黄金の想い、まどろみの先で
――拝啓 温かな風に乗り優しげな桃の花の香りが部屋を満たす、まるで夢のような穏やかな日のこと。此度のお目覚めが同じ様に健やかであればと願いつつ、筆を取っております。
さて、夢境にて共に日々を過ごしておりますので、どこか不思議な感覚を目覚める度に覚えてしまいますが、今度はいつこの文を手に取って頂けるのかと考えれば楽しく、こうして文字に残すことが気恥ずかしくもあります。
毎度思うのです。氷雨さまはまるで花の化身のようだと。なぜなら、私と氷雨さまの周囲では、常に何かが咲き誇っているのですから。
此度は桃でございました。遭逢の日には、金木犀が強い芳香を放っていたことを覚えておいででしょうか。晴れの日は当然のこと、雨に打たれる花もまた美しく凛として見えるので、泣いてしまいたくなるほど見惚れてしまうことも多くございます。氷雨さまのお目覚めを一人、現世で待つ間は特に。
ですからお目覚めした際、その鮮やかな双眸を飾る景色もまた艶やかであることを祈っております。
せっかくなので、桃の花は栞にしておきました。よければご覧下さい――
とある蔵にて、夢境から戻る者が居た。
薄暗い場所に突如現れたその男は、自分が何かを握っていることに気付き、緩慢な動きで視線を向ける。
そこにあったのは細く流れる文字が美しい文だった。男にとっては最早何通目かも分からない、差し出し名の無い手紙。
しかし相手は分かっており、内容も想像がつく。見たこと、思ったことをただ連ねただけのもので、読んで意味があるものではなかったが、けれど。起き抜けのぼんやりとした頭でそれを眺めるのが、現世においてまず始めに行う、もう何年も続いている日課であった。
「春に起きたのか」
乱雑な手付きで文を開いた男がボソリと言った。鮮やかな色を保ったままの桃の花が可憐な栞が、細く長い指の麗しい手におさまっている。
どこまでも低く、どこまでも冷たい氷の雨を思わせる声だった。
不思議な事に男は、鳥の巣のようにボサついた長い白髪も邪魔ではあるが、それ以前にその奥で瞳を閉じたまま文を読んでいる。麗しげな顔は無表情ながら、一字一字をとても愛しそうに追っていると思わせ、姿もさることながら雰囲気がまるで人ではない。
男は正真正銘この世に住まう神であった。とはいえ、八百万の神の一人。美しい容姿はあれど、これといって初めからの神々には遠く及ばない。
どこか漠然と元は狐のような獣だった記憶はあるのだが、それを忘れてからも久しい。
長きに渡り人の手で大切にされてきた物を憑代として、敬われる限りその土地や家へ安寧を招く守り神の一種。眠り神の氷雨という名を持つ。
今はとある村の地主の家で代々伝わってきた刀へ住まい、気まぐれで現世へ現れるということを繰り返している。
「浅葱、いるか?」
氷雨は一向に瞳を開く気配を見せないまま、それでもしっかりとした足取りで外へと向った。
重い扉を押せば、肌を刺してくる冷たい空気。立派な蔵の屋根を氷柱で飾り、足元は柔らかい雪が土を隠している。
「冬か……」氷雨が呟いた時、遠くの方から静かな足音が聞こえてきた。
「氷雨さま!」
「今回は長く起きているようだな」
「はい。喜助さまがどうしてもと仰って」
何度も雪に足をとられながら、それでも慌てた様子で氷雨の元へと駆けて来る女性。彼女こそが、ここ数年氷雨へ文を送り続けている者だった。
黒髪は艶やかで美しく、今は興奮と寒さから頬を赤く染めているが、普段はとても儚い印象を人へ与える。背丈が小さく、二人が並ぶとまるで氷雨が鬼にでもなったようだ。
けれど浅葱という名を持つ彼女は、美しいからこそ恐ろしい氷雨を前に臆することなく、「ご挨拶なされる前に、御髪を整えましょう」そう言って微笑む。
「頼まれて、断れなかったと?」
「仕方がありませんでしょう。奥方さまからも、御子のお名前をなんて言われてしまったのですから」
「そんなもの、適当に考えて放っておけばよかったのだ。そうすれば迎えに来ずとも済んだろうに」
背中を押す浅葱に対し、氷雨は少しばかり不機嫌そうに文句を零しながら、蔵の中を〝花浅葱〟という色をした鮮やかな青の炎で染める。
明るくなったところで、されるがまま腰を下ろした氷雨の背中へと回った浅葱は、鈴の音のような笑い声を響かせながら櫛を取り出し、ボサついた彼の髪を梳き始めた。
「女児の名を用意して、男児がお生まれになったら大事ではありませんか」
「なら、元から両方用意していれば良い話しだ」
「私には一度に二つも考える頭は無いのですよ。それに、名は一生背負うものです。そのような無責任な行いは出来ません」
浅葱の傷一つない美しい指は、あっという間に氷雨の白髪を滑らかなものへと変えていく。
まだ腑に落ちないのか「そういうものか?」と呟く氷雨へ、「そういうものです」断言しながら周囲で灯る炎と同じ色の紐を取り出し、器用に纏めていった。
「では、私はお前に悪い事をしたかもしれん」
「どうしてでしょう」
浅葱の指が自分の髪を撫でる度、なんとも言えない満足感が内を満たすのだが、氷雨は少しだけ戸惑いを覚える。そんな彼が思い出すのは、彼女との出逢いだ。
反対に浅葱は首を傾げる。
「お前の名を適当に考えてしまったからな」
「そんな。私は嬉しかったですよ」
「浅葱色が一番似合いそうだと思っただけだぞ?」
「けれど、氷雨さまの一番お好きな色ではありませんか」
申し訳なさの混じる声を、浅葱は笑いながら否定した。
それでも納得しない氷雨が振り返ると、その動きに合わせて高い位置で纏められた髪が、まるで白狐の尾のように揺れる。
決して現世にて開くことのない瞼の奥で浅葱を見つめると、彼女は本当に嬉しそうな表情を浮かべた。
内心で安堵しつつ「そういうものか?」と首を傾げ、先ほどと同じ言葉を掛ける氷雨を心から愛しく感じながら、浅葱は「そういうものです」と答え胸に広がる想いを噛み締める。
そして手を取り立ち上がらせ、今度は着物の崩れを直していった。
整えられた身形によって、氷雨の美しさはより増していく。彼と出会った人間は、誰もが例外なく閉ざされた瞳の色を見たいと思うのだが、眠りの神である限り完璧な目覚めが訪れることは無い。
しかし、それを知っているのが浅葱だった。
守り神に相応しい姿へと用意が済んだところでようやっと、氷雨は自らが守る人間たちに浅葱を迎えに来たと伝えに行けるのだった。
二人は、酔ってしまいそうなほど濃密な香りを漂わせた、古い金木犀の木の下で出逢った。氷雨が気まぐれで現世へ姿を見せ、現在加護を与えている屋敷の近くを散策していた時だった。
その時の浅葱には名どころか何も無く、見てくれも小汚い女児であり、あろうことか傷だらけですらあった。遊郭へ売られる道すがら逃げ出し、一度は追っ手に捕まり折檻されながら、それでも二度目にてなんとか逃走を成功させた所で、金木犀の香りに誘われ痛む身体を休めていたつもりだったらしい。
考えられない無茶をしたものだと今であれば笑えるが、当時は二人して呆けたという。氷雨は何だこの薄汚れた塊はと、せっかくの美しい風情を損なう浅葱へ苛立ち、彼女は彼女で、仏様がお迎えに来たのだと感激したという。
そしてすぐ、それぞれで気付く。ぼろぼろな塊は、所々に乾いた血を張り付けた子供であったこと。神聖な気配を放つ相手が、せっかくのそれを損なうだらしがない姿をしていたことを。
「捨てられたのか」
孤児として生きていたところ、騙されて売り飛ばされかけての状況だったが、元を辿れば親は居るはずだ。本人は覚えていないが、幼い身でありながら一人ということはそういうことだと分かっていたのだろう、弱々しく頷く。
「そうか。それは難儀だな」
氷雨は同情するでもなく、実にあっさりとした反応を返した。
浅葱はこの時、まさか相手が神の一人だと思ってはいなかった。ボサついた髪やくたびれた着物はともかく、言葉遣いや佇まいからどこぞのやんごとなき御方だと密かに怯えていたのだ。
気まぐれになぶられるのか、暇つぶしに使われるのか。どうなるにせよ、思い浮かぶのは悪いものばかり。
そんなこととは露知らず、氷雨は少し思案した後、躊躇する素振りを見せず軽々と浅葱を抱き上げて屋敷へと戻る。驚きと恐怖、疲労などを一心に背負った幼い身体は、到着して奉公人へ預けられる頃には耐え切れず気を失っていた。
そして、氷雨が先代である当時の地主へ話をしている間で、小汚い女児は手厚い看護を受け、温かい布団の中で穏やかな眠りを授かることになる。
それが二人の――神と人の出逢いであった。
「にしても、よくぞあの時の塊がこうも育ったものだな」
「いい加減、塊呼ばわりはおやめ下さい」
「そうとしか言えない有様だったお前が悪い」
浅葱が抱く赤子の頬を突付きながら、氷雨は意地悪く笑う。
穏やかに眠る子は、産後の肥立ちが悪い屋敷の奥方に代わり浅葱が面倒を見ており、それを氷雨は手伝っているつもりで隣に居る。
あれから十年の月日が流れた。当時の浅葱と歳が近かった今の地主には、こうして跡継ぎが生まれ、二人の過去は尊いものへと変化していく。それを止めることは、たとえ神であろうと出来ることではない。
氷雨は閉じられた瞳で、赤子をあやす浅葱の姿を見た。美しいと心から想う。眠る事で使命を帯びる身にとって、彼女との出逢いは初めて肌で感じた時の流れでもあった。
氷雨にとっては昨日のことのようであり、けれど美しい女へと成長した姿を見て湧き立つ感情に対しては、どことなく切なさを抱く。
気まぐれで拾った女児が屋敷で目を覚ましたのは、拾われた次の日のことだ。朝霧に包まれた屋敷で響いた甲高い悲鳴。彼女を理由で先代から滞在を願われていた氷雨の耳にもそれは届いた。
「これ、お待ちなさい!」
「そのお部屋は……!」
そしてすぐ後、氷雨の宛がわれた部屋に近づく慌しい足音。引き止める声を無視して開かれた襖を見た時には、その塊は彼の元へ転がってきていた。
「何事ぞ」
「申し訳ございませぬ。昨日の子が逃げ出してしまい」
屋敷の者は、気まぐれに現れる氷雨が神だと当然知っており、世話を任されていた奉公人は戦々恐々とした様子で平伏する。
布団から身体を起こしただけであった氷雨は、気にすることなく普段通りの冷えた声で問い掛け、自分の腰にしがみ付いたモノを見た。
「やっと起きたか。お前は私に似て寝るのが好きらしい」
見上げてくる瞳は澄みきっていて、昨日の汚れを一切感じさせない。雪のように白い肌や艶やかな黒髪は、氷雨をも感嘆させる何かがあった。
そしてなにより、怒っているとも取られそうな無表情な顔と冷たい声に対し、女児は安堵を前面に笑ったのだ。気付けば氷雨は、その額へ口付けを落としてしまっていた。
その行動に誰よりも驚いたのは氷雨自身だったが、意味の分かっていない女児は驚きに目を丸くさせ、縋るように服を握る力を強くする。
「お前、名は」
戸惑い気味に首を振る姿でそういえば捨て子だったかと、氷雨はまばらな長さの髪をそっと撫でた。そうすると気持ち良さそうに目を細めるのだから、まるで猫だなと穏やかな感情が芽生えていく。
目を閉じたままな姿や冷たい雰囲気、神として常々怖がられる身にとって、理由は分からなくとも無条件な信頼はとても心地が良い。気付けば氷雨の唇が動いた。
「……浅葱」
「あさ……ぎ?」
「そう、浅葱。名が無いのなら、今日からそう名乗ると良い」
この時からその女児は、氷雨の中で自分のモノだという認識となった。屋敷の者たちもまた、同じ価値観を持って彼女へ接するようになる。
でなければ、身体を休めた後は奉公人として屋敷へ住むか、もしかすると先代の養子となっていたかもしれない。
氷雨が無自覚なまま見初めたからこそ、浅葱は屋敷の守り神の機嫌を損ねぬようにと、孤児だったにも関わらず大切に育てられることになったのだ。
歳が近そうだ。そんな些細な理由で、跡取り息子の幼馴染として何不自由なく生活していく。そして、健やかに美しい娘へと成長した。
氷雨はその移り変わりを間近で見続けた。けれど彼は守り神、それも眠りを司る。加護を維持し強めるには、自身も眠らなければならない。
そのせいで常に傍らに居るわけにはいかず、この時はまだ、誰よりも浅葱を知っているのは彼ではなく、先代の息子の喜助であった。
目覚めればどうしてか一番に駆け付けて出迎えてくれるのだが、眠っている間の出来事を楽しそうに語る浅葱の口からは、どうしても最も身近なその名が出てしまう。
しかも本人は気付いていなかったが、跡取り息子が自分の浅葱へ惚れていることを氷雨は知っていた。なによりそれを面白くない、腹立たしいと感じたことで、女として好いているのだと自覚したのだから。
そしてそれは、浅葱が十分嫁に行ける歳となってからのある夜の出来事だった。
「父上……!」
「とにかくならん! そんなことの為に浅葱を共に育てたわけではない!」
「しかし! そうであればどうして浅葱を」
「分かるであろう? あの娘は氷雨様のモノだ。神のモノに手を出せば、この家がどうなるか!」
浅葱が美しい娘へと成長したように、跡取りである喜助もまた精悍な顔立ちの青年となり、そろそろ嫁をと屋敷どころか村中で囁かれるようになっていた。
それを本人も分かっていて、だからこそ喜助は父親へ直々に、嫁をと言うのであれば浅葱をと相談し、そこで烈火の如き怒りを買った。
二人はそのやり取りを、まさか氷雨が聞いていたなどと思いもしない。口論は白熱し、仕舞いには喜助が浅葱を連れて家を出るとまで言い出した為、彼はその後一ヶ月近く自室で軟禁される結果となる。
その間で氷雨は、浅葱を人の輪から踏み出させる選択を取ったのだ。
何も知らない浅葱は、この世で誰よりも氷雨を信頼していて、それがどういった意味を持つのか考えることをしなかった。
「浅葱、私の世界へついて来ないか?」
「氷雨さまの、ですか? しかし……」
ただ、神の世界と言われ単純に飛びつくような浅慮な娘ではなく、浅葱は初め自分のような者がおこがましいと逡巡する。
それを氷雨が驚くべき大胆さで覆した。
卯の花が最も美しい季節のことだ。浅葱の慎ましやかな唇へ氷雨のひんやりとしたそれが重なり、内側を揺らしながら扇情的な温もりを生む。
小柄な浅葱に合わせる氷雨の身体は、まるで覆いかぶさっているようで、それを運悪く軟禁されていた部屋から見てしまった喜助からは、彼女がどのような表情を浮かべていたのか分からなかった。
だが、氷雨はそんな喜助のその時の顔を知っており、徐々に白い肌が真っ赤に変わっていく様子を笑いながら、まるで見せつける様にそっと耳元で囁く。「私の瞳の中へ、お前を映したい」と――
そうしてその日、浅葱は人としての時の輪から外れ、氷雨が憑代としている刀の中で広がる夢境を見た。空の下では隠された繊細な色の輝きを知る。
それから数年。浅葱は美しい娘のまま、老いることなく氷雨の隣に居る。
既に何度も繰り返した現世との往来がどういったものなのか、未だに氷雨は説明しないままだ。
けれど、浅葱も気付いていなければおかしい。自分が現世の時の流れから置いていかれていること。それでも何も言わず、自分から氷雨の隣を帰る場所として行き来している。
しばらく氷雨は、赤子が寝入ったために生まれた無言の心地良さを味わいながら、静かに過去を慈しんでいた。しかし、彼が自分の髪と戯れるのを黙って笑っていた浅葱の元へ、一人の落ち着きを滲ませた男が訪れたことで、その時間は終わってしまう。
「氷雨様、浅葱。お邪魔致します」
「喜助さま!」
声を掛けられた途端、嬉しそうに顔を綻ばせるのだから面白くない。そう不貞腐れている間に返事も聞かず、地主としては貫禄が生まれつつある男が深く頭を下げ、だとしても無遠慮に部屋へと入ってくる。彼こそが加護を与えるべき屋敷の中心人物であり、恋敵でもあった喜助だ。
いや、浅葱に向ける視線を考えると、妻子を持った今で尚、恋敵と言うべきかもしれない。
氷雨への挨拶もそこそこに、自分の子を間に浅葱を腕に収める姿を見ていれば、因縁をつけていることにはならないはずだ。
「何か用か、地主の小僧よ」
「我が子の様子を見に来ただけですよ。忙しいとはいえ浅葱に頼りっぱなしで、こちらとしても申し訳ないですし」
「ならば、さっさと連れて戻るが良い」
本来ならば不敬で屋敷の者が青ざめる口調も、喜助が言うとなれば氷雨との間では日常だ。浅葱も事ある毎に繰り広げられる口喧嘩には慣れっこで、目が覚めた赤子へ笑いかけながら「仕様のない方々ですね」と零している。
そして結局、喜助の妻の身体が回復した後の二年間、氷雨は浅葱を夢境へ留めて彼から遠ざける神ならではの行動を取るのだ。
それでも、危なっかしい足取りで庭を走る名付け子の様子を感慨深そうに眺めながら、浅葱が誰かに胸の内を明かすことはなかった。隣に座り語らう喜助の妻や、幼い時から知っている屋敷の者達の誰にも、彼女が穏やかな表情の下で何を想っているのか分からない。
ただ、こぞって哀れだと同情を寄せるのは男連中で、女たちは本人と同じ様に黙って浅葱を見守るだけだ。
そして、名付け子が二人増え、一番上が手が掛からなくなっていくのに合わせ、浅葱が現世で日々を過ごすことは少なくなっていった。
喜助が最初で最後、氷雨だけの特権であったはずの文を受け取ったのは、彼が椿の美しさに見惚れた季節のことである。そして、そこに秘められた悲しみを知った。
――拝啓 冷たい風の中、なんとなくではありますがその中に春を感じるようになった今日この頃。いつまでもお元気に日々を過ごして欲しいと願いながら、初めて喜助さまへ筆を取ることに少し緊張しております。
氷雨さまの手によりお屋敷でお世話になれたこと、浅葱めは本当に幸せに思っております。
旦那さまとご一緒にご紹介たまわった際、誰とも知れない私へ屈託なく微笑んで頂けどれだけ安心出来たことか。あの頃からずっと、喜助さまはまるで兄さまのような大切な方でございました。
そう言うと、きっと苦い顔をなさるのでしょうが、浅葱にとって喜助さまはとてもかけがえのないお方だったのです。それは奥方さまも、お子さま方もそうです。喜助さまの周り全ての方々が、私にとって大切で愛しく、皆様と出会わせてくれた氷雨さまには感謝してもしきれません。
それにしても、氷雨さまと喜助さまは、本当に不仲であられましたね。それはきっと、私がこのような形で皆様といつか別れることになると知っていて、それを阻止せんと思って頂けていたからなのでしょう。
教養は足りませんが、私もそれぐらいは分かるのですよ。だからこれは、誰でもない私の我侭に他なりません。
雪の上へ落ちる椿を見るたび、私は悲しくて仕方がありませんでした。いつか訪れる氷雨さまとの別れを暗示させて胸が苦しく、花で唯一好きになれなかったのです。
だから、私は氷雨さまと同じ時を歩めること、人の身でありながら卑しくも嬉しかった。ただ、それでも、今では少しばかりこの選択にも後悔してしまうことがございます。
それが、喜助さま方が徐々に徐々に、遠くへ行ってしまうことでした。だから私は逃げるように、氷雨さまの元へ身を隠すようになってしまったのです。
申し訳ございませんでした。皆様が心を配ってくれていると、分からないわけではなかったのに。
償いになるとは思いません。ですが、せめてで良いのです。私がいつまでも、このお屋敷の人々を見守り続けることをどうかお許し下さい――
皺だらけの大きな手が持つに、その文はあまりに白すぎる。氷雨は漠然とそんなことを思いながら、本人が気付かないままに流れる涙を眺めていた。
雄々しく年老いた喜助と二人、部屋で対峙する氷雨の腕にもまた、小さな白い陶器が収められている。
氷雨が加護を与え始めてからの年月は、大分前に数えるのをやめてしまった為分からないが、代替わりしてから実に三十年近く経ち、神と人、二人の男がやっと正面で向き合っていた。
「兄、だったか……」
「いつまでも自分に白を切っていた報いだろう」
「そうなのでしょう。浅葱も存外残酷ですな」
嘗ての若々しい無鉄砲さ溢れる口調はとっくに消え、どっしりとした穏やかな響きが乗った声。氷雨は初めて、張り合いが無くなったと寂しさを感じる。
浅葱があまり現世へ姿を見せないようになったことで、彼女を想う氷雨もまた最低限、必要な時にだけ屋敷を訪れるようになっていた。二人の世界へと繋がる刀は蔵の中で大切にしまわれ、喜助が見なくなって大分経つ。
「まあ、私の方が薄情でしたが。兄妹揃って、なんと情けない」
「償うつもりもない癖して、軽々しい言葉を吐くものではないだろう。そして浅葱とお前を同列とするな」
鼻をすすったことで、自分が泣いていたことに気付いた喜助は、乱雑な仕草で拭ってから苦笑を零す。そうして大切に文を閉じ、氷雨の腕の中の器――骨壷へ柔らかな視線を向けた。
「しかし、幸せだったか。それが一番、気がかりだった」
それは、ここには居ない者へ宛てた言葉だ。だから氷雨は無反応のまま、壷の冷たさに眉を顰める。
浅葱が現世へ現れた氷雨を出迎えず、帰りを待つことが多くなってから暫く。今回もずぼらな身形のまま、喜助の所へ生きているかと挨拶する当たり前を繰り返したはずが、そこで待っていたのは想像していなかった報せであった。
けれど浅葱は知っていたのだろう。むしろ彼女は、最期まで誰にも気付かれないよう心を配り続けた。
氷雨に一通の文を預け、珍しくしつこく喜助へ渡してくれと頼んでいたが、こういう理由だったのかと納得する。
「律儀な奴だ。相談すれば、少しは力になれたというに」
氷雨の姿を見た喜助は、言いよどむことなく開口一番告げていた。「浅葱が死んだ」と――
現世では既に季節が変わってしまっているが、氷雨と浅葱が出会った当時と同じ金木犀の香りがより強い年、その中でも一番の盛りな頃だった。
薄暗い蔵の中、鮮やかな朱色の花が咲いた枝だけが浅葱を見送ったのだろう。傍に落ちており、若々しく滑らかな肌を維持した細い指は、氷雨の刀に添えられていたそうだ。
身体ごと夢境へ届く神の眠りは、確かに浅葱の時を止めた。しかし、それは不老にはすれど、不死にするものではない。周囲が気付かぬ身体の内側が度重なる深い眠りに耐え切れず、回数を重ねれば重ねるだけ衰弱していたのだ。
浅葱とて、命が枯れていくのを悟っただけで、正確に分かっていたわけではない。時の止まりが終わるのだと、けれどそれを尋ねて別れを突き付けられるのが怖く、氷雨に聞けないまま現世へ久しぶりに戻った日に死んでしまった。
薄れる景色の中、それでも最期は氷雨の御許でと一本の金木犀と共に眠る。
しかし、浅葱の予想に反し、死んだはずの彼女は今までと同じ様に夢境の中で氷雨の前に立っていた。
そう――浅葱は現世で死んでも生きている。
それを知っている氷雨にとって、腕の中の骨壷に収まる浅葱こそが、まるで夢のようであった。悲しむ理由も見当たらない。
これからは煩わしい邪魔が入らず、穏やかに浅葱との日々を過ごしながら、これまでと同じ様に加護を与えていくだけだ。
恋敵であった間柄として、果たしてそれを伝えるべきか。浅葱の胸中を推し量れば、わざと教えなかったと知れば悲しむだろう。
仕方が無い。そう思い、氷雨が喜助へ視線を合わせた時、彼は年に似合わない強い力を視線に込めていた。
「氷雨様」
「……浅葱か関わると私が神だと忘れるのだけは、いくら歳を重ねようとも忘れないな」
「無礼は承知。私奴は今も昔も、あなた様の寛大さに甘えているだけにございます。ですが、どうぞ後は御迎えを待つだけの年寄りへ、最後の情けを」
「良い。悔しいが、私は浅葱に嫌われるのだけは困るのだ。だから礼なら、浅葱に言え」
改まって平伏する喜助に落ち着かず、珍しく氷雨が人間相手に押し負ける。そういうところもまた、浅葱に関わる者達を無下に出来ない理由でもあるのだと、本人は気付いていなかった。
そんな神をもたじろがせる浅葱に、喜助は誇らしいような何とも言えない複雑な感情を抱きつつ、その身で背負ってきた責務の重さに相応しい皺が刻まれた顔を硬くする。そして、瞼で隠された瞳を睨んだ。
まさか睨まれるとは考えていなかった氷雨も反射的に対抗する形となり、部屋には突然緊迫した空気が流れた。
その中で喜助が口にした言葉。それは神には永遠に理解できない感情が隠れているのかもしれない。さらに、喜助が妻に対して最後まで抱けないだろうものも込められている。
「私奴はあなた様を、浅葱の……兄として、黄泉の先でもお恨み致す」
「神を恨むか」
「否。浅葱を奪った一人の男として。あなた様が神であった定めを、私奴がとやかく申し上げる資格はない」
そして喜助は、心からの言葉を絞り出した。悲痛に、多くの後悔と共に。年老いた身体での凛とした姿勢を崩しながら、叶わなかった願いを零す。
「けれど浅葱には、現実を生きて欲しかった……!」
その姿はあまりにも眩しく、切なく。氷雨は静かに受け止め、「そういうものか」ぽつりと骨壷へ呟く。
答えが返ってくることは無く、気付けば氷雨は浅葱が生きていることを、喜助へ教えないままであった。
ただ一言、白いだけの骨壷へ、想うがまま自由な花を描いてやってくれと零し、それを喜助との別れの言葉にした。氷雨はそれから彼が逝くまで、夢境から出ることはしなかった。
無礼な態度だと守り神として加護を放棄したりは勿論せず、静かにこれまで通り家は繁栄し続ける。浅葱の名付け子が立派な地主となり、その子供が跡を継ぎ。衰えを知らない家の蔵には、一本の古びた刀と小さな骨壷が常に寄り添い続けた。
まるで骨が収められているとは思えない、鮮やかで美しい金木犀が咲き誇る壷。誰も触ることのないそれの蓋の内側に、どこか物悲しい真っ赤な椿があることは、神ですら知らないままであった。
「人とは、難儀なものだな」
浅葱は生きている。しかし、彼女が再び現世へ現れるようになるには、それに見合う分だけ夢境での世界を経験し、憑代を得られるだけの神聖さを身に帯びてからだ。
それは人にとって、あまりに果てしない時が必要であった。
氷雨が喜助の沈痛な想いへ歩み寄れるようになるのは、出逢いをなぞり一人で鮮やかな朱色と酔ってしまいそうな芳香の中に立った時。その手には、古びて当に読めなくなってしまった文が一通、ひっそりと握られていた。
「一人で見る花ほど、つまらぬものはない」
八百万の神が新たに一人目覚めた日は、花吹雪が舞い温かな陽射しが降り注ぎ、土地が美しく全力で歓迎したそうだ。花の化身、季節の神であった。
――拝啓 まるで氷雨さまの気配を帯びている冬と春の境目、恐らくこれが私が認められる今生での最後の文となるのでしょう。
黙っていて、本当に申し訳ございません。理由を申し上げればきっと氷雨さまに笑われてしまうので、是非とも浅葱らしいと思って頂きたいと、我侭を申し上げても良いでしょうか。
私の人生、いつ、どこを振り返っても氷雨さまが居られます。それがどれだけ誇らしく、喜ばしく、狂おしいか。お前は控えめが過ぎると良く怒られてきましたが、浅葱めでもそんな感情を抱きつつ、氷雨さまのお隣に居たのです。意外だと驚いて頂けたら安堵できるのですが、どうなのでしょう。
喜助さまにお預けしたこの文をお読みになる時にはもう、私は教えて頂くことができない場所へ行ってしまったのでしょうが、知りたいけれど知りなくない不思議な想いでおります。
氷雨さま。あなた様にとって私は、取るに足らない小娘でしかなかったのかもしれませんが、それでも私はあなた様に全てを頂きました。
生きる場所も、温かな人々も、誰よりも愛しいお方も全て。全て氷雨さまあっての宝物です。
氷雨さま。ですからどうか、どうかこれからも、私の我侭をきいてくださるのであれば、小汚い塊でしかなかった私を受け入れてくれたあのお屋敷の時の流れを、これからも慈しんで頂きたいのです。おこがましいのは重々承知。しかし、私は願うことしか出来ません。
家族の居ない孤児だった私にとって、旦那さまはまるで父さまのようで、喜助さまは兄さまのようで。奥方さまは姉さまでもあり、かけがえのない友でもあり。子を成せないまま消える私には、お屋敷を巡る時の流れは何にも変え難いものでございました。
ここまでお伝えしておきながら、氷雨さまの隣に居続けられればと、卑しくも諦めきれない浅葱めを、どうかお許し下さい。
氷雨さまに導かれ知った夢境の世界。私だけが知る、その美しく神々しい双眸の輝き。痛みしか感じなかった出逢いの日に見た黄金の空を、私は一生忘れません。
降り注いできそうなほどの香りの中現れた、少し不思議な風貌をされた氷雨さまから頂いた優しさを胸に秘め、浅葱という素晴らしい名を御魂に刻みながら、最後の眠りを迎えようと思います。
まともにお礼も返せない無礼な小娘のこと、出来れば共に眺めた花の前に立つ時だけで良いのです。どうか、少しの間でも構わない。思い出して――
白髪が滑らかな一人の神に宛てられた手紙は、かつて人だった淑やかな神の想いの塊。氷雨がそれをいつまでも大切にしていると知った浅葱は、頬をまるで雪の中で咲く椿のように赤くさせ、うろたえたそうだ。
そうやって二人、際限なく愛を分け与える神として人に愛されたという。
お粗末さまでした。
通常、『拝啓』で始まれば『敬具・(女性であれば)かしこ』が付きますが、手紙を抜粋したという形ですので、記載していません。
一見、めでたい締め括り方ではありますが、誰が一番切ないかって喜助のお嫁さんです。名前も出てこない方ではありますが、彼女は最後まで、地主の妻にしかなれませんでした。
ですが、喜助は旦那として地位も人柄も申し分なく、彼女に対しても優しさは忘れてません。だからこそ残酷で、苦しみを抱いてしまうのですが、かといって浅葱を恨もうにも、その清廉さを前には無理だという背景があります。
とりあえず、浅葱が悪女になっていなければ良いのですが……。
よければご意見・ご感想をお待ちしております。