陣
ざらざらした石材の床に膝をついた。元は美しい白だったのだろう床は、赤黒い液体まみれている。陣のところもだが、陣の無い場所も飛沫が散っている。
陣の上に更に新たな陣を描く為に、先ずは必要な情報を頭の中で整理し、描く陣の姿を明確に意識する。
本来、陣の書き換えは大きな下準備と、莫大な魔力が必要になる失われた技術の一つだ。
先ずは特殊な材料で作った薄い紙に変化させたい陣を描き描かれている陣の上におく。陣によって個数は変わるが特殊な液体を染み込ませて魔力を十分吸わせた香木を決められた場所に置き、焚く。空間全体の魔力を高め、呪文を唱え続ける。大体1日くらい、不眠不休で。しかもその間魔力を流し続けなければならない。対象にもよるが、基本的に多くの魔力を消費する。
因みに、書き換えは大昔に悪魔を召喚しあって人間が闘っていた馬鹿な時代に編み出された。相手の悪魔を奪ったり送還したりするために開発された術だ。
失われた理由は、魔力の消費量が多すぎて使える人間が早々居ない事(複数人では術が発動しないから、一人で行わなければならない)と、悪魔を使用しての戦争を条約によって禁止したからだ。それから段々と廃れ、今ではやられた事のある悪魔でもないと知らない様な術になってしまった。
薄暗く、陰湿な室内に満ちていた濁った空間魔力に僕の魔力と云う風を送り道筋を作る。例えるなら、埃を指で拭うとか、船の通った後の水面とか、そんな感じ。空間魔力だけじゃなくて僕の魔力を徐々に徐々に混ぜ込み道筋を作る。それに比例して魔力濃度を上げて行く――上がっていってしまう。
歯を食い縛って耐える。
道筋が徐々に魔力によって形作られていく。……いや、道筋、と云うよりも、軌跡の様な物か。
此処ら辺に漂う魔力は自らの意志を持っているわけじゃない。意思を持つ魔力も勿論いるけど、こんなちんけな場所にはいない。唯、世界を形作る為に、此処にいる魔力は存在する。それは塵芥や僕らと同じ。
彼らには進行方向の解らない、唯在るだけの道を示す(魔術式を描く)よりも、矢印付きの軌跡を示す方がずっと上手く動いてくれる。そして流れ出したその軌跡に更に自身の魔力を付加させ速度を速度を徐々に上げる。
少しずつと意識しても、やはり上手くいかず、一気に厚みが増えた。慌てて薄く延ばして空間魔力の動く速度をもう少しだけ上げ、僕の魔力を拡散させてから、また流し込み始める。
一定の早さで、大きさで、質量で、魔力を動かす。秩序立っていて、精密な動き。全てを意志と思考で制御し、部屋に満ちていた停滞に緩やかな変動を与える。段々と、金糸雀色に光出し、元あった赤黒い陣が変化していく様子に、笑みが洩れる。
まるで悶えるかのように抵抗し、歪み、金糸雀に取り込まれていく。
人間界は楽しかった?でも、そろそろお帰りの時間だよ。
駄々捏ねてないで早々に屈服すると良いよ。そうしたら、御互いすぐ終わるから、楽でしょ?
僕は自分の中で高まる魔力を、先ほどよりも慎重に金糸雀色に綻び始めた陣に溶かし込む。
少しずつ。ゆっくり。何度も唱えながら荒れ狂う流れを押し留める。
荒れ狂う力の本流を己の中で塞き止め、床に触れる掌と陣との間に細く細かい“糸”を作る。切れない様に、爆発しない様に陣を強化しながら、規則的な動きになるように助け、魔力の流れを補足する。
僕の意志に応えて線が浮かび文字が揺れ宙を舞う。陣の書き直しだが、先に魔術式の文字からだ。陣と分離し書き直す。“糸”で自分の魔力の流れを助けしながら歪んだ曲線を描き直す。この陣によって呼び出された悪魔を探索する魔術式も展開する。この為に書き直したのだ。やっと本題に入れるってもんだ。
君は今何処に居る。
「答えろ」
陣が少々抵抗を示す様に揺れたのを感じ、嗤う。
その程度で、僕に勝てるとでも?僕をやり返したいならあと500年くらい魔界で修行してくるべきだ。僕が強いんじゃない。僕は唯の、自分で自分の事も考えられない馬鹿で愚かで臆病な子供だから。
単純に、君の努力が足りないんだよ。出直して来て。
術式が、陣が混ざり合い線となり三次元の立体的な物体となり、宙を舞う。ぐるりと円を描いて乱れて捻れて雑ざりあ合う。そして、雑ざり合う度合いに比例して僕の中が掻き乱されてゆく。身体の奥から形容しがたい色んなモノが出てきそうで、奥歯を噛み締めて耐える。此処まで来て魔力量が多すぎて陣を壊した、だなんて笑い話にもならない。
一定の量で。少しずつ慎重に。やり過ぎると陣が壊れるから、落ち着いて。
「終わりはは美しく……いきたいも、んだね……」
独りごちて、更に魔力を送った。少しだけ、ほんの少し。水滴から、雫ぐらいにイメージを変化させ、陣の中へ送り込む。金糸雀色から血の様な深紅に変わった光に僕は笑みを濃くする。
――釣れた。
本来の陣を再構成しながら“移動制限”を付加するために魔力を流し込む。慎重に、ゆっくり。朝露くらいの少なさをイメージ。蛇口は緩めすぎない。寧ろ、殆ど閉まってるくらいで良いんだ。それでも多いくらいなんだ。
「クェイ、もうやめな!」
「云われなくともっ」
零れ落ちていた魔力を、自身の中に無理やり入れ込む。逆流しそうになって思わず咳き込む。口許をしっかり抑え深呼吸。吐きそうになったのが魔力なのか胃の内容物なのかは解らないが、どちらにしても陣が台無しになる。魔力なら無理に締めた意味が無くなるし、今回頑張ったのがパーだ。後者は僕の尊厳と、陣が吐瀉物のせいでまた描き直しになったらそれこそ色々吐く。
折角此処まで頑張ったのに。気を付けなきゃ。
僕が若干嘔吐きながら踏ん張っている間にも、陣と魔術式は再構築されていき光りも深紅から金糸雀色に戻っていった。殆ど終わった様な物だ。
ふぅ、と溜息を吐いてから4つの厳しい視線に背筋が冷えた。
……いや、あのね、僕も嘔吐いたのは不格好だったと思いますよ。
でも、ちゃんと色んな手順を踏まえて行うべき再構築を此処まで強引に且つ素早く行えた僕を褒めてくれても……。
……心の中の云い訳ぐらい許して下さいよ、師匠。先生も。なんで更に睨んでくるんですかやめて下さい。2人して何の相談してるんですかちょっと。
根性が足らないは百歩譲って解るとして特訓って何ですか本当にもう勘弁して下さい。
僕はこれから後の見たくない現実をシャットアウトした。集中が切れる。もう切れかかってたけど。
……気を取り直して真面目に、未だに徐々に収まって行く光の粒子を見据える。すると、収まりかけの光が陣の中からの力で少し粒子の軌道が乱れた。
ハッ、と嘲笑。
随分と今更だね。若い悪魔だから仕方ないのかも知れないけど、もう少し早く行動した方が良いよ、君。
君はもう僕が握った。諦めて、大人しく従ってなよ。
意識を集中させ、異物を消しさる。
乱れた粒子はすぐさま元の動きに戻り、秩序回復。パタタ、と床に落ちた汗を拳で拭い、其処に気合を入れて拳を叩きこむ。最後の一文字が床に張り付き、魔力の流れがふつりと途絶えた。
僕は漸く尻餅をつき、がくりと項垂れた。
キ、
キツかったあああ!
久々に危うかった。やっぱり大掛かりなものは事前の準備が必要だ、うん。
自分なんかの力を過信してはいけないね。これぐらいならいけるかもとか思ったのが良くなかった。まぁ、ストッパーが後ろに居るからこその暴挙なんだけど。
師匠達(事後処理班)がいるからこそ行えた。決して一人でこんな事を行おうと思う様な愚か者じゃないよ、僕は。
僕が座り込んで自分で自分の肩を揉み凝りを解していると、師匠は僕を通り過ぎて陣をメモ用紙に写し取る作業に移った。
此処ある陣をメモに写し取った陣に“反映”させて持ち運びを楽にするのだ。
先生は先生で地図と照らし合わせて移動範囲の計算をしているみたいだ。そりゃあ、2人の事だし期待はしてなかったけど、なんか一言ぐらい云ってくれても良いんじゃないかな。
お疲れとか、まぁまぁだとか。別に褒めて欲しいわけじゃないけど、労いみたいなのがあっても良いんじゃないかな……?
……今更2人に期待なんかする僕が馬鹿なのか……?
いや、そんなことない。希望を捨てるな僕。昔は優しく丁重に扱って……扱って……扱って、もらった事、ないな。
そうだ、師匠に至っては初対面でぶん殴られたんだった。
僕が諦めて自分で自分を労っていると背後で展開に置いて行かれていた人達が騒ぎ始めた。
「なん、だ……今のは……!」
「今、今の、今の召、術、魔じゅ、力……?姿が、あ、え?あ、は?……ええええぇぇ?」
皇子と案内役の人が何か云ってるけど僕は特に気にしない事にした。訊かれたら最低限だけ答えよう。
無事に終わった事だし、良いよね。僕は役に立った。
此処からは師匠達に付いて行って、悪魔に会って、話聞いて、それから殺せば良い。望めば送還してやれば良い。どっちにしろ、会えば終わる。会って情報を得られればラッキー。過度な期待はいけない。アイツらの言葉を鵜呑みにしてもいけない。全く面倒だけど、仕方が無い。そう云う奴らだ。
ずんずん近付いて来る気配がしたので立ち上がって背後に向き直る。
厳しい顔をした皇子は僕よりも頭半分ほど高く、少々見上げなければならなかった。
……地味に悔しい。
「貴様、何をした」
「ご覧の通り、悪魔の居場所の特定を」
皇子は書き換えられた陣を見て顔を顰めた。
「余はその様な事はどうでも良い。あの姿は何だ。貴様、悪魔持ちか?かなりの深度の様だが?」
「それほど深いものでもありません」
げ、姿が変わってたのか。僕は答えながらゆっくりと礼をした。
深度、と云うのは魔族、もしくは悪魔の魂との混ざり具合の度合いの事だ。これが高まると相手と同化する。50年ほどしか生きられない人間の魂は、悪魔や魔族と比べて弱い。だから完全に同化すると人間ではなくなり、悪魔や魔族もどきになる。詰まり魔物だ。知性があり力も強く魔力も強い魔物は、大抵元人間だ。
僕は同化なんか死んでもしたくないから色々対策をしている。深度は寧ろ低い方のはずだ。
僕は頭を下げたまま同化した場合を考え、眉を顰めた。
絶対に、嫌だ。アイツと同化なんか、死んでもい・や・だ!
まだ何か云おうとしている皇子の言葉を遮って、情けない悲鳴が上がり、壁に張り付いた魔術師の喚き声が響いた。
「化物め……!皇子に近寄るな!穢れてしまう!皇子、その化物の傍からお逃げくださいっ」
「ちょっとアンタ、黙んなさいよ」
「師匠、構いません」
「どうせ、化物ですから」
なりたくてなったわけじゃないけど。