表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

Regret




「理系の視点で政治する。明解で明確な明日を作り出す」


 それは、坂が政治家としての第1歩を踏み出す時に自分の後援者達を前に言った言葉であった。


 まだ汚れを知らなかった若かりし頃に吐露された真情の一端。

 やましい所はなにもなく、その言葉は紛れもない彼の本音であった。


 揚げ足を取り合う言葉遊びに終始し積極的な政策を取ることができない国情を憂い、志を忘れ、己の利権を守ることだけに躍起となる先輩議員たちの惨めな後姿を見ながら、ああはならない、俺がこの国を変える。国民主体の新たな政治体制を築き上げると本心から言えたあの頃。煮え切らぬ言葉ばかりを並べ煙に巻くのではなく、方程式を解くが如くYESかNOかをはっきりとうちだす。そう本気で信じていた。


 執務室の中、最近では座るのさえ億劫となってきた総理の椅子に背を預けながら坂秀雄は大きく息を吐いた。


「・・・北関東共同工業地帯での資本出資率の変更及び関税の引き下げ。そして、我が国内における東日本企業の自由な進出、行動など・・・要点を纏めれば一方的なフリーパス権を要求しているに変わりません」


 机を挟んで立つ事務官の報告は続いていた。


―――まるで機械人形のようだな・・・


 30代ぐらいか・・・まだ若い。かけられたシルバーフレームの眼鏡が理的な印象を更に強くする。政治という魑魅魍魎が躍る舞台において、日に日に魂をすり減らし、生きた屍と化しつつある自分とは違う。坂は悪化するばかりの現状から逃避するように若い職員の姿をジッと見つめた。


「更には先月、同工業地帯において発生した西日本企業内における東日本女性従業員に対する行き過ぎた指導に対する抗議も日増しに強まっており、これに対しても東日本から強い抗議の声が上がっており・・・」


「その問題は・・・」


「もはや事実は関係ありません。当の従業員はすでに東日本に帰国していますし、この問題の第1報を上げたのは我が国のマスメディアです。今頃、その女性の方にも非があった。企業の指導も適切であったと言っても向こうは耳を貸しません」


 言いかけた坂の声を職員の言葉が遮った。


「東日本労働者の質が低いのは当初から問題に上がっておりました。北関東に派遣されてくる労働者のほとんどが東日本における労働弱者、低学歴者や高年齢者がその多くを占めています。我が国は政府主導により積極出資を余儀なくされていますが、東日本にとってはていのいい姥捨て山に他なりません」


 島経済産業大臣が連れてきた経産省職員の感情の籠らぬ冷たい声が執務室に響く。


「利益を吸い上げられ、さらには社会福祉の一端までも肩代わりさせられる。こうなっては我が国にとって北関東はお荷物以外の何物でもありません」


「鳴神君、少し言葉を選びたまえ。総理の前だぞ」


 わざとらしく咳払いをしながら島経産大臣が鳴神と呼ばれた職員を諌めた。


「しかし、大臣・・・」


「なぜだ・・・?なぜ・・・こうなる」


 諌める島に向かい、かまわんよと力無く言いながら坂は机の上に並べられた数誌の朝刊を指で叩きながら言った。


 西日本と東日本、両国が出資し共同運営する北関東工業地帯は緊張緩和と将来的な統一、国の形を取っ払うことは不可能でも経済的、文化的には「日本」として一つとなることを目的とする民自党の目玉政策の一つであった。東日本に対し強硬姿勢を取り続けて、膨大な国防費を投入しながら、ただただ無用に緊張状態を呷り続けた前自由党政権。隣国、それも同じ日本民族となぜ争わねばならない。銃ではなく互いの手を握り合うべきなのだ。


「ここから両国にとっての真の意味での戦後が始まるのだ」


 北関東工業地帯で初めての工場が稼働しはじめた時、坂が胸を張って言った言葉だった。


 政治家になって20年。一党の長へ、日本の長へと上り詰めた。あの北関東の檀上こそが坂の人生において頂点であったといえる。

 その夢が・・・今、崩れ去ろうとしていた。それどころか民自党にとりアキレス腱に変わりつつある。


―――なぜ、それが分からない!なぜ、互いに歩み寄ろうとしないのだ!平和より戦いを求めるとでもいうのか!?


 坂は心の中で叫んだ。


 悪質なクレーマーのように不当な要求ばかりを続け、一向に態度を改めない東日本。

 

 友好の懸け橋となるはずだった北関東工業地帯も所詮、東日本にとっては外交材料の一つ、強請たかりの一つでしかなかった。今回のような事件も実のところ初めてではない。報道陣に公開されていない(バレていない)分も含めればそれこそ二桁を越えている。最近ではトラブルを嫌い、援助金を出しても北関東工業地帯への誘致に応じないとする企業も増えてきていた。


 稼働から僅か1年にも関わらずこの状況。


「無論、当然のことではありますが、東日本の要求を呑むことは不可能です」


 鳴神が再び口を開いた。


「すでに朝日政策(対東日本融和政策)の元、東日本に対する経済支援は有象無象、直接的な資金援助から農作物などに対する関税優遇などの制度上のものを含めると限界に達そうとしています。これ以上は・・・」


 我が国の資本をただで東日本にくれてやるようなものです、と鳴神は汚いものを唾棄するかのように言った。


「北関東は我が国の経済にとって害毒以外のものはありません」


 あまりに厳しい鳴神の物言いに島が嫌な表情を浮かべるが今度は注意をしなかった。島自身も鳴神と同じ意見だったからだ。


 バブルの破たんから長期の不況に喘ぐ日本経済。

 その舵取りを行う経産大臣として島もまた現状を座して見る訳にはいかなかった。


「小河さんからも五月蠅く言われている。経済の復活なくして社会保障の維持は不可能だとな・・・」


 島と鳴神を見ながら坂は溜息をつきながら言った。


 坂の言う小河とは厚生労働大臣を務める小河葉子のことを指していた。国民には品が良く愛想の良い婦人像の典型のように見られている小河であったが、根は恐ろしいまでの現実主義者であり、理想論に走りやすい性質を持つ民自党の中でも一目置かれている女性政治家の一人であった。


「マスコミの前では禁煙云々しか言わないが・・・僕の前ではね。この前も増税は何時行うのか?と厳しく問われたよ」


 坂は言いながら自嘲的に笑った。


 野党の時は増税反対の姿勢を強くしていた民自党であったが、与党となった今、党に所属する議員の誰もが現在の社会保障を維持するには増税しかないことを理解していた。


「消費税の増税は・・・」


 言いかけた島は苦りきった坂の顔を見て途中で言葉を止め黙った。

 言わなくても分かっている。非難まじりの色を湛える坂の目は無言でそう言っていた。


 消費税を上げればただでさえ苦しい内需はさらに落ち込みを見せるだろう。内需が落ちれば企業や自営業者、当然のことながらその会社に勤める社員達の給料は減り、最悪人員整理(首切り)が行われる。そうなればどうなるか・・・語るまでもなかった。弱者救済や社会保障云々以前の問題だ。国ごと遭難する訳にはいかない。しかし、体力のある者(巨大企業等)だけを守る訳にもいかない。日本は国債の多くを自国内で運営しているので状況的には他国より幾分かはマシだが、借金に頼る予算運営が不健全であることは誰の目にも明らかであった。


 速やかな増税。緊縮財政だけではもはやどうしょうもなかった。しかし、踏み切れない。


「安全保障に社会保障か・・・」


 呟くように坂は言った。


 その姿は、20年前に自分の支持者を前に力強く己の夢を語った男の影は何処にもなかった。

 増税すれば選挙に勝てない。与野党が入れ替われば、言うことも入れ替わる。

 本来なら誰よりも冷静に見つめなくてはならない現実に背を向け、ただ理想だけを謳う。


「国のトップとは存外寂しいものだね・・・」


 国民は自分のことを決断できぬトップと笑う。だが・・・違うのだ。国民が望まぬから決断できない。

 大多数の幸福の為に本来なら取捨択一せねばならぬのに、全ての幸福を追求する、またそれを望まれるから身動きが取れない。


「僕は何をどうすればいいんだ?」


 国内も国外も上手く回らない。坂は自嘲気味に小さく笑った。






 世界は黒一色で塗り固められているかのようだった。


 対地高度50m、時速700kmで流れていく世界。

 そんな中、人の視覚が果たせる役割なんて僅かに感じ取れる濃淡だけしかない。


 人間の持つ感覚を超えた、この空を様々な機器のバックアップを受けつつ踏破する。

 暗視装置の作り出す淡い緑色の空間情報を読み取り、判断処理。ミスなんて許されない。

 ミリ単位というのは大げさだけど1センチでも多くサイドスティックを余計に押し込めば山肌に激突、一瞬で無機物と有機物のローストが出来上がる。


―――今は何も感じないけど・・・


 一個の機械のように戦闘機を操りながら亜季は漠然と考えた。

 酷く強張った体を隊舎の湯船でゆっくりと解きほぐしていく。


―――気持ちいいだろうなー


 ピーっと音を抑えられた警報音が控え目に鳴る。

 1ミリ、いや2ミリだけ亜季はサイドスティックを押し込んだ。


 亜季の意志に応えるように95式のフライトコンピューターは彼女の動作を電気信号へと変え、機体各部の翼に命令を送った。

 機種のカナード翼をはじめ、95式各部の可動翼が動き、機体表面を流れる気流に変化を与える。僅か機種を下げる95式戦闘爆撃機。

 東日本が世界に誇る大柄で美しい戦闘爆撃機は空を飛ぶと云うよりは地表の上を滑るかのように西日本との国境沿いの山峰の間を飛びぬけていく。


「減点1だよ。亜季ちゃん」


「お生憎様。警報は高度45mに設定してあるのよ。指定高度は超えていない」


 後席に座る利恵の文句を受け流しながら亜季は応えた。


 西日本が張り巡らすレーダー網は、世界でも最強クラスの探知能力を誇る。ステルス機でない以上、この監視網を抜けるには、ただひたすらに低く飛ぶしかなかった。飛ぶには障害物でしかない山々が電波から愛機を守る障壁として自分達の姿を隠してくれる。高価な電波吸収材も塗料、維持整備も必要ない。AWCSが持つルックダウンレーダーはどうしょうもないが、固定式のレーダーサイト相手ならまだ超低空侵入という戦術機動はまだ魔力を失っていなかった。戦争は常に矛盾の関係に終始する。そんな理屈さえもぶっ飛ばせる国が世界でも一つだけあるが、幸いなことにそれは西日本ではない。


「屁理屈。どうせ余計なこと考えていたんでしょ」


「首、肩、腰、風呂」


 恐ろしく省略された応答を返しながら亜季は機体を操り続けた。

 夜の空をチタンとアルミ、炭素複合材で作られた人造の怪鳥を飛ばす。慣れきったとはいえ楽なことではない。


「ババア」


「五月蠅い」


 利恵に短く応えながら亜季は常に視界の隅に高度計の数字を置きながら両手を動かし続ける。

 何時もより、ほんの少しだけ機体の反応が遅く鈍い。亜季はタイミングを計る時計の針を少しだけ進めた。


―――甲1(制空任務)と乙2(阻止任務)の間ぐらいかな。


 翼端に1発ずつ、主翼に2発ずつ。そして、腹の下に大物を1発。

 搭載限界まで誘導爆弾を装備する乙2兵装よりは軽いものの、大きく張り出した61式(採用年ではない)空対艦誘導弾が抵抗となり挙動を乱す。


「これじゃあ最大射程300キロも形無しだね」


 61式の性能なら新潟上空から撃っても東京の中心を狙うことができる。


「高価な的をくれてやる必要はないわ。敵の懐まで飛び込んでブスリッ。今も昔はやることは変わらない」


 兵器管制を司る利恵としては面白くないのだろう。不満そうな声を上げる利恵に亜季は生真面目に答えた。


「そんなこと分かってるよ」


 案の定、利恵が先ほどとは別の理由で不満げな声を上げた。


 射程300キロというのは空気抵抗の少ない高空を飛行した場合だ。低空飛行な61式の性能は半分以下の120キロまで激減する。

 それに実際には、大気の壁の前にもっと分厚い壁が61式の前に立塞がる。


「国境沿いの対空陣地に東京湾のミサイル巡洋艦、それに戦闘機の迎撃も」


「分かってるじゃん。胸ばかりに栄養がいっているようだからボケたのかと思ったわ」


「亜季ちゃん・・・夜道には気をつけた方がいいよ。敵をブスリとやる前に自分が・・・」


「肥えた牛女に遅れを取るほど私は鈍くないよ」


「こ・・・殺す!」


 怨嗟に満ちた利恵の声。さすがに現状で後席の様子を確認する余裕はない。

 ギリギリと歯ぎしりしているだろう相棒の顔を思い浮かべながら亜季は僅かに口元を歪めた。


「まあ・・・冗談はさておきどうなのよ。専門家としてわさ?」


 グルグルと猛犬のように未だ呻り声を上げる利恵に亜季は問いかけた。

 彼女自身も搭載する兵装のことは教育を受けているが、兵装士官である利恵ほど専門教育を受けている訳ではなかった。


「・・・脳筋」


「その脳筋が操る戦闘機に乗っているのは誰かな」


 僅かに機体を傾けながら迫る山肌を回避する。笑いながら亜季はもう一度問いかけた。


「無意味な訓練って訳じゃないんでしょ?」


「そうだね・・・国境から遠い百里は無理でも厚木とか入間は確実かも。敵の対応次第では湾内のミサイル巡洋艦もやれるかも」


 亜季の問いかえに考えるように利恵は答えた。


 61式の売りは何も射程だけではない。最大の売りは何と言ってもその足の速さだ。高度20mでもマッハ2を超えるその韋駄天ぶりは目標との距離が縮まれば縮まるほど生きてくる。発射から1分と少しで40キロを飛ぶ61式。逆を云うと目標から40キロ圏内まで肉薄することが出来れば61式を迎撃することはほとんど不可能ということになる。


「そうなってくると・・・後は私の腕次第ってことかな」


 山峰の間を吹く風は不規則で容赦ない。流されかけた愛機に一鞭入れながら亜季は言った。


 利恵の言った言葉が東日本空軍が山間部において超低空侵入訓練を繰り返す理由の全てだった。国境沿いの山々を盾に西日本の防空陣に肉薄し、敵のリアクションタイム(対応時間)を奪い取る。勿論、西日本も常時、警戒機を上げるなどの対応を取っているだろうが、それにも限界がある。100機襲ってくるかもしれないから常に100機飛ばしておきますという訳にはいかないのだ。古来から攻めるより守る方が難しいのは常識。そして、西日本は「絶対に」攻めてこない。戦力的に優位とはいえない東日本にとって地勢的、法的優位を活かすことに躊躇はなかった。


「甘いね。亜季ちゃん。私が居なけりゃあ電子戦が疎かになっちゃうよ」


「はいはい。そうですね」


「うあ・・・操縦士病(自分の腕だけを信奉し、電子戦等を軽視する)だ!いい?監視衛星にうちの航空基地は24時間見張られているんだよ!日本海にはミサイル巡洋艦が常時警戒もついている。上がった瞬間、うちらは追跡対象なんだ。山の中を飛んでいるからといって安全が確保されている訳じゃないんだよ」


 軽く応える亜季に利恵は口を尖らせながら言った。


 敵も馬鹿じゃない。公式非公式に関わらずこちらの攻撃を防ぐ手段をこうじている。


「ゴメン。分かってるわよ。アイツらは強い。宣伝省が言うように軟弱な存在じゃない」


 操縦士徽章を取ったばかりの頃は無邪気にプロパガンダを信じていた。だが、それが誤りであることに気付くのに時間はかからなかった。

 防空識別圏(互いに主張し合い、重なり合っているけど・・・)に少しでも足を踏み入れ様なら必ず上がってくる迎撃機。

 迎撃機は時にはレーダーを?い潜っているはずの超低空侵入訓練の時にも表れた。それも一度や二度ではない。


 亜季は真面目な声で返した。もしかしたら苛烈なエリント合戦を行っている利恵の方がより現実を把握しているのかもしれない。なにせ電波は目に見えないのだから・・・。周波数情報の奪い合いは平時からも行われている。電波発振の制限や敵の電子情報の収集。兵装管制以外にも後席の仕事は沢山ある。


「安全と思って飛んでいると上から被られてズドンだよ」


「後方警戒を一任する」


 利恵の言葉を聞いていると狭い空がさらに窮屈に思えてくる。


 応えながら亜季はスロットルを僅かに押した。高まる95式のエンジンの呻り声。


「明日は空戦訓練がやりたいな・・・」


「残念でした!明日も明後日も夜間侵入訓練だよ!」


 亜季の愚痴に利恵が意地悪い声を上げる。


「現実逃避ぐらいさせてよ!」


 自由に空を舞いたい。窮屈な夜空の下、亜季は叫けびながら愛機を飛ばし続けた。






 開けられる双眸。室内は未だ夜の闇に囚われたままだった。


 右手に刻まれた古傷が疼く。

 

 鼓膜を叩く雨の音。寝る前は降っていなかったのと楓はゆっくりとベットから身を起こした。

 隣で眠る長門を起こさぬようにソッと両足を床へと降ろす。


 奥に刻まれた疼痛。情事の後特有の気怠さが楓の体を支配していた。

 愛する者と過ごす夜。人としての幸福がそこにはあった。


 サイドテーブルに置かれたペットボトルを手に取り、乾いた喉へと流し込む。

 すっかりぬるくなってしまった水に一瞬顔を顰めながらも楓は飲み続けた。


「ふ~」


 ペットボトルの水を飲み干し、小さく溜息をつく。


 闇に慣れてきた視界の中、楓は右手を天にかざすようにしながら己の体に刻まれた傷跡を見つめた。

 脳裏をよぎる妹の顔。リゲルを胸中に抱き、こちらをジッと見つめる亜季の顔が浮かんで消える。


 思えば妹のことを思い出すのも酷く久しいような気がした。


 疼く右手の傷を夜の闇に透かすようにしながら楓は立ち上がりガラス戸の傍へと足を進めた。

 意識がはっきりしていくに従って鼓膜を叩く雨の音が強まってくる。雨は思ったより強く降っているようだった。


「酷い天気」


 外を眺めながら楓は小さく呟いた。


 僅かに開けたカーテンの隙間、ガラス戸を打つ横殴りの雨が水滴となり川のように流れていた。


「亜季・・・」


 外の様子を窺いながら楓は痛む右手をそっと胸に押し抱いた。


 酷く心が乾いていた。言いようのない思いが楓の胸中を這いずり回る。

 あの時、一人で飛びださなかったら・・・楓は、もう数え切れぬほど足を踏み入れた思考の袋小路へと再び考えを巡らした。


「ごめん・・・」


 楓の口から小さな声が後悔の想いとともに漏れ出た。


 なぜ・・・手を放したのか・・・なぜ・・・迎えにいかなかったのか・・・気を失っていたなんて理由にならない。あの子はずっと待っていた筈なのだ。

 コツンとガラス戸に額を預ける。ガラス戸に額を付けたまま楓の両肩が小さく揺れた。


「ごめん・・・ごめんなさい・・・」


 後悔の念が楓の全身を侵していた。


「私だけ・・・私だけ・・・」


 少しでも妹を助ける力が欲しいと想い軍人となった。

 それなのに・・・いつの間にか現実に流され、亜季のことを忘れつつある。

 

 その上・・・楓はベットの方に視線を向けた。窓の外で閃光が光る。

 最愛の男。将来、自分の伴侶となるべ男の眠る姿を見ながら楓は涙を拭った。


―――私はズルい女だ・・・


 妹の為に泣く自分のことが酷く薄ぺっらく感じられた。


―――これは誰の為の涙なのだ?


 つんざく様な雷の音が部屋に響いた。


 妹の・・・亜季の為。いいや・・・違う。これは自分可愛さから流れる偽善の涙だ。

 忘れていた。たまに思い出したように流す涙になんの意味がある?そう考えると涙を流す自分のことが酷く滑稽に思えた。


「スン・・・ふ・・・ふ・・・うう・・・」


 楓は泣きながら笑った。


 また、外で光が走る。暗かった部屋に一瞬だけ明るさが蘇る。

 床に映る自分の影。その脇には脱ぎ散らかされた二人分の衣服。


―――こんな有様で・・・私は・・・


 時は無情だ。進むだけでやり直すことなんてできやしない。

 そして、そんな現実に流されるだけの自分のことが酷く情けなかった。


「亜季・・・貴女は一体何所にいるの・・・?」


 楓は右手を抱いたまま呻くように言った。










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ