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妖 怪 時 雨

作者: 綾無雲井

 ――え。

 君、其処の君だと言っている。

 城島教頭の禿頭が傾いでいく。時に威張り、時に媚びへつらうための頭。キューピー人形とは対角の位置にあるそれが歪な夕刻の斜陽に淡く滲む。

 君は……確か五年生の。下校時刻はもう過ぎています。早くお家に帰りなさい。大雨洪水警報の放送が聞こえなかったのかね。え。

 ――スミマセン。保健室で寝込んでいて。アア、ハイ、もう帰ります。

 少年の顔は覚えられていた。名字が余程印象に残るのだ。

 彼、李浩太は短く答えると教頭に背を向けて階段を駆け降りた。生徒が下校した後の校舎には、妙に筒抜けな音が追従する。昼間の賑やかさは消え失せ、夕刻過ぎれば脱皮した蝉の抜け殻と同様の空気を纏う此処には、しかし何かがまだ入っているような気配が隠されている。まさか城島が尾行してきているはずはないが、浩太は足を速めた。歩けば歩くほどつけてくるのは足音か。

 抱え込んだ運動靴が唯一の味方のようで、心細い。下駄箱を通り過ぎ校庭に出れば空は見事な砂漠色だった。夕日は腐り落ちたのか、黄ばんだ気体が雲を従わせて空を牛耳っていた。カラスの鳴き声も、蝉の声すらない。急に吹いた突風が浩太の両耳で暴れ狂う。吹き荒ぶ気流に逆らいきれず、顔を背けて校舎を振り返れば時代が逆流してしまったように外壁はすべてセピアに翳っていた。

 此処は何処だ。

 まるで知らない施設のようだった。建物につけられた凹凸の影は揃ってその土気色の顔で浩太を観察する。

 唐突な大雨洪水警報。何でこの日に限ってこんなことになってしまうのか。

 ランドセルを握りしめて身体を強張らせる。

 流砂がうねるように雲が移動して、グラウンドに染み渡った雨水が次第に土を変色させる。霧雨から豪雨へ。変色の速度があがり、肌に絡みつく滴が生温かく気持ち悪い。

 唸る雷鳴に別れを告げると、上履きを脱いで事前に開けておいた窓から用具室に飛び込む。

 進入成功。この部屋の鍵は壊れていたはずだ。

 大丈夫、いつでも出られる。

「……腹、減ったぁ」

 校内にはまだ教師たちが残っているかもしれない。電気は点けないでおく。

 埃臭い掃除用具を蹴り倒して自分の場所を確保すると、ランドセルからスナック菓子を取り出して浩太はむさぼった。クラスのムードメイカーである陽一が始めた男子のゲームは、度胸試し。子供だましのお遊びだと思う。それでも順番が回ってきたからには浩太に抗う権利はない。何せ浩太は幽霊という奴らの存在がどうも苦手で、それを知られてしまうとつまりは陽一たちに自分の弱点を教えてしまうことになる。そのうえ、仮にも浩太は新聞係。幽霊スポットに出向くのを拒むなど、誰も許してはくれないだろう。

 ポテトチップスを噛み砕くと、膝に顔を埋めた。

 ガラス窓が変に軋んでいた。断続的にあがるその軋みは何処か不自然で、意識を集中させると鶏の悲鳴を聞き間違えていることがわかった。

 濡れた身体が今更になって冷えてきた。呼吸が荒くなる。

 悲鳴の理由は考えないことにした。


 いつの間に眠り込んでいたのか、辺りにはすっかり夜が沈殿している。耳に触れるのは木々のざわつきのみ。雨は止んだのかもしれない。

 床に手を這わせると無数の感触があった。これは。焦って手を振るが、何のことはない床に溜まった砂である。触らないように注意していたのにと、浩太は顔をしかめた。ことごとく運が悪い。眠ってから何時間経ったのかすら不明なのだ。

「汚ね。……早く帰んねえと母さんに怒られちゃうっつーの。さっさと帰ったほうがいいよな」

 日頃独り言を言わない主義だが、今回に限って試してみた。返ってきたのは暗闇による無言の返答だけで、ますます不気味さが増した。

 埃で汚れたシャツは乾いたようだ。ホッとして立ち上がると何かにぶつかり、大袈裟に倒してしまう。

「……ホウキか。驚かせんなよ」

 鍵はやはり壊れていた。そそくさと上履きを履きなおして用具室を出る。ランドセルから出した懐中電灯で辺りを照らすと、昼に見放されて不健康そうな廊下が浮かびあがった。

「一周したら、帰る。絶対」

 小さく呟いて足音を殺して歩く。教師も生徒もいないから隠れる必要はなかったが、それでもそれ以外の誰かがいたら嫌だった。どんなに努力しても衣擦れと靴の音が響く気がして、浩太は唾を飲んだ。もし誰かがいたら。

 ――そうだ、僕には武器がない。教室のカッターを取りに行こう。それを持って帰るんだ。

 早足で階段をあがり、やっと辿り着いた三階で五年三組の表示が見えた。中に入って、自分の道具箱からカッターを取って、帰る。これからの手順を反芻すると、教室の鍵が用務員によって閉められていることなど忘れ、浩太は急いだ。古びた扉に手を伸ばす。何度開けようとしてもびくともしない扉に、鍵が閉まっていることを思い出しかけたとき。

 眼が合った。

 扉のガラス窓に、異様に大きな眼球だけがへばりついている。此処は鍵が掛かった三階の教室だ。なのに、存在する誰かの眼球――それが浩太を見つめて、俄かに。

「み、見てません見てません見てませんってば!」

 思わず大声をあげ、踵を返すと用具室まで走る。あの目玉が頭にこびりついて離れない。陽一が幽霊を見たとは言っていたが、作り話だと思ったのだ。まさか本当にいるなんて冗談じゃない。身体が重くなる。二階の踊り場を飛ぶように通り過ぎようとした浩太は、次の瞬間慌てて防火扉の陰に隠れた。職員室が開いている。闇のなかに人影らしきものが伺え、なにやら屈みこんで作業をしているようだった。

 助けをこうべきか、それとも。話のわかる先生だったら話しかければいい。教頭ならば逃げようか。

 逡巡する浩太の瞳孔が、信じがたい光景にざわめいた。

 教師だと思われた男性の身体。その体内を通じて教員用のデスクが見える。なにより屈みこんだ彼が力を込める両手の先、其処に納められている頼りない非現実の正体に、次の瞬間気付いてしまった。浩太と同じ年頃の、笑顔を裂かせた少女の首筋。

 足が竦む。奇怪な儀式に強烈な目眩を感じた。事態は進行していく。

 浩太の目の前で、男の両手に針金のような関節が浮かびあがり――そして。

 ぷつん。

 何かが切れたようにあっさりと、少女の顔は浩太の方に傾いだ。生きた少年を認識したその空洞の眼球が、恥じらいを含んだ微笑みに細く線を引く。浅緑の床に吸い込まれるように髪を広げて、愛くるしい少女は、その姿そのままに。

 職員室に招かれるような感覚に金縛りにあった全身が警笛を鳴らした。見てはいけない、逃げなければ。

 急激な危機感を引き金に震える身を無理矢理その場から引き剥がすと、浩太はよろけるようにして階段を駆け降りた。

 用具室まであと少しだ。

 息もつかずに用具室の前に転げでると、扉に手をつき、そしてはたと動きを止めた。

「ちょっ、ウソだろ!? 開けよっ……死んじゃうよっ」

 開かないのだ、用具室が。

 肩で呼吸をしながら扉を思いっきり叩く。

 裏返る叫び。悲痛を背負い込んだ浩太の背中越しに。

 ドウ、シタノ?

 必死の思いに呼応するように、声がした。

「助けっ……ひ」

 走っている間じゅう重かった背中に少年の顔が乗っていた。今にも溶け出しそうなほど青白く透き通った顔に、ちぐはぐに組み合わされた胴体。それがべったりと浩太の背中に貼りついて、接触した一面は浩太の冷や汗とも少年の血液とも知れない液体で濡れていた。そして浩太の緊張は限界に達する。全身に震えが走り、懇願の言葉がその口をついていた。

「も、無理。無理だよ、こんなの。ほんとなんだよ訳わかんねーよ僕だって便所行きたいのずっと我慢してんのにヒドイじゃんかよ! ヤだよこんなの、もう漏れちゃうんだからなぁっ」

 イヤァァァ。

 猛スピードで浩太と距離を取った幽霊の声など聴こえない。

 後から後から湧き出す涙に顔中をぐしゃぐしゃにして叫ぶのに精一杯で、もう浩太はどうしていいかわからなかった。

 ……待ッテ、ヤメテヨ、此処僕ノ陣地ナンダカラサ! スルナラ便所デシテヨ! ネェ、聞イテル!?

 こんなところでされたら堪らない。浩太の喚きに負けじと、幽霊は必死の形相で叫んだ。  

 パイプ管のように大きく浮き出た幽霊の血管。その顔の恐ろしさに浩太は目を見張る。

「こぇえよお前ー!」

 混乱状態に陥った浩太は更に怯え、それが余計に幽霊を焦らせた。

 怖クテゴメン、ゴメンヨ怖クテ。ダカラ。オ、オ願イシマス。用ハチャント、便所デ足シテ……?

 慣れない笑顔で顔面を痙攣させた幽霊の成果が報われたのか、泣き叫んでいた浩太はようやく重大なことに気付いた。

 廊下はトイレじゃない。きちんとしないと、母親に怒られてしまう。

 慌てて男子トイレに走ろうとした浩太だが、あっという間に湧きでた嫌な予感が廊下に足を縫いつける。

「なぁ……、幽霊いたらどうしよう……? 怖くて行けねーよっ」

 浩太から解放されたばかりだった幽霊は凍りつく。

「お前も霊だろっ? 幽霊便所に来ないように、見張っててよぉっ」

 支離滅裂な言葉だが、今はそれどころではない。がくがくともげそうなほど首を動かした幽霊は、音もなく浩太の横をすり抜けて男子トイレの中を確認する。

 誰モイナイ、入レル。

「よし、行くぞ」その言葉に気合いを入れトイレに駆け込んだ浩太は、ふと憑いてきた幽霊振り返った。「その顔すげぇ怖いから、こっち向くの禁止な」

 …………。

 首だけ180度向きを変えようとした彼は、思いとどまって浩太に背を向ける。

 こんなに無駄な動作をするのは生きていたとき以来のことだ。

 人間の少年と、幽霊の少年の間で奇妙な一分が経過した。

「お前……優しいなー。背中は意外と愛嬌あるし」

 尿意も去り、やっと落ち着きを取り戻した浩太は見張りを続ける幽霊の背中をしげしげと見つめ、先程から癖になりかけていた独り言を能天気に漏らしていた。心外な言葉だったのだろう。耳を震わせた幽霊は浩太を睨もうとする。

 あ、でさ。お前、名前は?

 慌てて話題転換に言葉を継ぎ足した浩太は、自らの台詞に後悔することになった。幽霊に訊ねるには些か間抜けなその台詞に、何故だか言われた相手は頬を異様な赤紫に染めて答えていたのだ。

 作田。作田徹平デス。

 

 昨晩とはうって変わって溌剌とした太陽に、対象的にやつれた浩太の顔は照らされている。小学生にとって給食前の四時間目ほど、時間の流れを遅く感じるときはない。おまけにうだるような室温。蒸されたクラスからは勉強意欲なんてものはとうに失せている。鬱陶しいほどにそよがないライトグリーンのカーテンを恨めしげに見つめて、浩太はシャープペンをかちかち鳴らした。今は浩太の得意な国語の時間だったが、女子が教科書を読みあげる声は蝉の絶叫と下敷きが空気をかき乱す複数の音にかき消されている。見回せばクラスの半数以上が下敷きで扇いでいるのだ。

 脳裏に昨夜の眼球が浮かぶ。浩太が苛々とシャープペンの芯を出したり入れたりしていると、隣りの席から指が伸びてきて肩をつついた。

「……なにさ」

「いただろ、幽霊」

 得意げに笑う陽一にシャープペンを握り締めると机に突っ伏す。汗で貼りついた前髪が更に暑苦しさを感じさせた。

「でかい目玉と――職員室のと、六年生くらいのな。最後のはテッペイだってよ」

「……すげぇー。なんだよ、李、名前まで聞き出したのかよ。でっ、でっ?」

 日焼けした肌に健康的な白い歯が眩しい。言葉に熱気を上乗せして顔を寄せてくる陽一はいつだって元気なのだ。幽霊への苦手意識を胸の内に押し隠した浩太は顔を少し浮かせて、ヒヒヒ、と不敵に笑ってみせた。

「別にすごくは、ないけどさ。なんか懐かれちまって。今夜も来てほしい、だってよ」

「マジかよ……!」

「でも僕もう家抜け出せないし。昨日なかなか用具室のドア開かなくてさ、帰るの遅くなって母さんからおぉ目玉。やってらんないよ」

 至極残念そうに続けて教科書に目を落す。五十八ページニ段落目。早苗が蓮華畑に迷い込んで、其処で出会ったお婆さんの家で山菜の天ぷらをご馳走になるシーンだ。「ウコギ、ソバナ、ヨモギにカラスノエンドウ。どれも美味しいから、お塩を少しだけふりかけて召し上がれ」お婆さんが優しく微笑みかけてくれます。その言葉に歩きどおしだった私は心からの歓声をあげました。置いてきた弟のことはすっかり忘れてしまいます。私は行儀よくお箸をとって、塩をまぶしたソバナから早速……。

 其処まで読んだところで、香ばしい山菜の香りは文章と共に浩太の前から消えた。陽一は取りあげた教科書で浩太をはたく。

「オレに任せろ。今晩だろ、連れ出してやるよ」

「はぁっ!?」

 素っ頓狂な声にかぶさるようにして、授業終了のベルが鳴った。


 平柳陽一はとにかく他の子供よりも笑顔と運動量が多い。一つ年下の妹を溺愛していて、女の子への対応も得意とくる。一人っ子でクラスの女子の考えることなんててんで理解できない浩太とは大違いだ。身長順に並ばせれば、常に後方の位置だって確保できるだろう。

 それが陽一のムードメイカーたる由縁だ。本人曰く、対人関係において重要なのは白米の摂取量とそれによるエネルギーの効率的な放出。これを賢く実践してやりゃ、拙者にとって大人を騙すごとき赤子をひねるように容易いわ、と時代劇の悪役よろしく頷いてみせたのが給食時間のこと。彼の自信が間違いでなかったことは、その日のうちに実証された。

「じゃあ、失礼しました」

 浩太の母に行儀よく手を振った陽一は、見事外出権を手に入れた浩太と薄暗くなった歩道に出る。昨晩の台風は跡形もなく去り、辺り一帯に残るのは生温い夜風だけだった。忍び寄る蚊から逃げるように自転車に乗り、ペダルを蹴る。だいぶ家から離れたところで陽一は蚊に刺された腕を掻きながらおどけた。

「夕飯をご馳走になるだろ、米をおかわりしながら食卓を盛り上げるだろ、食べ終わったら食器を片付けて、“おばさん、オレ、浩太君とクワガタ捕まえに行きたいんですけどぉ”って目を輝かせれば万事OK。ヤツらはふつー疑ったりしないからな」

「おかげで外出できた。今僕は猛烈に感動中だよ」

「そうそう、見渡せば広がる夜空。お忍びで会うのは愛しのユーレイ。親に閉じ込められてた李浩太殿は、もっと拙者に感謝なされよ」

 使う予定のない虫捕り道具は、ペットボトルと一緒に自転車の籠で転がっている。

 親からの門限もなく、手際よく浩太を連れだした陽一は道端で見つけた枝を振って上機嫌だ。カッカッカ、と響く高笑いに浩太は力なく笑顔を返すと、自転車のスピードをあげた。二人で競走するように坂を駆けおりていけば、すぐに校舎が見えてくる。自転車を路上駐車すると、決して運動のせいだけとは言えないほど暴れた心臓を押さえ、小学校の裏手に回りこんだ。以前忍び込んだ際、陽一はプールサイドに恰好の抜け道を発見したらしい。ヤブ蚊に襲われながらも何とか学校に侵入する。そして、陽一、浩太の順に用具室の窓に足をかけた。

 来テクレタンダ……。

 途端に出迎えるのは、溶解した寒天を思わせる青白い顔。鳥の産毛のような頼りない眉毛の下で赤紫に頬を染めた徹平の出現に、思わず息を飲んだ浩太は窓枠に足を打ちつけた。

「よ、お前テッペイって言うんだってな」苦悶にしゃがみ込む浩太をよそに、陽一は嬉しそうに話し掛けた。「な、幽霊って、オレたちを呪ったりとかしないのか?」

 僕ハ呪ッタリ出来ルホド、凄イ経験ヲシテ死ンダワケジャナイヨ。……トコロデ、君確カ、コノ前見タ。

 恥じ入るように呟いた後、光を灯さない徹平の瞳は親しげに目尻を緩めていく。雰囲気の変化を敏感に察した陽一は身構え、その対応は功を奏した。警戒した手に腕を絡めようとして逃げられた徹平は、その流れのまま未だ苦悶に倒れこんでいた浩太の背中に貼りつく。どうやら浩太の背中を気に入ったようだ。徹平の息が耳に充満する。

 今マデ……幽霊ニ興味ヲ持ッタ人間ハ、居タケド。僕ニ感心ヲ持ッタ人間ナンテ初メテナンダ。本当ハ驚イテ欲シカッタケド……君ラ、話シ相手ニナッテクレナイ?

「わわわわ、わかったから、背中から離れない?」

 引きつった浩太の声に昨日のトラウマを思い出したのだろう。徹平は素直に彼を解放した。

 浩太はさり気なく部屋の端に後ずさる。そんな友人を気にすることもなく、陽一は徹平に向かい合った。

「いいよ、オレたちは友だちだ。……だけど」

 タダじゃダメだ。友だちになる代わり、テッペイのお仲間について教えてくれよ。

 にやりと白い歯を見せて、陽一は言った。


「だから、ニンテンドーDSだよ、DS。なんだよ、テッペイそんなのも知らねーの?」

 妙にボディタッチの多い友人から仰け反るようにして、浩太は呆れ声を発した。場所は例の薄汚い用具室。何日かに一度、家を抜け出しては徹平に会いに来ている。

 不気味に溶け出しつつも辛うじて人間の姿を留めている徹平は、他の生物や物体に化けることはない。そのため正確には幽霊ではなく、妖怪に分類されるらしい。もっと詳しく追求すれば、廊下の周辺に住み着いた地縛霊。人を驚かせていないと妖怪は自分の存在を保てない。自分が一番怖くないから人間に驚いてもらえるように必死だったのだと話す徹平は、浩太からすれば十二分に恐ろしい容姿をしていたのだが。驚かせたことを謝罪する彼を、浩太は許した。そうしてやっと、学校に愛着があるらしい友人の破顔にも免疫ができてきたが、まだ他の妖怪に対面するまでには至っていない。今後、浩太のなかにそんな度胸が芽生えるかどうかも不明だった。

 デ、デーエス? コレガ、ゲーム、ナノ?

 恐る恐る画面を覗き込む徹平の顔は光にぶれて荒い粒子体のようになっている。浩太は眉をひくつかせながら、ふと首を傾げた。

「もしかして、お前の時代、ゲームなかったの?」

 すると徹平は憤慨する。ちぐはぐの身体を器用に動かして、腕を振った。

 アルヨ、ファミコンガッ……!

「知らねーなあ」 

 更に首を傾けてDSを一瞥した浩太は、なんとなくそれを徹平に近づけてやった。興味津々、しかし多少おっかなびっくりで徹平がスクリーンに触れると、軽い電子音と共に画面が切り替わる。学年が一つ上のはずだが、こういうときの徹平は実に無邪気だ。

 ウワァ。

「すげぇ! タッチスクリーンって妖怪対応かよ……!」

 新たな発見に興奮する浩太と徹平。妖怪の重量でも認知しているのか、次々と切り替わるスクリーンに感動した二人は夢中になった。あぐらをかいて、暗闇のなか唯一の光源を覗き込む。だが、いつもなら真っ先に興味を示しそうな陽一は、今夜何故か部屋の隅で腕を組んでいた。元気で構成された彼には似つかわしくない、愁いを帯びた表情。早くもDSに貼りついて離れない徹平に顔をしかめながらも、陽一の様子が気になった浩太は彼に呼びかける。

「陽一、見てみろよ。面白」

「なあ」

 唐突に発した陽一の真剣な声がそれを遮った。浩太を素通りして向けられた視線。それを感じ取った徹平は、現代のゲームに後ろ髪引かれながらも首を回す。擦れてはいるが、年長者としての落ち着いた声音が先を促した。

「オレの妹、李はよく会ってるだろ? その綾香がさ、どうも城島に狙われてるんだ」

 ジョウジマ……?

 表情を濁らせる徹平の横で、浩太は固まっていた。陽一の家に遊びにいく度に浩太の手を取ってくれる素直な少女、綾香の手を思い出して、頭の中が熱くなっていた。その彼女が、城島に狙われていると陽一は言うのだ。浩太は絶句したまま、陽一の硬い顔を見上げた。

「女子が着替えに使ってる教室あるだろ。二週間くらい前にあいつ、また体操着忘れてさ、オレ、綾香の忘れモン届けに行ったんだ。着替え中に行くのは気まずいから、結構早めにさ。で、綾香が使う場所っての、前あいつが体操着忘れたときに聞いてたから、其処に体操着袋置いて帰ろうとしたんだけど」

 まるで目の前に城島が出現したかのように、陽一は宙を睨んだ。

「なんか妙な音がした気がしてさ。そんときはどうでもいいやって思ったけど、やっぱりなんか引っ掛かって夜出直してきたんだよ、学校に。そしたら城島の野郎があの教室に入っていくのが見えて。あいつウザいから、話し掛けないで尾行してやったんだ。忍び足で教室の扉に隠れてさ、なかを覗いたらあの野郎何してたと思う? 盗撮だよ、盗撮。盗撮カメラを回収してたんだ」

「はぁっ!?」

「ありえねえだろ? しかもそのカメラ、明らかにオレの妹の席に向いてたんだぜ」

 陽一の声は怒りに震えていた。当たり前だろう。溺愛する妹を、あの禿頭に狙われたのだ。実際に綾香だけを狙っていたという確証はないが、生まれつき焦げ茶に煌く髪を持った綾香がクラスメイトにモテているのは事実。禿だのエロだの陰口を叩かれている城島の状況を重ね合わせて考えれば、盗撮疑惑は限りなく黒に近い。

 浩太自身怒りに叫びたくなるのを我慢するので精一杯だった。隣で徹平が身体をカタカタと言わせている。

「陽一、それ誰かに言った?」

「言えるわけねえだろ。城島は証拠隠滅なんて完璧にやってのけるだろうし、どうせ李は校長に相談しようとか言うつもりだろうけどな、大人は子供の訴えなんて、そうそう真に受けたりしないんだ。無駄に綾香を怖がらせるだけだよ。だからオレは、度胸試しを広めたんだよ。夜、校内を生徒がうろついてるかもしれないってのに、盗撮の準備を進める馬鹿はいないだろ? 幽霊とか妖怪とか、そんなのが本当にいるなんて、お前が言い出すまで思ってもみなかった」

 そう言われてみると、確かに幽霊の出現を浩太が告げたあの時、陽一の反応に少しの間があった。その後すぐさま興奮したのは、浩太が名前を聞きだしたからではなく、幽霊が実在したこと自体に驚いたからなのだろう。憤りなのか、身体中を緑に発色させ始めた徹平が低く囁く。

 ソレナラ、僕モ見テタヨ。陽一君ガ、アノ先生ヲ尾行シテタ時モ見テタシ、ソレニ、アノ先生ガ変ナ機械ヲ設置シテタノモ。マサカ、ソンナ事シテルナンテ思ワナカッタカラ。

 妖怪の彼が怒ると凄みがある。強い味方を得たとばかりに笑ってみせた陽一に、徹平は浮かび上がった。

 ダカラ、僕ノ同族ノコトガ知リタカッタンダネ。

 陽一は頷く。

「そう。お前ら――妖怪は、人間を驚かせていないと存在できないんだろ? 浩太が見た奴らとテッペイに、協力して欲しいんだよ。テッペイに会ったあの日から、オレは度胸試しを広めるのをやめてる。今日もさ、城島の野郎、すれ違い様に綾香のこと見てやがったしさ。だから」

 そろそろ城島、動き始めると思うんだ。

 唇を噛んで、陽一は呟いた。

 城島は本当に盗撮だけで満足するのだろうか。生徒として触れるだけでは満たされず盗撮に走った男は、盗撮にも満足感を得られなくなる日が来るのではないか。それになにより、夏が終われば度胸試しなんて妨害工作は通用しなくなる。日々繰り返される女児誘拐殺人事件の報道を思い出し、浩太は震え上がった。もし綾香になにかあったら。陽一の抱える不安が用具室の空気を重くする。

 不安定に張り詰めだした意識に、徹平の声が潜り込んでくる。

 ……分カッタ、持チカケテミルヨ。

 彼は透き通った頬を青紫に染め、指をコキコキと外してみせた。

「それは誠か! テッペイ、かたじけない!」

 みるみるうちに明るさを取り戻した陽一は、脇に立てかけてあった箒を掴んで振りかざす。やっと見せた彼らしい笑みだ。

 それを確認して僅かに息を緩めた浩太は次に来る言葉など予想もしていなかった。

「李、お前にも重要な役目があるからな」

「は?」

 綾香に関わりのあるオレじゃダメなんだよ。

 陽一の高笑いが響いた。


 あいつは時代劇の観過ぎなんだ。

 すでに何度目なのかすらわからなくなっている文句をこぼしながら、浩太は数少なくなった公衆電話のなかにいた。携帯は持たされていない身だ。自宅からはそう離れていなかったが、早くも夜に静まり始めた空の気配に、浩太は身を震わせた。

 陽一の練った計画を聞かされたあの晩、徹平によって無理矢理妖怪たちの前まで連行されたときの恐怖はいまだ身体の中に残っている。半ばひきつけを起こす勢いで妖怪を怖がる浩太は、彼らにとって理想の人間像。君カラノ頼ミナラ……彼ラ、特ニ彼女ハ喜ンデ引キ受ケルト思ウヨ、と職員室を前に太鼓判を押されて泣きそうになったが、綾香のためだと陽一に言われれば、行くしかなかった。

 首絞め男と首断ち少女、単体眼球に会ったときの感触を思い出して背筋が凍る。徹平以外の妖怪とは、どうしても通じ合えない。

 これ以上妖怪のことを思い浮かべないように首を振ると、覚悟を決めて、テレホンカードを公衆電話に通す。

 ――綾香を助けてやってくれよ。

 あの晩聞いた陽一の言葉が浩太の指を動かす。

 手には、首絞め男が職員室で調べた、城島教頭の電話番号が握られていた。

 

 城島貞敏は書類の散乱した自室に籠もり、乾物を肴にこれで通算三杯目のビールを注ぎ足していた。仕事終わりの至福の一時。教頭たるものこれぐらい持っていなければと数ヶ月前に購入した、ロレックスの腕時計を見遣る。この針が後一寸ほど移動すれば、心待ちにしていたサッカーの試合が始まる。贔屓にしている選手が必ずシュートを決めてくれるはずだ。アルコールの力も手伝って最高に機嫌がよかった。今まで中断していた盗撮作業の再開に学校を訪れることも考えたが、日本が世界に名を馳せるこの重要な局面をリアルタイムで観ないなど、城島にとってはただの愚かしい行為である。それに焦って作業を進めようとすれば、隠し通せるものにも綻びが生まれる。綾香は四年生。時間は余るほどあった。

 ピンポン玉のように軽々しく飛び出してくるCMに顔をしかめながらも、サッカーが始まるのを待つ。階下から妻の呼び声がした。

「ちょっとーぉ、生徒さんから電話ーぁ」

 こんな時に。

 舌打ちをして子機を手に取る。生徒には自宅の番号を教えていないはずなので、恐らく生徒の親か何かだろう。教頭の自宅にまで電話をしてくる親にろくな者はいない。話が長引く予感に湧きたつ苛立ちを押さえ込み、愛想のいい声で受話器に向かって応対した。

「えー替わりました。教頭の城島で御座います」

 ――あ。もしもし、先生、助けて下さい……! 僕です、李浩太です!

 李浩太。それは確かに城島の知る生徒だった。唐突な少年の登場に城島は面食らう。電話の向こうからは切羽詰ったような声がまだ何か言っていたが、悪戯なら早く済ませてもらいたかった。サッカーが始まってしまうのだ。

 適当にあしらって電話を切ってしまおうと開きかけた城島の口は、ところがそのまま驚愕の形で開かれた。

 ――女子が着替えに使う教室ありますよね? あそこに、閉じ込められてしまったんです! お願いします、先生しか頼りになる人はいないんです!


 それから三十分後。疎ましいほど広がる暗闇には、一人の足音だけが響いている。サッカー中継を逃した城島は、懐中電灯の放つ小円の明かりを頼りに、築三十五年、歴史だけを取り得とした小学校の階段を黙々と上っていた。ブレーカーの接触具合が悪いのか電気がつかず、そのうえ児童用に造られた階段の一段一段は低いが長く感じられる。一歩踏み出すたびに苛つきが増す。学校へ向かう車中で何本煙草を潰しただろうか。今日ばかりは、毛髪の絶滅危機を囁かれるその頭を掻き毟りたい気分だった。彼にとって、周到に立てた計画を他人に邪魔されることが一番の屈辱である。普段なら簡単に跳ね除けていたであろう子供の戯言を受け入れてしまった事実に、広がった苦渋が残留する酔いを滅却していた。

 女子が着替える教室に閉じ込められた――電話の台詞を思い出して、城島の心臓は大きく波打つ。

 李浩太は確か綾香の兄と友人関係にあるはずだった。城島の行為に勘付いた可能性は高い。何かを企んでいるのか、それともただ綾香の騎士にでもなったつもりなのか、それは会ってみれば判ることだと城島は考えた。どの道機材は回収してあるのでそう焦ることはないはずなのだが、だからといって安心することはできなかった。階段を一段あがるごとに、心臓の鼓動は速度を増した。

「おい、李。何があった、其処にいるのか?」

 目的の教室に辿り着き、ドアをノックする。返答は無し。

 もう一度ノックしてから扉に手を掛けた。しっかりロックされている。

 ただの悪戯。その予測が脳を支配し、今までの不安はあっという間に怒りへと変わった。大人を嘲笑う子供ほど嫌いなものはない。

「おい、聞いてるのか李! 返事をする気がないならもう帰るぞ!」

 怒鳴り声は虚しく反響する。

 このことは明日にでも李浩太の両親に報告させてもらおうと、城島は手にきつく懐中電灯を握り締めて扉に背を向けた。

「――待ってよ! お願い、助けて!」

 浩太の悲鳴が割れるように響いた。ただごとではない空気に、城島は慌てて振り返って扉を叩く。冷や汗が噴き出た。我が校の生徒に何かあれば責任問題は免れ得ない。

「どうした? おい」

 しかしこれも悪戯ではないのか。頭の片隅で囁くもう一人の自分の声に従い、彼は努めて冷静な声で言った。懐中電灯を扉の窓にあてがい、中を覗き込もうとする。

 其処に、眼球が照らし出されていた。

 お願い……助……。

 少年の声が次第にかすれるなか、眼球の瞳孔は急速に開き、血液がほとばしる。

 懐中電灯が音を立てて落ちる。逃げようとしたが、身体が動かない。

 過呼吸に唇を震わす。

 扉が。

 開いた。

 李、と紡ごうとする。言葉をなさない息となって、喉を抜けた。

 闇が靡く。確か綾香の席があった辺り。 

 何かが、口を歪めて小さな首を握りつぶしていた。もはや原型すら留めていない、昔は人間の身体であっただろうそれ。

 霊体だ――元教職者の男は、人間であった頃の理性も消え、屈折した欲望のまま少女の首を絞め続ける。

 常識では測れない。思考することを放棄した城島の視線は、危険を叫ぶ自身の心にも気付くことなく、男の手が掴むものを捕らえる。

 綾香だ。

 あれは、綾香だ。

 彼女のお気に入りのリボンが、発光するようにして床に蛇行している。乱れた髪は暗闇に支配され、それが小さな顔を覆っていた。

 城島が叫ぶ。男の腕からは針金のような関節が浮き出し、少女の首はあっけなく転がった。

「ね、城島先生。なんてことしてくれたんだよ?」

 これは綾香の兄の声。その声と同時に浮かび上がった少年の影が、少女の首を抱いて男を見上げ、口を開いた。

「なんで綾香を殺したんだよ? ねえ」

 影は男に問いかけると、首を回して城島を見た。

 恐怖が身体に駆け巡る。李浩太のことなど頭からすでに吹っ飛んでいた。ただただ城島は、その場から逃げた。

 命辛々車を走らせる。帰宅早々妻の声に怒鳴りちらすと、すぐさま李浩太と平柳陽一の自宅に電話をかけたが、彼らはずっと家に在宅していた。綾香も自宅にいる。李浩太に至っては、電話をかけた覚えもないと言う。足元から寒気が走り、城島は崩れ落ちた。


 カッカッカーッ!

 蝉の声が降り注ぐ正午。その大合唱をも凌ぐほどの元気な笑いが住宅街に木霊する。

 大口を開けて高笑いを続ける陽一を睨みつけながら、浩太は自転車から降りた。今日は土曜で学校も休み。陽一の家に遊びに誘われている。

「ほんとーぉに、陽一、抜け目ないよな。妖怪たちの前に連行されたときに、僕が叫んだ声を録音してたなんて」

「なかなかリアルな声が録れただろ? 『待ってよ! お願い、助けてェェエ!』ってな」

 陽一は浩太の真似をしてみせる。

 浩太は顔を真っ赤にしながら、うるさいよ、と言った。

「でもま、オレは自分の台詞とお前の台詞、その場で物陰から言うつもりだったから。テッペイがオレたちのアリバイを気にしてくれたからこそ、『まさかの妖怪対応! DSで録音した音声をテッペイに再生してもらおう計画!』を思いついたんだし」

「そりゃあ、家にいたお陰でアリバイもできたし、疑われずにすんだけど……なんていうか、僕で遊んでない?」

 浩太の反撃に軽く肩をすくめると、彼は門のなかに入ってしまった。

 憮然としつつも慌てて後を追う。陽一の手がひらひらと泳ぐ。

「いんやぁ? もちろん、テッペイはすごいさ。怖さには欠けるけど、判断力もあるし、綾香のリボンの下であれだけ手際よくDSを操作したんだからな。そんで、あんだけ緻密な計画を立てたオレも、かなりとんでもすごい。でもな、特にカッコよかったのは李だ」

「へ?」

 きょとんとする浩太を背に、自宅の鍵を開ける。

 城島をおびき寄せる電話をかける際、その役として抜擢されたのは浩太だった。綾香の兄、陽一が電話したのでは綾香自身が策を講じているのではないかと疑われる可能性もある。そうなると陽一の計画が失敗した場合、城島が彼女にどんな仕返しをしてくるかわからなかった。だから綾香と少し離れた位置にいて、尚且つ城島に名前の覚えられている浩太の出番となったのだ。浩太の電話から綾香の関与を結びつけるのは難しい。事実、電話などかけた覚えがないとしらを切る浩太に、城島は二の句が告げないでいた。完璧に煙にまかれたようだ。

 それにしても陽一の生真面目な賛辞はくすぐったく、なんと返していいのやら戸惑っていると。

「お前の交渉術には恐れ入ったもんな。あの妖怪たちが、まさかあそこまで協力的になってくれるなんて。後でテッペイから聞いたけど、お前ションベンで妖怪に勝てるらしいじゃん? マジすっげぇ」

「な……!」

 からかうような陽一の声。なんということか、よりにもよって徹平はあの晩のことをばらしてしまったのだ。

 目の前の背中に思わず石でも投げてやりたくなったが、それより先に彼はドアを開けて振り返る。

「入れよ。綾香が待ってるんだ」

 小憎らしい背中が兄の温かなものへと変わる。小さく溜め息をついた浩太は、観念して玄関からあがりこんだ。

 出迎えてくれる冷気がなんとも心地いい。勝手知ったるなんとやら。相変わらず快適なこの家には、飽きるほど遊びに来ている。スリッパを借りて子供部屋に向かう。どうやら陽一の父は不在のようだった。いつも真っ先に出迎えてくれる彼のことを思い出しながら歩いていると、一足先に階段を上がり始めていた陽一が、唐突に手を叩いた。

「よし、綾香にテッペイを紹介しよう」

「いや怖がるよ!?」

 驚きに裏返った抗議にも、陽一はクスクスと笑って耳を貸さない。そのまま階段を上りきり、廊下の突き当たりの部屋へ向かった。

「大丈夫、綾香はお前と違ってユーレイ好きだ。それに……」

 陽一の囁きが終わらぬうちに、子供部屋の扉が開かれた。

 廊下で話す声に気付いたのか、薔薇色の頬をぱっと輝かせた少女が駆け出してくる。その勢いのままに浩太の手をひいた。

「いらっしゃい、浩太君! 散らかってるけど、入って、入って」

「あ、お邪魔します」 

 いつもよりテンションの高い綾香に多少戸惑いつつ、子供部屋に入る。陽一と綾香、兄妹で共有する部屋は、大部分が兄の物で埋め尽くされていた。月刊の漫画誌が今にも崩れそうな塔を作り、その周囲にはトラップのつもりなのか、ゲームカードやら開けっ放しのCDケースやらが縦横無尽に仕掛けられている。呆れとともにそれらを眺めた浩太は、綾香の勉強机に載った一枚のプリントに目をとめた。

「あ、あのクラス新聞、浩太君が書いたんでしょ。……実はね? これ、学校中の女子がこっそり回し読みしてるんだよ」

 大切な秘密を打ち明けるように、綾香は声を落してプリントを握り締める。

 首を傾げた浩太は、自分が書いた記事の内容を思い起そうと挑戦した。

 『城島教頭、原因不明の頭痛で一週間の欠勤』のことだろうか。

 あの一件から寝込み続けて一週間、やっと職場復帰を果たしたもののまるで別人のように生気の抜けた城島の姿が脳裏に蘇る。綾香から逃げるように、少女を殺すかもしれない自分の未来から守るように、彼は女子生徒を避け始めている。確かに城島は生徒から嫌われているが、学校中の女子が記事を回し読みしてしまうほど彼の知名度が上がっていたなんて初耳だった。首を捻り続ける浩太の横で、何かを知っているらしい陽一は含み笑いをしている。

「皆はでまかせだって言うんだけどね、わたしは浩太君がウソを書かないって知ってる。ね、この新しく広がりはじめた怪談、ほんとなんでしょ?」

 ――あ。

 やっと思い至った。綾香の握るプリントには、確かに浩太の書いたその記事が載っている。

 見出しを確認して綾香の表情に注意を向ければ、彼女はより一層嬉しそうな顔をして、夢見るように言った。

「女の子に危険が迫ったとき、それを脅かし、追い払ってくれる妖怪が現れる……、紳士だなぁ。わたし、幽霊ってもっと怖いのかと思ってたけど、浩太君が書いたような妖怪さんなら会いたいな」

 期待するような瞳。彼女ならすぐに徹平と打ち解けてしまいそうだった。それはそれで面白くないのだが、妖怪の存在を信じて疑わず、一心に浩太を見つめる綾香に根負けしてしまう。どうも浩太はこの兄妹に弱いようだ。

 仕方がない。

「紳士って言っても、ボディタッチの激しいヤツだけどな」

 唇の端をつりあげてみせた浩太に、綾香と陽一は吹き出した。


ここまでお付き合い頂いて、ありがとう御座います。

作者の綾無雲井です。(※アヤナシ、クモイと読む)

少し言い換えてしまえば、アヤシイキモイになるこのPN。

この名前の方が余程ホラーかもしれません。


さて、今回の作品『妖 怪 時 雨』ですが、私が所属する作家サークル『言φ葉』の夏季限定企画に書き下ろしとして執筆させて頂いたものです。

ホラーを書くのは初めての試みでしたが、執筆している間、ただただ楽しかったです。

久々に自分の持ち味を思う存分発揮できた気がします。

子供が活躍して、おバカな展開になるお話が好きなのですね。おどろおどろしいはずのホラーがいつの間にかコメディーになってしまいました。

浩太は芸術的に怯え、陽一は小癪なまでに企み、徹平は怯える浩太に頬を染める。

各自思い思いの動きで創った物語が、少しでも読者の皆さまのお口にあっていたら幸いです。


感想批評、お待ちしております。

≪2006年9月7日。自宅にて≫

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― 新着の感想 ―
[一言] すごく面白かったです。 ってか妖怪たちより教頭が怖くてキモくて面白かった。笑
[一言] 続編に期待します
[一言] 冒頭ハ、少し面白そうでシタ。状況が把握しにくいトコロガありまシタ。こういう話にしては語り口が古臭い印象デス。
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