Security
弱い陽光に重たい雲。
鉛色の空が頭上を覆うことの多い北の空も3000メートルも上がれば関係ない。
足元に浮かぶ雲。陽光を遮るものはキャノピー一枚だけだ。
「亜季ちゃん。やっぱ空はいいねー。なんだか体が軽くなったみたいだよ」
「・・・もう良い年なんだから亜季ちゃんは辞めて」
「ええー!?亜季ちゃんは亜季ちゃんだよ」
「・・・・・・・・・」
北緯38度1分東経138度22分、佐渡島上空3000メートル。
日本人民共和国が支配する空の上を戦闘機のコクピットという最高の観覧席で味わいながら伏倉亜季空軍少尉は溜息をついた。
これがSuー34なら拳骨で黙らせることができるのに・・・。
神をも恐れぬロシア人達(元より彼らに信仰心などないけど)は時折、世間の度肝を抜くトンデモ品を世に送り出す。
戦闘攻撃機ながら並列という操縦席配置を持つSuー34もその一つだ。
バックミラーに映る能天気な笑顔。
亜季にとっては航空学校からの腐れ縁でもある東山利恵少尉が楽しそうに座っていた。
背後で「ちゃん」づけで自分のことを呼ぶ相棒の顔を見て、亜季はもう一度溜息をつく。
残念なことだが同じSuー27の血筋を引くと眷属とはいえ、人民空軍が装備する95式戦闘攻撃機の操縦席は同じ複座でも至極まともな縦列配置。
パイロットになる為に鍛え上げた両腕も背中のシートを超えることは出来ない。
「もう子供じゃないん・・・」
「ぬいぐるみと添い寝している人が何を言いますか?」
「なっ!?な~」
グラリと95式の機体が大きく揺れた。
言いかけた言葉に被せるように発せられた利恵の言葉に亜季の顔が朱に染まる。
「危ないなー。亜季ちゃん、何やってんだよー」
「な・なんでアンタが知っているのよ!?」
クスクスと笑い声まで上げ始めた利恵に亜季は猛然と噛みついた。
なぜ・・・知っている!?亜季の脳内に毛並がボサボサになりくたびれたリゲルの情けない顔が浮ぶ。
確かに自分の部屋のベット、その枕元にリゲルは寝ている。
学校を卒業し、全ての課程を卒業した今、リゲルを隠す必要は無くなったからだ。
軍隊における幹部の地位は大きい。兵士達とは待遇が違う。個人に割り当てられた部屋も恩恵の一つ。
学校には持ち込むことの出来なかったリゲルも個人部屋なら遠慮する必要もない。
「この前、亜季ちゃんの部屋でー」
「寝室にまで入ったのか!?お前は」
年甲斐もなく人差し指を口元に当てながら言う利恵に亜季は怒りの声を上げた。
部屋が隣の利恵は、頻繁に亜季の部屋に遊びに来ていた。そのどこかで寝室に侵入したのだろう。
確かに20歳が近い娘の寝室に大きな熊のヌイグルミは少し体裁が悪い。いや、だからこそリゲルの居場所は寝室だったのに・・・。
「訓練学校の時は、よく一緒に寝たじゃんかよー」
「あの時とは違うでしょ!」
亜季の怒りは収まらない。幹部用宿舎は冷暖房が完備されている。
大部屋で、ろくな暖房も効いていなかった訓練学校とは違うのだ。
「一緒のベットで毎晩、体を温めあった仲じゃない。寝室チェックしたぐらいで怒らないでよ」
少しは悪いと思ったのか利恵は口元に当てられた指を降ろしながら言う。
「あれはしかたなくよ!私にその気はない!」
「ええー!?そうなの?あれだけ私の体で遊ん・・・」
「うるさい!人の過去を勝手にねつ造するな」
確かにあの頃は一つのベットに何人もの訓練生が集まって寝たけど・・・言葉とは裏腹に怒りの代わりに懐かしい思い出が亜季の頭をよぎる。
噂に聞くシベリア収容所ほどではないにしろ訓練学校の居住環境はそれは酷いものだった。
部屋の中央に置かれたダルマストーブ一つではせいぜい温度をプラスに留めるのが精一杯。
厳しい北国の夜を乗り切る為に同期生達は共に抱き合って夜を過ごした。
ストーブの放つ赤い光と轟々と呻り声を上げる風雪の声。
一つのベットに互いの身を押し付け合いながら、励まし合い厳しい訓練に挑んだあの日が懐かしい。
「やっとここまで来たんだ・・・」
「そうだね」
呟くように吐かれた亜季の言葉に利恵が同意する。
Suー27のライセンス生産から始まり、バージョンアップを繰り返しながら東日本の主力戦闘機の座を占める89式戦闘機。
その89式を元に再設計。戦闘爆撃機、はやりの言葉に直すならマルチロールファイターとして生み出されたのが95式戦闘爆撃機だった。
電子兵装では西側に一歩劣るものの搭載量や運動性能など基本性能では米帝の装備するF-15ストライクイーグルを上回る最新鋭機。
「西の連中になんかには負けない」
95式のコクピットシートこそが亜季達が手に入れた努力の証。勝者の座といえた。
亜季は南の方に視線を向ける。
バイザーに隠れているが気の強い視線が遙か彼方に引かれた国境線を射抜く。
「その意気。その意気」
「アンタが言うと力が抜ける」
「亜季ちゃんの意地悪!」
口を尖らせる利恵に亜季は口元を歪ませた。シートの横から軽く手を振って謝ってみせる。
「ずっと飛んでいられれば良いのに」
亜季は小さな声で呟いた。
気心の知れた仲間に最新鋭の戦闘機。飛んでいる間だけは全てが忘れられる。
視線を下へと向ける。眼下は相変わらず厚い雲に覆われていた。
「・・・空は光に満ちているよ。お姉ちゃん」
暗く寒い大地。空はこんなに光に満ちているというのに。
利恵の笑い声とリューリカALー31FPターボファンエンジンが奏でるの轟音の中、亜季はどこまでも続く蒼空を見続けた。
取り方によっては、その音も轟音といって良いかもしれない。
サイドテーブルに置かれた目覚まし時計がジリジリと声を上げながら身を震わせる。
薄いレースのカーテンが引かれた部屋はすっかりと光を取り戻し、朝の訪れを住民に知らせていた。
しかし、アラーム音とは裏腹にベットの中、白いシーツに包まれた彼の主人は起きる気配さえみせない。
目覚ましに与えられたミッションは前日に指定された時間までに主人を起こすこと。
音量アップにスヌーズ機能。感情など持つはずもない機械が仮初めの意識を持ったかのように主人を起こそうと奮戦する。
「・・・五月蠅い」
アラーム音に混じり、小さな声がシーツの中から上がる。
もう少し。さあ、起きろ!目覚ましは更にアラームの音を上げていく。
「・・・五月蠅い・・・五月蠅い・・・五月蠅い!!」
目覚ましの努力は報われたかにみえた。
跳ね上げられるシーツ。寝癖でボサボサになった髪に殆ど閉じられた眼をショボつかせながら西村楓は怨嗟の声を上げた。
その姿に追い打ちをかけるように更に音量を高めていく目覚まし。彼の仕事は主人に朝を届けること。
だが・・・、
「五月蠅いったら!」
楓の腕がサイドテーブルの上を薙ぎ払う。
いつもならそんな暴挙に出ることはないのだが、異常なほど回数を増しているスクランブル発進と報告書の山が楓から貞淑という言葉を奪っていた。
薄明りに佇む寝室。8畳ほどの部屋に置かれたベットの脇には脱ぎ散らかされた制服や下着がそのまま床を埋めている。
目覚ましを一撃し、そのまま楓はベットに倒れ込んだ。
ボフッと言う音とともに肩口で切り揃えられた髪が枕に広がる。
先ほどまで鳴り響いていたアラーム音の代わりに部屋に響く小さな寝息。西村楓の朝はまだ先になりそうだった・・・。
「・・・で、寝坊の結果がこれだと・・・」
テーブルに並べられた料理を見ながら高峰長門は呆れたように言った。
「御免なさい。これでも頑張ったのよ」
「久しぶりに手料理を振る舞ってやるから出てこいって言ったのは誰だっけ?」
「ほんと申し訳ない」
拝むように両手を併せて謝る楓。
彼女と長門に挟まれたテーブルの上には野菜と豚肉を湛えた鍋が置かれていた。
白菜に豚を織り込むようにして作られた豚鍋。見た目こそ花のように綺麗だったが・・・所謂、手抜き料理だった。それこそ30分もあれば用意できる。
「まあ、手の込んだ洋飯にはほど遠いけど、こいつには丁度良いかな」
それに珍しいものも見れたしな・・・クツクツと音を立てる鍋を前に珍しく項垂れる楓の姿に長門は苦笑しながら足元の袋から焼酎の瓶を取り出した。
「最近忙しかったからな。無理しなくていいさ」
「次こそは必ず・・・」
せっかく二人の時間が取れたのに・・・お前らのせいだー!っと心の中で、東日本空軍の戦闘機や電子戦機を片っ端から叩き落としながら楓は再び頭を下げた。
長門を食事に誘ったのは楓の方からだった。二人が付き合いだして一年。戦闘機パイロットという過酷労働の下では、なかなか互いの時間が合うことも少なく何かと不便。
部隊では嫌でも顔を会わせるが隊内でおっぴらにベタベタする訳にはいかない。例え、周知の事実でも公私に一線を引いているからこそ同じ部隊に入れるのだ。
「だから、無理すんなって。おっ、そろそろよさそうだな。いただきます」
謝ってばかりの楓の姿を笑いながら長門は小皿に白菜と豚肉、スープをよそう。
楓には悪いがスクランブル明けで疲れ切った状態で、揚げ物やソースこってりの料理よりあっさりとした豚鍋の方が食べれる。
コンソメベースであっさりとした豚鍋は疲れた体でも十分に食欲をそそる一品だ。それに持ってきた焼酎にも合う。
「うまいな」
見た目通りの味わいというと調理した者に失礼かもしれないが、これが出来ない者も多い。
出汁の染み込んだ白菜に柔らかく煮込まれた豚肉。唐辛子に山椒、控え目に効かされた辛めの味付けも食欲をさらに促進させる。
「ありがとう」
言葉少な目に黙々と箸を進める長門をうれしそうに見ながら楓も箸を取った。
今更お世辞の言葉なんていらない。訂正、たまには欲しくなるけど、無理に言葉を連ねて褒められるより箸を進めてくれる方がうれしい時もある。
(幸せだな~)
長門の持ってきた焼酎を彼と自分のコップに注ぎながら楓は目を細めた。
「東日本空軍の増強は我が国にとって大きな脅威となり、早急な対応が必要と言う声も上がっていますが・・・」
「過去の不幸なすれ違いを乗り越え、東日本とは友愛の精神を持って当たりたい。同じ日本人、私は彼らと分かり合うことが出来ると確信しております。軍事力での恫喝ではなく粘り強い話し合いによって事態の回復を図りたいと思います」
「では国防費の増額は・・・」
「社会保障と税態勢の健全化、これこそが我が民自党の国是であり、むやみな軍拡などは考えておりません」
テレビの中で、幾本ものマイクを突き付けられた小太りで目の大きな男がボソボソと語っていた。
アルコールに浸食された頭でも、彼の言っていることがおかしいことが分かる。
「現場の身にもなってみやがれ」
「どうしたの?何かあった」
食事の片づけを終え、エプロンを外しながら楓が横に座る。
「国防費は据え置き。これで俺達は、あの95式の前に素っ裸で放り出されることが決定した訳だ」
イラただしげにテレビの方を指差しながら長門はコップに残った焼酎を一気に呷った。
テレビに映る男は日本国総理大臣坂秀雄。長門や楓達、日本国軍人にとって最高司令官にあたる人物だった。
「米軍の追い出しに国防予算の縮小。国境線一つ挟んで軍拡に勤しんでいる仮想敵国を抱えながら自ら鎧を脱ぐ奴がどこにいる?」
「モットーは友愛だからね。国家安全保障なんて言葉は総理の辞書にないのよ」
甘えるようにそっと長門の肩に自分の頭を乗せながら楓は言った。
東日本に対して強硬的な姿勢を取っていた自由党に代わって政権を取った民自党は、こと軍事面に限定するなら敵国以上の厄災を日本軍にもたらした。
国防予算の縮小に始まり、在日米軍の国外退去。日米安保こそ未だ保たれているものの日本内乱以後、最大の危機といって良いほど東西の軍事バランスは崩れつつある。
必然と偶然。まさかまさかといっている内に状況は悪化し続けていた。
「沖縄でもめた米軍はF-22のライセンスを土壇場でひっくり返すし。奴らが本気になったら手酷いことになるぞ」
「世界人類みな兄弟。信じる者は救われる」
「・・・俺は本気で言っているんだが・・・」
長門は楓の冗談を咎めるように肩を大きく上下させる。長門の肩に乗せられた楓の頭が小突かれたように揺れた。
「ごめんなさい。それにしても時期が悪かったわね」
「ああ。まったくだ。東だけでも厄介なのに。最近は中国も活発に動いている。まあ、南は海軍が抑えるとしてもだ。ヤバいことにはかわりない」
人口13億人のマンパワー。経済的に頭打ちを迎え伸び悩む日本や欧州、米国を尻目に発展を続ける中国は、その経済力を軍事力に転換しつつあった。
旧式兵器ばかりで数ばかりと揶揄された人民軍は徐々に近代戦闘に耐えうる軍へと姿を変えつつある。
「皮肉よね。中国が発展すればするほど東の財政事情が潤うなんて」
「東側の軍事工場。ロシア人も半ば公認だからな。設計はロシア、作るのは日本。チャイナバブルで奴らは大喜びだ」
資金と兵器を循環させることによって力を増しつつある東日本。西と東の格差は埋まりつつあった。
経済力で東日本を圧倒していた西日本。少々の軍事優勢など吹き飛ばすほどの経済格差が両国の間に存在していた。
クラウゼビッツの生きた時代とは大きく様相を変えつつある世界だが、いまだ戦争は外交の延長線上にある。
近代戦にはとにかく金がかかる。第1撃を防ぎえる能力、暴発を躊躇させるだけの戦力があれば西日本の安全保障は確保されていたのだ。
今、その抑止力が揺らぎつつある。
「国防音痴の総理に予算縮小。米軍の国外退去に周辺諸国の著しい軍拡。これほど悪い札が連続するのも珍しいわね」
「まったくだ。それに・・・東の指導者の交代も近いだろ。北朝のように後継者の力を見せるための恫喝に出るかもしれん」
「神よ。我を救いたまえ」
ソファの背もたれに頭を預けながら楓は天井を仰ぎ見た。
絶望といって良いのか。でも現実は何も変わらない。国民の多くは危機が迫っていることさえ認識できないだろう。
東日本や中国より長引く不況と社会保障問題の方が大事だからだ。
「海軍の航空母艦をピースボートとして東南アジアに・・・」
テレビで自分の妄想を語る坂の声が耳を打つ。
楓は隣に座る長門の手に自分の手を重ね握りしめた。
「平和は有料なんだよ」
アルコールで痺れる意識。楓はゆっくりと瞼を閉じた。