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 ムジカと遭遇してから3日後。ユーリは昼夜を問わず、宿に籠りきって仕事をしていた。目の下にはクマを作り、食事もおろそかにしていたので、精神的な疲れと栄養の不足により頬がこけている。しかし、彼の目は満足げな光を宿している。


「よし、できた」


 ユーリはこの3日間、ムジカの依頼に必要な準備を整えていた。今回のような経験などほとんど無いので勝手がわからないが、自分が必要だと考えるものを予備も含めて多めに用意しておく。そのうちの一つ、異形除けの線香をいくらかまとめて、ユーリは3日ぶりの日を浴びる。人は日光を浴びなければ健康に支障をきたすという話は聞いたことがあるが、久しぶりにご対面した太陽はユーリを容赦なく照りつけ、睡眠不足であるユーリにとってそれは苦痛でしかなかった。

 太陽からの無垢な悪意を一身に浴びてふらつきながらも、なんとか別の宿屋までたどり着く。そこはクルトの宿泊する宿屋だった。ユーリは、モユクの村から帰る際の異形除けを売るという約束を守るために疲れ切った体に鞭を打ちながらここまで来たのだ。クルトと飲み交わした日、酔いつぶれたクルトに肩を貸して送り届けた際に宿屋の主人とは顔を合わせていたので、クルトに会いたい旨を告げるとすぐに通してくれた。部屋は二階の角部屋らしいので、幽霊のように体をお揺らしながら辛い思いをして階段を上がる。

 本人はまだまだと思っているようだが、ユーリは既に限界を超えていた。準備とは単純作業をひたすら繰り返すものだったのだが、単純作業とはあまり頭脳労働を必要としない代わりにゆっくりと脳をいたぶるのだ。3日間休みなくそれを続けたユーリの精神は既に限界で、それゆえにクルトの部屋の前までやってきた時に、ノックの後クルトの返事を待たずに戸を開けるという少々礼儀に欠ける行動をとってしまった。早く床に就きたいという欲求が頭を巡っていた、ということもその行動をとらせる理由の一つと言えるだろう。しかし…


「クルト、入る……ぞ」


と、そこまで言って、ユーリは言葉とは裏腹に戸を閉めた。

 戸の先に、見てはいけないものが見えた気がしたのだ。あまりの疲れに幻覚を見たのかとすら思った。いや、そうだったとしてもなにも不思議はない。そうか、自分はそれほどまでに疲れていたのか。こんな状態でムジカの依頼をこなせるのだろうかと少しだけ不安になるが、しかし、既に賽は投げられてしまっている。逃げればムジカに殺される。あれには10度戦って一勝できるかどうか。そこまでの条件の譲歩をしたところで確率は半々よりやや低い。それほどの相手だ。ならば、面倒だろうが、活きる可能性の高い方に欠けるのは道理と言えるだろう。自分の選択は、間違っていない。というか、間違えようがないのだ。

 幻覚は自分が緊張状態にあるからなのかもしれない。いや、きっとそうだろう。

 ゆえに、この部屋の中にはクルトの顔をして胸部がふくよかに発達した女性が湯で濡らした布で体を拭いている場面など存在しない。

帰ったら少しでもいいから仮眠をとろうと結論をつけて、ユーリはいま一度、目の前の戸をノックする。


「…クルト。入っていいか?」

「…………どうぞ」


 問いかけからかなりの時間をかけて、返事が返ってきた。おずおずと取っ手に手をかけて戸を開ける。部屋の中には、目の辺りと手以外は服と布で隠したいつもの格好のクルトが寝床に腰を下ろして座っていた。顔のほとんどが見えないので良く分からないが、ユーリにはクルトが心なしか疲れた表情をしているように見えた。ユーリもそれを見て精神的な疲労が質量をもって襲いかかってきた。


「ノックの返事も待たずに入ってくるのは、お勧めしかねますね」

「いや、その…悪かったな」

「謝意が足りませんね。乙女の体を直視したのですから、もう少し誠意をもって謝ってください」

「うぅ…悪い。すまないことをした」


 はあ、というため息を漏らすのは額に手を当ててやれやれといった様子のクルト。しかし、次の瞬間、悲嘆に暮れていたはずの目が悪意を秘めた笑みに光る。


「では、その謝罪と共に、ユーリさんがせっかく持ってきてくれた異形除けの線香を無料でいただくという条件で手打ちとしましょう」

「お前、逞しいな」

「これでもショックを受けてるんですよ?というか、かなり動揺しています。少しだけユーリさんをこの手にかけてしまおうかと考えるくらいには」

「…勘弁してくれ」


ユーリは手を上げて降参の意を示す。もう既にムジカから命を握られている身なのだ。これ以上危険を背負う気にはなれない。


「冗談です。ユーリさんを殺すのは、どちらかというと損害が多い」

「それは助かった」

「ユーリさんは普通の人よりも貧乏そうですからね」

「金持ちだったらヤるのか?」

「額次第ですね」


 自分が貧乏で心底良かったと胸を撫で下ろすが、この後ムジカから相当な額をもらいうけることになっているはずなのだがと一抹の不安もよぎった。

 しかし、それよりも何よりも、ユーリは目の前の事態に理解が追い付かないため、それを解決するためにクルトに話しかける。


「どうして、お前は男の格好をしてるんだ?」

「女の商人は嘗められることが多いんですよ。しかも、女の一人旅は危険ですからね。見かけを変えるだけとはいっても、やらないよりはマシなんです」

「それは、苦労してるんだな」

「一応言っておきますけど、このことは他言無用ですよ?ユーリさんは俗世とはほぼ無縁の呪い師なんですから、私は安心していいはずですよね?」

「それはもちろんだ。というか、俺も少なからず衝撃を受けているんでね。このことはすぐにでも忘れたい」

「…そう言われると少し悔しいですが、まあ致し方ありませんね」


 お互いにため息を漏らす。このことは両者にとって多少の禍根を残すことになるのは避けられないことだろう。まあ、もうすぐユーリは村を出ていくし、そうしてしまえば広い世界の下、そうそうであることもないだろうが、とユーリは自分自身に言い聞かせるように結論付けていた。




「ああ、そういえば、クルトに話しておくことがあったんだ」

「何ですか?」

「村の外の異形の動きがおかしくなっている。詳しく調べないことには分からんが、もしかしたら危険かもしれん。早めに村を出た方がいいかもしれんな」


 クルトは目を細めてユーリを観察する。彼の口、目、仕草。細かい部分まで見て、自分も口を開く。


「本当ですか?」

「ああ、急で歪な変化だ。まあ、俺はこの村に来たばかりだからな。ここでは並みのことなのかも知れんが、少なくとも他の地域では注意が必要な状況だな」

「ふむ、そうですか…」


真剣な表情で注意を促してくるユーリからめをそらし、顎に手を当てる。しばし黙考。


「…ところで、異形寄せの件はどうなってますか?」

「全然成果が出んな。俺もできることなら未知の高性能異形寄せの実態を解明するまではここにいるつもりだったんだが、ちっとばかしまずいかもしれん」

「それは、惜しいですね…」

「全くだ。だが、もう積み荷の買い取りができる状態なら、早めにしておけ。命あっての物種だ。呪い師は分を弁え、引き際を弁えることができてまず半人前と言うが、それは商人とて同じだろ?」

「…まあ、その通りです」

「お前は欲を書いて失敗するよりも、損害を出さないように行動する方を取りそうだと思ってな。約束の品を届けるついでに知らせておこうと思ってた」

「それはありがとうございます」


 クルトはユーリの言葉にあいまいに笑っておく。自分は本当は欲深いのだが、それは言わぬが花だろう。


「俺は明後日この村を出る。お前も重々気をつけるようにな」

「分かりました。そうします」

「それじゃあ、俺はもう行く。色々とやらなければならん」

「そうですか。村を発つときは一声をかけてくれますか?」

「気分次第だ」


簡潔な返事を最後に、ユーリは部屋から出て行った。簡素な部屋にクルトが一人残される。

 クルトはユーリが出て行ったあともしばらく戸を見つめながら何かを考えていたが、ふと立ちあがるといそいそと歩いて部屋から外に出て行った。

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