです」


「……なるほど」


 雪菜の答えは確かに頷けるものだった。


「……」


 訓練の話題が終わると、会話はあっさりと途切れてしまった。

 実のところ、前を歩くお嬢様と速人の接点なんて殆ど無い。

 夜魔(ナイトゴーント)とかいう訳の分からない存在になった同士というだけだ。

 ……だから、会話が見つけられない。

 沈黙に耐えかねた速人は、歩きながら周囲を見渡して……


「なぁ、あいつって俺のこと、嫌っているのか?」


 速人の目に窓が映った瞬間、背中の痛みと共に湧き上がったのはそんな質問だった。


「……碧ですか? 

 あの娘は誰に対してもあんな感じですけど」


 その質問は、雪菜にとってどういう意味を持ったのだろう。

 ふと振り返ったお嬢様の表情は、今まで見たこともないほど楽しそうな笑顔になっていた。


「さっきなんて窓から放り投げられたんだぞ?

 いや、スカートをめくった俺も悪いけど……」


「……あははははははは」


 その一言は、どうやらお嬢様のツボに入ったらしい。

 常に優雅な態度を崩さなかったお嬢様が、お腹を抱えて笑い出したのだ。

 それどころか笑い過ぎて立っていられなくなったらしく、雪菜は近くのカーテンにしがみついたまま、中腰で必死に身体の震えを堪えている。

 ……もしかしたら、床を転げ回りたい衝動を自尊心だけで必死に堪えているのかもしれなかった。


「ははは、けほけほ……んんん。

 えっと、碧に興味がおありですか?」


「そういう訳じゃないんだが……」


 大笑いから開放され、何とか表面を取り繕ったお嬢様を見て、何となく速人は言葉を濁す。

 ……実際、彼にはそういう趣味は無い。

 身体の発育状態で人間性を左右するような人間ではないと自負してはいるが、彼は特殊な性癖を持つ人間ではない。

 ……ああいう少女が恋愛対象となり得ないのは純然たる事実である。


「あら。碧は私と同じ歳。

 ……つまり、速人さんよりも一つ上ですわよ?」


 速人の言外の言葉に気付いたのか、雪菜はサラッと驚愕の事実を零す。


「……はぁ?」


 お嬢様の口から放たれた言葉に、速人は開いた口が塞がらなかった。

 だって、本当に小学生にしか思えない体格・体型なのだ。

 自分より年上なんて信じられる訳もない。


「……冗談だろう? あんな……」


 驚きから少しだけ回復した速人が、ようやく口に出せた言葉はそんな……ありきたりのものだった。

 速人が言いかけた一言を聞いた瞬間、雪菜の表情から面白がるような表情が完全に消える。

 その瞳を見た速人は、一瞬で言いかけた言葉を飲み込むことになった。


「冗談ではありませんわ。

 碧は父の執事の子供でして……私に仕えさせるためだけに生まれ出たのです。

 碧より速く私が生まれたからという理由で、まだ出産予定すらなかったあの娘を、強引に産ませたのですから……」


 気付けば、雪菜の口からとんでもなく重い話題が飛び出てきた。

 この話題が出た途端、雪菜はすぐに窓の外へ視線を向けたため、速人からお嬢様の表情は窺えなかったのだが……それでも彼女を取り巻く空気は、彼に言葉を挟ませない。


「おかげで、彼女は生まれたばかりの時は生存すら危ぶまれていましたし、現在も成長が非常に遅れています。

 ……あの娘の身体は、未だに子供を産む準備すら出来ていないのです。

 全ては、私に仕えることになったばかりに……」


 そう言って俯いた雪菜に、何とか言おうとして……結局、速人はそれ以上踏み込めない。

 実際のところ、彼はこういう重い空気が苦手だった。


「その上、彼女は私の世話ばかりに自分の時間を全て費やしています。

 家事その他から始まって、あの事件以来……射撃訓練、格闘訓練など。

 あの子は、身体が弱いというのに……」


 その言葉を聞いて速人はようやく納得する。


 ──道理で体格で勝る自分が、あの小学生と見紛うメイドに一方的にやられる訳だ。


 あまりに一方的にやられるため、速人は自信を喪失しかかっていた。

 だが……碧がしっかり訓練を積んできた人間だというのなら納得である。

 そう頷いた速人は、ふと彼女の呟いた一言が気にかかる。


(……あの事件?)


 その言葉が気になった速人は、口を開こうとする。

 だけど、彼の声よりもお嬢様の言葉の方が、速く発せられたのだった。


「ですから、速人さん。

 彼女の身体に関して、何か言うつもりならば……それは私をも侮辱することだと理解してくださいね」


「……ああ」


 結局、雪菜のその言葉に速人が出来たことといえば、ただ頷くことだけだった。

 黒沢速人という少年は妙な超能力を手に入れたと言っても……所詮は親元で適当に生きていた温い高校生である。

 突然向き合わされた自分の容量を超える重い話題に対して、何か出来る筈もない。

 そんな速人の躊躇いを感じ取ったのだろうか。

 雪菜の背中から、ふと他人を拒絶するような空気が消えた。


「でも、もし本当に貴方が碧に興味を持っているのなら……」


 突然、くるりと振り返ったお嬢様の表情は、既に笑顔に戻っていた。

 いつもの優雅な笑顔とは丸っきり違う、年相応というよりは幼子のような、その悪戯っぽい表情は、さっきまでの空気をぶち壊すのに十分過ぎるほどの笑顔で……


「……待て待て待て! 

 何故、そうなる!」


「だって、あの娘のスカートめくるくらいでしょ?」


「いや、それはただの意趣返しで……」


「でも、あの娘も、スカートをめくられる程度には、貴方に気を許しているということですわ」


「……冗談だろう?」


 そんな何処にでもいそうな高校生っぽい会話を繰り返しつつ、雪菜に少し感謝する速人。

 さっきまでの重苦しい空気の中で放たれた彼女の言葉が全て嘘だとは思っていない。

 ただ、雪菜自身が冗談めかした言葉で、さっきの空気を払拭しようとしてくれているのだ。

 速人はその行為に乗じ、それ以上の問いは避けることにする。


「はい。ここです」


「ああ。さんきゅ」


 そんなこんなで雑談をしている内に風呂場に着いたようだった。

 目の前の扉を開くと、無意味に広い脱衣所があり、何となく気後れする速人。


「そういえば、背中を怪我していたな……」


 その、あまりの広さ・豪華さの脱衣所に気後れした速人は、さっきまで忘れていた背中の痛みを理由に、目の前に広がる異世界から遠ざかろうとしたが……


「男の子でしょ! 『怪我くらい気合で治しなさい!』」


「いたっ!」


 雪菜にガラス傷だらけの背中を引っぱたかれて悲鳴を上げつつ、脱衣所に押し込められる。

 突如背中に走った激痛に、速人が抗議しようとして背後を振り向いた時には、既に雪菜の姿はそこになく。


「……ちっ」


 怒りの行き場を失った速人は舌打ちすると、周囲を見渡し……仕方なく服を脱ぎ始める。

 実際、自分の生活圏内から離れた敵地で、人間としての最後の拠り所とも言える衣服を脱ぎ捨てるというのは、思いのほか勇気が必要だった。


「ん?」


 速人は血と汗まみれのシャツを脱いだ時、それに気付いた。

 慌てて速人は脱衣所に備え付けられていた鏡越しに自分の背中を覗きこむ。


「あの一瞬だぞ?

 一体、どうなってるんだ?」


 恐らくは、さっきの接触で雪菜の能力(ナイトメア)が発動されたのだろう。


 それが未だにどんな能力かは不明なのだが……鏡に映った彼の背中には、怪我なんて一切残っていなかったのだった。


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