大きな木の下
あぁ、平和だ。
僕は庭に在る大きな木の下に寝転んでいた。
暑い空気の中を清涼な風が吹き抜けていく。僕は木漏れ日の下でうっとりと風と木の精霊が歌っているのを聴きながら合わせてハミングした。だんだん兎や栗鼠達が集まってくるのでみんなでうふふあははとじゃれあう。
なんて和やかなんだ。例え今、僕が嫌いなヒラヒラビラビラした服を着させられているとしても、それで構わないと思えるくらい、平和で平穏で素晴らしい時間だ。何よりも傍に知らない人間がいない。気を張っていなくても良い。なんて幸せなんだろうか。
老後はこんな生活がしたい。この老後は学校を卒業したら、と同義である。
卒業したら山の裾野、もしくは山の奥深くに籠るんだ。隠居、隠遁、なんでも良い。人と接さないでいられる場所まで逃げたい。結婚?なにそれ美味しいの?そもそもこんな人嫌いの僕が結婚なんてできると思ってる?適当な事云っちゃ駄目だよ。失笑されちゃうよ。
僕はあのコンパートメントで時に険悪に、時に邪険にされつつ男3人に睨まれながらも終始和やかに約1時間を過ごした。
ジェロンドの第2皇子は一回王都に行って国王陛下に挨拶してから何泊かして国に帰るそうだ。「共に一つ屋根の下で起居しようぞ」などと云って他2人からものすっごい嫉妬されてたけど、今まで君達一緒の寮に居たよね?しかも結局国に帰るからジェロンドの皇子が一番不利なんじゃ――いや、だからこその牽制なのか。
恋する女も十分面倒くさいけど、恋する男と云うのも面倒くさいもんだなぁ。
そんな仲の良いんだか悪いんだか解らない王女パーティーと別れ、4時間ほど列車に揺られていると僕の家のある領地の駅に着いた。煉瓦造りの駅舎を出ると既に家の者が居て僕の事を待っていてくれた。
髭も無ければ髪の毛もない……それこそが男の一番の御洒落だと語る彼は、被っていた帽子を脱ぎその一番の御洒落だと云う頭を白日の下に曝し臣下の礼を取った。あまり嬉しい事ではないけれど僕は静かにそれを受け入れる。彼は御者や厩で働いている者だが僕の乗馬の先生でもある。僕は教え方が上手く馬の心の機微を魔力が殆どないにも関わらず見抜く彼をとても尊敬しているから、本当は臣下として接して欲しくなんかない。お互い立場があるから受け入れるけれど。
頭を上げてきっちりと帽子を被りキャリッジの扉を開ける彼に声を掛けた。
「ただいま。みんな元気かな」
「お久しゅうございます。クェイルーア様もお元気そうでなによりでございます。みな元気でございます。あなたさまの御帰りを今か今かとお待ちしておりますよ」
「そっか……解った。それじゃ帰ろう」
本当にそこまで待ち望まれているかは置いておいて、歓迎されている場所に迎えると云う事は幸せな事だ。それにしても、みんな元気なら取り敢えず一安心、である。
僕の家のある地方は、涼しい地域である。とは云え、夏はやはり暑い。その為老人や女性、子供の中には体調を崩す者も多い。先週手紙を貰った時に健康面での不安のある者は使用人含め居ないと書いてあったので大丈夫だろうと思ったが、もし急に体調を崩している者がいるとするならば――待っていてくれた彼には非常に申し訳なく思うが――馬車を置いて家まで一度“転移”するつもりだった。マニュアルだけでは面倒を見切れない症例もある事だし、治せる人間が治しに行くのがやはり一番だ。僕は精伝令だから魔術でさっくり治せるし、一応医学の心得もあるから薬も処方できる。僕の家の近くには常駐の医者がいないので少し心配だったが、今のところ誰も体調を崩していないのならのんびり帰っても大丈夫だろう。
そんなわけで長閑な田園や放牧の行われている一帯を通って普通の帰り道で帰る事にした。用意されていたクッションがわんさか積まれたキャリッジに唯乗っていても楽しくないので、一緒に僕も御者の真似事をしていると1時間ほどで屋敷に辿り着いた。
流石に御者の真似事をやっているところを見られたら2人して怒られてしまうので、僕は門が見えてきた時点でキャリッジの車室に入っておいた。
門にまでわざわざ出迎えに来てくれていた世話係に満面の笑みで出迎えられ、窓を少し開け手を振って応える。その際に何食わぬ顔で使用人達の前に出た僕を馬術の師にジト目で見られたけれど、人間社会で生きていくには大なり小なりそれなりの演技は必要だ、と気に止めない事にした。キャリッジの車室から出る際にまだ幼さの抜けきっていない使用人に足元にステップが置かれ、それを使ってゆっくりと降りる。
僕が降りた途端揃って頭を下げて出迎えてくれる彼らに、僕は漸く少々ぎこちなかったかもしれないが数年ぶりに笑顔でただいま、と云えた。
ここ数年、まともに頭を下げる彼らを視界に入れる事が出来なかったから、これは大きな進歩だと自分で自分を褒めておこう。彼等も承知していてくれただろうけど、仕事とは云え、きっと嫌な思いをしていただろうから、双方にとって良い事だ。そも、挨拶に挨拶で返せなかった今までが良くない事なのだ。僕の覚悟が足りていなかっただけなのだから。
それからは父や母や弟と対面して、先に御着替えをお願いしますと侍女や執事達に泣き付かれたので準備を頼む事にした。母が隣で頷いているのを見て半信半疑になる。母は母で超少女趣味なのだ。僕とは相容れない。しかしそれにしても、そんなに変な格好だったかな。白の綿シャツと草色の、麻の吊りズボン。余計な装飾とか無いし、気に入っていたんだけど。まぁ若干丈は足りてなかったかもしれない。でもそれは成長期だから、仕方ないよね?
本当は誰かに世話をされるのは――特に女性にされるのは――嫌なんだけど、それが彼女たちの仕事だし、僕も長い間一緒に居たからそれなりに、若干、なんとなく、耐性も付いている。気がするし、大丈夫多分。
それに何と云っても僕なんかの事を屋敷の人間として世話をしてくれているのだ。そんな皆が家に帰って来た途端に「お願いします」と額を床に擦りつけるような勢いで頭を下げてきたのだ。もう文句なんて云えないよね?
……確かに、前に実家に居た時はそれでも渋った様な気もするけど。離れていた分、僕もなんだか絆されてしまったのろう。解ったと一言返事を返して大人しく彼女達のされるがままにされておいた。その事に侍女達は歓喜して(涙を流していた者もいて流石に若干引いた)僕をあれやこれやと飾り立てた。
飾り立てられるのは疲れるし人の手に一々ビクついちゃうから苦手なんだけど、仕方がない。
……それにしても爪を磨かれたり髪を編み込まれたりするのなんて何時振りだったろうか。
身形をちゃんと年頃らしく整えた僕の姿に、父と母は涙を流して感動していた。……これからはもう少し、もう少しだけ、着飾られるのも頑張ってみようかな、とちょっと罪悪感に襲われた。人にやられるのが嫌なら、自分でできるように少しだけ練習しておこう。そうしよう。
弟も「綺麗でカッコイイ」と云ってくれたし、実家の料理は変わらず美味しいし、部屋も出る時と変わらず綺麗に掃除されていたし、読みたかった本を父が買っていてくれていたし、誠に至れり尽くせりな実家暮らし初日に、僕は大大大満足だった。
解っていると思っていたけれど、やっぱり離れてみると改めて家って素晴らしいなぁとしみじみ感じた。魔力の動きのパターンを全員分ほぼ覚えているから入れ替わられていたら直ぐに気づけるって云う安心感も良い。それでも警戒は若干しているけれど、学園なんて本当に……もう不登校になりたい。帰ってそうそうだけどまた戻る事を考えていたら気分が駄々下がりだ。
落ち込むと周りの精霊が心配そうに僕の顔を覗き込んで来た。大丈夫だよと土の精霊の頭を撫でて裾に付いているレースやフリルに思わず顔を顰めた。母の趣味だ。いや、最近は使用人の女性達の大半が感化されて少女趣味になってきたから家の女性陣の大多数の意見でなんだろうけど。
弟も女の子みたいな服を着せられていた。辛うじてズボンだから良いが、チュ二ックなんか履かされた日には女の子にしか見えなくなってしまう。夏休みの間は僕が守るとして、僕がいない間守れるのは父を筆頭とした男性陣だけだが、彼等は弟にメロメロだから駄目だ。どんな格好でも受け入れてしまう。
弟を着飾るのは解る。人形感覚なのだろう。可愛いお人形に可愛い服を着せてさらに可愛くしたいと云う、実行している人達も周りも癒される正の連鎖だからまだ良い。でも僕を着飾らせたって何にもならないからやめれば良いのに、と思うと溜息が零れた。少しだけ憂鬱になって僕は目を閉じた。
解ってる。僕が着飾った人を怖がるから、それを緩和させようとまずは僕から着飾らせようって思ってくれている事も、年頃だから着飾らせてあげたいって云う正直僕からしたら有難迷惑の極致的な事を思ってくれている事も。皆の気持ちも、行為も嬉しい(いや、若干迷惑なところもないこともない)けど、でもそれに応えられない。僕は臆病な僕が嫌いだ。
応えたい。そんなのもう心配しなくても大丈夫だよってそれこそアルさんみたいな、何の害意も感じていないのほほんとした笑顔を作る事が出来れば、皆に余計な心配をかけなくて済むのに。全部隠して覆って微笑めたら良いのに。解ってる、はず、なのに。
どうしても、どうしても、怖い。ぎゅっと胸を抑える。その下に在る鎖がシャラリと音を立てた。
どうしても、何年経っても、忘れられないほどの強烈な痛みに怯える。もう来る事などないと解っていても、それでも怖いと思う僕の臆病さと、脳の足りなさにはほとほと呆れ果てるけれど、でも僕なんかじゃどうしようもできないんだ。
ぐっと目を瞑って思いっきり上体を起こす。
僕の様子を覗き込んでいた小鳥達が驚いてバサバサと飛び立って行った。ごめんごめんと謝ってお腹の上に居た兎を撫でる。
僕はアルさんじゃないのだから、アルさんの模倣をしたって意味が無い。羨望を持ったところで僕はあんな風にはなれないし、あそこまで能天気にはなれない。彼女は数多くの味方がいて、そして自身も強い力を持ってるからこそ許され――てはいないけど、今までやってこれたんだ。僕みたいな中途半端さじゃ駄目だ。彼女自身は全然最強じゃないけど、傍に最強に近い精霊が付いている。だからこそ、あんな無茶苦茶でも大丈夫だと周囲の大人から目されているのだろう。だからこそ彼女の技術が上がらないのだろうけど。
閑話休題。
なにはともあれアルさんはアルさん。僕は僕。僕はアレから何時まで経っても根暗なまま、何も変わっていない。落ち込んだり苛々したり人を避けたり羨望して批判ばっかりする。それが僕。僕は何も変わっていない。だから今更こんなこと悩んだって、どうしようもないんだ。……間違ってもアルさんみたいな感じにはなりたくない。キャラクターが僕とは合っていないんだ。
さて、こんな暗い話は置いておいて、今は取り敢えず、英気を養おう。なんてったって、今日は師匠達が来るんだから。僕は撫でてとばかりに近付いてきた狐の頭を人差し指の腹で撫でた。
僕の師匠、ユーリ・サートンは一応……いえ、失礼しました。人間です。はい。
えっと、前世、異世界の記憶を色濃く持つ強大な力を持った“精伝令”で、なんとも云えないくらいチートな人なんだ。
因みに旧姓はマグドラ。
そう、あの『恐怖の天才マグドラ』だ。『非常識の権化』『烈火の鬼神』でも可。卒業してから10年以上が経つと云うのに、未だにエカディアナ学園では伝説的な存在として語り継がれている、あのユーリ・マグドラその人なんだ。
師匠は地方の大都市の悪辣なスラムにあった孤児院から推薦枠を捥ぎ取り入学した。在籍中の3年間、体術魔術大会で師匠以外の名前が優勝者として刻まれる事がなかったと云うくらいの猛者だ。因みにそんな規格外の人間は長い歴史のある学園でも師匠だけらしい。
……今までもチラホラ居たとか云われたらそれこそ僕は世を儚みたい気持ちになるかもしれない。居ないからしないけど。
そして師匠はサートン先生の兄、ガーブ先生ことガブゴリオ・サートンと2~3年ほど前に結婚し、ユーリ・マグドラからユーリ・サートンとなった。2人は僕の家が縁で知り合って結婚したからありがたい事にこの家を懇意にしてくれている。2人はとても熱々で良く新婚旅行と称してドラゴン退治や巨大鯰の捕獲に行くような、とんでも――ゴホン、スバラシイご夫婦なんだ。
今は2人でパーティーを組んで大陸を回る旅人をしている。落ち着ける場所を探しているらしいけれど、今のところ最有力候補は僕の家の使用人らしい。我が家としては大賛成だから早く此処で落ち着いて欲しいくらいなんだけど。あの2人は他にも色々やることが多いから、落ち着けないのも仕方ないのかもしれないけど。
ここまでの経歴を聞いただけでもう解ったと思うけど、色々と、本当にいろんな意味で凄い人なんだ。夫であるガブゴリオ・サートン先生(僕はガープ先生と呼んでいる。体術教師グレゴリオ・サートン先生の実兄)も幅広の西洋剣で居合い切りができる非常識さだ。
2人は今までも各地で様々な伝説を作ってきていた。前に強制的に旅に連れ出されていた時、入った町で人垣が一気に割れたり、チンピラに涙を流しながら土下座された時にはどうすれば良いのかと思ったもんだ。本当に何をやったのやら。聞きたくなかったから流したけど。
そんな非常識な人達だけど、とっても良い人なんだ。
僕が事件のせいで周りの誰も信じられなくなっている時に初めて会って、独りで馬鹿みたいに泣き叫んで手が付けられなかった僕を――今まで父や母や教育係にだって殴られた事のなかった甘ったれの僕を――ぶん殴ってくれた人。それから沢山お説教されて、沢山泣かされて、それでもって沢山の笑顔を思い出させてくれた人。僕にとっては年の離れたお姉さんとか、そんな感じ。
まぁ基本的にむちゃくちゃな人だから、僕を薬を使って昏倒させて簀巻きにして僕の承諾一切なしに勝手に旅に連れ出したりとか、ホブゴブリンの巣穴に僕と爆弾を一緒に投げ込んでお茶してたりとか、しかも旅に出た事が事後承諾だとか、適当過ぎて頭が痛くなる様な人だけど。
でも久しぶりに会えるのが、とても嬉しい。最後会ったのは1年半ほど前の冬だった気がする。確か大陸を出て南の方に在る島国に行くって云ってたっけ。なんでも独特な民族宗教が流布されていて文化や言葉もこっちとは大分違うらしい。……一体どうやってコミュニケーションするつもり――いや、もうしたのか。一体どんな風に言葉も文化も宗教も違う人達と交流したんだろうか。2人は話上手だから楽しみだ。
ガーブ先生にも、もう少し剣の稽古を付けて貰いたいし、師匠にはもっと細かい魔力のコントロールについての話を聞きたい。僕が1人でやるよりもずっと効率的だし間違えて暴発しても安心だから、師匠に付いてもらえたら100人力――いや、1万人力くらいだ。多分戦場でもそれくらいの馬力を発揮する事だろう。なんて非常識且つ恐ろしい人なんだ。改めて戦慄した。
後、旅の話も沢山して貰おう。あの人達は突飛な事をしでかすから想像がつかなくて面白い。物事の着地点がどうも人とズレてると云うか、オチの付き方が在り得ないと云うか。だからどんな風になるのかわくわくする――そこに自分が強制的に関わっていなければ。関わっていたら、わくわくじゃなくて心臓に悪い方のドッキンドッキンで死にそうになる。
南の島国の話も聞きたい。なにか珍しい薬草とか、術式とか、見つかったかな。
何にしろ、楽しみだなぁ。
僕は顔の上を踏み荒らす栗鼠と鼠にクスクス笑いながら笑みを零した。
僕はあまりにも平穏すぎて忘れていたんだ。
あの人達が、どれだけ非常識的な行動を起こしてきたかを。
そして僕に今までどんな非常識な事をさせてきたかを。
この平穏な夏休みを思いっきりぶっ壊してくれる人達が来るまで、あと3刻ほど。
キャリッジ=豪奢な細工が付いてたりする2輪、もしくは4輪の馬車。現代(特にイギリス)では主に4輪の旅客用の物を云う。
形としてはシンデレラの南瓜の馬車とかみたいな奴を想像して頂ければ多分あっているはず。詳しくはwikiお願いします←他力本願
夏休み編は、多分ものごっつい長くなるかと。
お付き合いいただけたら幸いです。