第一章 第一話
「……ははっ」
黒沢速人は目の前の状況を見て、つい笑い声を上げていた。
……いや、笑うしかない状況だった。
──右を見ても、赤く。
──左を見ても、紅く。
さっきまで通行人で溢れていたアーケード街は、速人の目に映る範囲の、何処も彼処も何もかもが全て……冗談のように真っ赤に染まっている。
さっきまで歩いていた通行人の中で原形を留めている存在は……彼を含めてもう三人だけになってしまった。
さっきまで自分と話していた級友は、その靴と足首と……最期の瞬間、速人に触れた左手以外、彼が存在した証拠などもうどこにも残されていない。
そして、その惨状を創りだした元凶というべき存在は、見たこともない異形だった。
──現存する生物で『ソイツ』を言い表すならば、鰐の集合体が近いだろう。
──もしくは蠅取り草とかいう食虫植物か。
そんな「口と触手だけで出来ている」としか表現できないような異形の化け物が、青みがかった液体をばら撒きながら、四つほどある馬鹿でかい顎で周囲にいた人間を次から次にソフトクリームのように齧り取り、薙ぎ払い、挽肉にし……
……そして未だに暴れ回っている。
「くっ! 猟犬のヤツ!
……血の味を覚えてっ!」
「お嬢様! 前に出過ぎです!」
……その挙句。
血で塗りつくされたアーケード街でその化け物と戦っているのは、高級そうな黒いドレス姿のお嬢様と、小さな身体に似合わない馬鹿でかい銃を抱えたメイドなのだ。
「はっ。ははっ。ははははっ」
引き攣った笑顔のまま、速人は笑っていた。
……いや、笑うしかなかった。
ここまでいけば三流の映画以下の展開だ。
──理解の範囲外。
──常識の外。
この真紅に染まった、鉄錆の匂いと臓物の匂いと火薬の匂いと、そして出所が分からない奇妙な刺激臭が一面に漂う、まさに『地獄』以外に表現のしようのない状況で、彼の脳みそはもう現実を受け入れるのを止めてしまっていた。
呆然と周囲を見渡すだけの……ただの木偶。
「……しまっ!」
そして、そんな隙だらけの『餌』を、ソイツが見逃す筈もない。
四つの顎の周囲にある七つの瞳が、速人の方を一斉に振り向く。
『避けろっ!』
化け物と戦っている二人のどちらかが、そう叫び。
呆然と木偶の如く突っ立っていた速人は、その声を聞いてようやく自分の現状に気付き、慌てて動き出したのだが。
──もう遅い。
再起動したばかりの彼の思考回路では、その突進してくる化け物の顎を避けようとか防ごうとか考えることすら出来なかった。
……そうして。
さっきまで周囲を血の海に染め上げた怪物の、さっきまで通行人たちをひき肉に変えたその顎の一つが……
ガブリと……彼の左半身に喰らいついていたのだった。