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For Whom





「よっこらしょっと・・・」


 苦労しながらドアの鍵を開け、肩を擦り付ける様にして照明のスイッチを押す。


「ただいまー」


 両手に持ったスーツケースやスポーツバック、コンビニで買った弁当をフローリングの上にドサドサと放り投げながら、楓は誰も居ない部屋に向かって小さく呟いた。


 無論、彼女の声に反応する者は誰もいない。トレンディドラマなら、ここで彼氏か可愛いペットの出迎えがあるはずだが、生憎、恋人は任務中。ペットも職業上、緊急で家を空けることが多いので、一人身で飼うことは不可能に近い。厚木基地から15分の位置にある3階建てマンションの2階、2LDKの借り上げ官舎。住居としては何の不都合もないが、寂しさまで癒してくれない。


「はあー」


 押し寄せる空虚感。大きく溜息を吐きながら靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。


 放り出した荷物の中から、まずは弁当を取り出し電子レンジに放り込む。設定時間は2分。そのまま玄関へとUターンした彼女は、スポーツバックとスーツケースへと手を伸ばした。寝室のベットの上にスーツケースを投げ、次ぎに向かうのは浴室の前に置かれた洗濯機。スポーツバックの中からゴミ袋に入れられた2つの洗濯袋を取り出す。まずは飛行服など大物が入った方を洗濯機の中へと放り込み、洗剤と柔軟剤を纏めてぶち込んでスイッチON。洗濯機のスイッチを入れ終えたのと同時に、チーンと電子レンジが音を立てた。タイミング的には悪くは無い。


 手を洗い、ついでとばかしに顔も洗う。鏡には少しヤツれた自分の顔が映っていた。


「酷い顔・・・」


 自然と漏れる言葉。誤魔化す様に、タオル掛けへと手を伸ばすが・・・伸ばした手が空を切る。

 長期出張前に片付けたのだった。チっと舌打ちしながら、楓は戸棚から新しいタオルを取り出した。


「ご飯。ご飯・・・」


 独り言が多いのは寂しさの裏返し。


 顔を拭き、自分自身にエールを送るかの様にブツブツと呟きながら、再びキッチンへと舞い戻った彼女は、電子レンジからアツアツの弁当を取り出した。

 ビニールを取り、蓋を取ると良い食欲を誘う匂いが室内に広がる。ゴクリと唾を飲み込み、食卓へ。御伴の缶ビールはすでにオンステージ、配置に付いている。


『東京エックス・スペシャル豚カツ弁当』


 値段もカロリーも張るが、肉体労働者に必須ともいえる肉成分を十二分に満たすソレが、今夜の獲物だった。


「あっ、いけない」


 備え付のソースと辛子をカツの上に掛けた所で、グラスを出し忘れていたことに気付いた楓は呟きながら席を立つ。


 缶のままで飲むのとグラスで飲むのでは味が違う。例え、それが気分の問題と呼べるほどの小さなものであっても。

 プルタブを開け、辛口ドライを注ぐ。グラスの縁に付ける様に注ぎ、無為に泡を立てない。少しの泡と黄金色の液体がグラスを満たす。


「Runway01 Cleaerd」


 箸を取り、一礼。準備よし。全てが整った。食卓の上には胃袋を癒す理想郷がある。


「いただきます!」


 顔を上げた楓は、猛然と東京エックス・スペシャル豚カツ弁当に襲い掛かった。

 まずは豚カツ。目標にブレは無い。一番好きな物は、一番最初に喰らう。これ、集団生活における鉄則。ソースがたっぷりと掛ったカツを口へと放り込む。


「お・・・美味しい」


 口内に広がる甘味。カツを噛み締める度に、大量の肉汁が迸る。付け合せのソースと辛子もカツの甘味をさらに引き立て、絶妙ともいえる直接支援(ダイレクトサポート)を魅せていた。こうなっては、もう我慢できない。ガシっと容器を持ち上げた楓は、男らしくご飯をかき込んだ。ご飯、カツ、ご飯、カツ。肉と米の最強コンビが、口の中で情熱的に絡み合う。気が付いた時には、弁当の中のカツとご飯は、半分ほどになっていた。


 疲労と空腹は最大のスパイスというけれど・・・、


「やるわね。東京エックス」


 コンビニ弁当にして、このレベル。ビールで一息入れながら、楓は感嘆の声を上げた。


 沖縄で食べた豚も美味しかったけど、それに負けていない。ビールじゃなくて・・・焼酎にすれば良かったかなと戸棚の方へと目を向ける。

 そこには、麦と芋、その両方がスタンバイしていた。姉さん・・・俺達はいつでもいけますよ。幸福な一夜を貴女に約束しますとばかり黒光りする瓶の数々。


「駄目!駄目よ!明日もあるんだから」


 楓は言いながら頭をブンブンと振った。


 誘蛾灯に惹かれる蝶の様に、思わず腰を浮かしかけるが、気力を振り絞って我慢する。我慢するが・・・、


「でも、一杯だけなら・・・」


 時計に目をやる。


 現在の時刻は2230時。ビールのロング缶一本に焼酎を少々。飲み過ぎなければ・・・ギリギリセーフ!と悪魔が囁く。


「ダメ!絶対ダメ!疲れてるし・・・明日も飛ぶし・・・」


 自分の体調を考えると悪酔いする可能性が高い。それに明日も飛ぶ。

 天使と悪魔が脳内で、がっぷり四つに組合い押し合う。弁当と戸棚。楓はしばしの間、双方に視線を彷徨わせた。


「はあ~。・・・ダメだ」


 人生諦めが大事。楓は大きく溜息を吐いた。


 もう一人の恋人でもあるアドヴァンスト・イーグルは気難しい。アルコールが残らなくても、疲労が残った体ではまともに操れない。最後にもう一度だけ、未練がましく戸棚を一瞥した楓は食卓の上に置かれたテレビのリモコンを手に取った。長門はともかく楓自身、あまり食事中にテレビを見るという習慣は無かったが、アルコールに逃げることが出来ない以上、一人の食事の寂しさから逃れるにはテレビの騒音は有難いものだった。ちょっと温くなったビールを一口。チャンネルを飛ばしながら、ニュース番組に軟着陸する。リモコンを置き、再び、弁当を食べようと箸を取った、その時だった。


 部屋に流れるキャスターの声。その言葉に楓は愁眉を寄せた。


「はあ~。やっぱり飲もうかな・・・」


 32インチ液晶にデカデカと移り込む鋼鉄の艨艟。DDGを従者の様に従える女王の姿。

 平べったい甲板を持ち、大量の航空機を乗せたシーパワーの象徴が、そこにあった。






「アンタが居てくれてホントに良かったわよ」


「えっ・・・何、いきなり。どうしたの?亜季ちゃん」


 硬直した拍子に、摘まんだじゃが芋がボテっと音を立てて皿に落ちる。利恵は、対面に座る相棒の顔をマジマジと見た。


 午前の訓練を終えての昼ご飯。昨日のおかずも芋。明日も多分、芋だろう。3食芋尽くし。勿論、おかずだけではなく汁物にもゴロゴロと芋が浮かぶ。収穫量の期待できるじゃが芋は、国策指定農産物として北海道を中心に大量に生産されていた。もはや定番を通り越し、鉄板と化している肉が一割、じゃが芋8割、その他1割という新潟航空基地名物、というか既に東日本のお国料理と化している肉じゃが。


 そんな芋尽くし料理に舌鼓をうっている時だった。突然、妙なことを亜季が言い始めるたのだ。


「いや・・・別に深い意味は無いんだけどさ・・・」


 照れた様に茶碗を持ち、ご飯をかき込む亜季の姿を見ながら、利恵は僅かに口元を歪めた。


―――くうーこいつ・・・可愛いじゃないかよー!


 僅かに顔を朱に染めながら黙々と箸を進める、その姿。何時もは野生の猫の様で近寄りづらい空気すら発している相棒が、今は北海道に出張した時に良く見かけた仔リスに見える。虎が猫に、猫がリスに。滅多に無いが極稀に見せるか亜季のか弱い姿。勝気で男勝りのファイターパイロットが可憐な少女に様変わりだ。自然と笑みも大きくなる。


「深い意味は無いけど何さ?」


 笑いを必死に堪えながら利恵は問いかけた。


「アンタが腕怪我して入院している間、何かつまらなかった」


 嬉しそうに頬をヒクヒクさせる利恵の顔を見て、急に表情を不機嫌な物に変えつつも亜季はボソリと呟いた。


「そうなんだ!やっぱ私がいないと亜季ちゃんは駄目だねー」


「そこまでは言ってない!言ってないけど・・・」


 頬が熱いのは、ご飯から昇る湯気だけのせいではないだろう。亜季は何度か首を振った後、利恵から逃げる様に視線を外した。


―――これじゃあ・・・告白しているみたいじゃない!


 居てくれて良かった。自分で言った言葉だが、恥ずかしさがこみ上げてくる。

 亜季は誤魔化す様に箸を置き、机の上に置かれたナプキンに手を伸ばし、口元へと当てた


「再錬成で忙しかったし・・・まあ、やっぱり後席が空だと・・・さ」


 色々あった。初めての実戦。初の被撃墜。何もかも初物尽くし。そして姉との再会。

 利恵の存在がどれほど自分の中で大きかったのかを再確認するのに、それほど時間は必要なかった。


「人機一体っていっても95式は複座じゃない。やっぱり・・・」


 口元を拭きながら、亜季は再び利恵の方を見て、


「やっぱり辞めたッ!」


 そこには箸を握りしめ、キラキラと目を輝かせる利恵の姿があった。その姿に何か無性に腹が立ち、理不尽な怒りが込み上げてくる。


「えええーーー」


 食堂に不満げな利恵の声が響く。


「煩いッ!食事は静かにするものよ。そんなことも出来ないようじゃあ幼年兵からやり直したらいいわッ!」


 頬が熱い。熱過ぎる。夏の訪れまでは、もう少し余暇が残されているというのに・・・。

 亜季は、じゃが芋と玉ねぎをご飯の上に乗せ、かき込んだ。じゃが芋に染み込んでいた煮汁がジュワっと口内に広がり、ご飯と絡み合う。


「亜季ちゃん、亜季ちゃん。続きはッ?続きはッ?」


「あーもうッ!さっさと食べないと午後の訓練に遅れるわよッ!」


 未練がましく言い寄ってくる利恵を追い払いながら、箸を進めた。食事に集中することで恥ずかしさをやり過ごすのだ。


―――国と党、軍に忠誠を!今日もありがとう。共和国万歳!じゃが芋万歳!


 材料の分量はともかく、大鍋で作られた肉じゃがの味は悪くない。それどころかホクホクに煮られ、良く味の染み込んだじゃが芋は、甘辛くおかずの役割を十二分にこなしていた。頻繁に出てくる為、見飽きた感はあるものの未だその魔力を失っていない肉じゃが。ご飯とのコンビネーションは、空になった胃袋相手に未だ無敗。激務に耐える戦闘機操縦士にとっては、空腹という魔物に打ち勝つことを約束された剣に等しい。


「ブー!」


 子供の様に口を尖らす利恵を無視して、亜季は黙々と箸を進めた。


 汁椀を取り、具を摘まむ。今日の味噌汁の中身は、じゃが芋と人参、豚肉の切れ端が少々。これでは汁増し、味付けを変えただけの肉じゃがと変わらないのではと、亜季の頬を嫌な汗が滑り落ちるが、彼女は愛国心でもって、じゃが芋の群れに立ち向かった。こちらには空腹という最強の援軍がある。じゃが芋に負ける様では、西日本には逆立ちしたって勝てはしない。大量の七味を叩き込み、味にアクセントを加え、一心不乱の攻撃を加える。箸を止めるな!振り向いたら負けだ。


 数分後・・・、


―――じゃ・・・じゃが芋万歳。


 熾烈極まるじゃが芋群との戦いは、気恥ずかしを打ち消すには十分なものだった。


「ふ・・・ふー」


 亜季は箸を置きながら大きく息を吐いた。


 膨れたお腹に手をやる。彼女の目の前には、綺麗に空っぽになった食器が並んでいた。お腹を擦りながら、そっと利恵の方を覗き見る。

 色々あった。でも、私は一人じゃない。「こちら側」の人間としてやるべきことをやるだけ。そう考えると楽だった。

 暢気な表情で食事を取る相棒の姿。割り切れる訳なんてない。でも教会の中、一人悶え苦しんだ時とは全然違う。割り切れなくても、何処か納得できている自分があった。


「バーカ」


 小さく呟く。


「んん?何か言った?」


 茶碗を持ち、不思議そうな顔をする利恵の横顔には米粒が付いていた。


「言ってない。さっさと食べる!置いてくよ」


 亜季は笑みを隠し、何でも無いという風にお茶の入った薬缶に手を伸ばした。






『西太平洋上に配備された日米英からなる多国籍軍空母機動部隊は、西進を続け、現在・・・』


「現在は沖縄よ。そこで再編成、分派。中国へのけん制と後は・・・」


 後は、台風と同じだ。基地航空戦力の傘の下、列島をなぞる様に北上、東日本を直撃する。キャスターの言葉を引き継ぐ様に楓は呟いた。

 食卓の上には空になった弁当の容器とビールの缶。焼酎は諦めた彼女は、空になったグラスに水道水を注ぎながら、キャスターの声に耳を傾ける。


 展開情報などマスコミは(民間)知らなくても、軍に勤める楓はある程度は耳に、そして、つい昨日まで沖縄で訓練を行っていた身としては嫌でも目にすることもあった。


 空母7隻。内訳は西日本が2隻、米が4隻。珍しく英国からも1隻出ていた。西側海洋国家群が誇るパワープロジェクションの一手。

 中国を筆頭に猛追を続けるも未だ東側が、その手中に収めることの出来ない最強の切り札。


 それは、まさしく鋼鉄の暴風と呼んで差支えのない戦力だった。中国のけん制に2個任務群が残るとしても、都合5隻が残る計算となる。

 300機もの艦載航空戦力を止めることが出来る国家は、地球上にほとんど存在しない。そして、その極稀な国家の中に東日本は含まれてはいない。


「一週間・・・少なくても二週間って所ね」


 自分が知りうる航空自衛軍の状態と空母機動部隊の位置から、楓は来るべきXデーを予想した。


 ADアドヴァンストイーグルを主力とする特設戦闘航空隊は、本土に帰ってきながらも未だ訓練を続ける予定になっている。限定的なステルス能力を持つADイーグルが、東日本との戦いにおいて大きな役割を担わされるのは云うまでもない。ステルスは攻撃時に最大の効果を発揮するのだから。パイロットと機体。全力攻勢の前に必ず入るであろうインターバル。訓練の規模や密度を考えれば、ADイーグルのステルス能力を維持する為にも、最低限の整備(塗料の再塗布とセントラルコンピューターのチェック)は行われるはずだ。


「でも・・・まさかイギリスが出てくるとはね・・・」


 本職として、民間より軍事情報に触れる機会の多い楓も、英国空母の派遣には少なからず驚きを覚えていた。

 東南アジアにはオーストラリアも含まれる。伝統と老練な思考を併せ持つ連邦の盟主は、この機会を逃すつもりは無いらしい。


 10年後、西側の絶対優位は崩れる。軍事専門家のみならず経済アナリスト達も同じ見解を持っていた。軍事力は経済力の裏付け無しでは成り立たない。圧倒的な人口と莫大な地下資源を武器に発展を続ける中国の躍進。パックスアメリカーナの時代は終焉を迎え、米一極から米中二極、もう少し時代が進めば米中印三極さえ予想されていた。


「窮鼠猫を噛むって云うけど、鼠の方が大きいじゃない」


 テレビに映る空母群の姿。楓は、二足歩行で歩く鼠のキャラクター、世界で一番有名な鼠君が猫を摘み上げる姿を脳裏に浮かべた。


 やるなら今しかない。猫が虎になってからでは遅いのだ。結果的に、東日本の暴走は、恰好の理由に繋がったのだ。米にしてみれば、中国さえも今回の「戦争」に巻き込みたいと考えているのかもしれない。発展を続ける戦力を、今一度叩き潰す。20年の繁栄は保障されても、計画生育政策に起因する高齢化問題や急速な工業化がもたらした汚染や水不足など様々な要因から30年後の繁栄には不安を残す中国。西側諸国にとって、時間は永遠に敵対を意味する訳ではない。可能なら先行逃げ切りを狙ったって良いのだ。築き上げた近代戦力の回復には、膨大な予算と10年単位の時間を有する。何も国土に足を踏み込む必要はない。経済的足かせと時間を奪い取る。平和を謳う西側にしては、積極果敢ともいえる軍事制裁の決定も、そう考えると、ある意味納得がゆくものだった。


「日本人は誰も戦争なんて望んじゃいない」


 皮肉だった。先に手を振り上げた東日本でさえ、これ以上の戦いを望んでいないというのに・・・。

 西日本は云わずがもだ。戦争を忌避しすぎたことが今回の紛争の遠因でもある。


 未だ現場に確たる情報は降りてきていない。それに国連は、相変わらず紛糾を続け、収束する気配を見せてはいない。


―――示威行動の可能性は否定しきれない。だけど・・・。


「まさか・・・ここまで出てきて何も無しっていうのは考えづらいわよね」


 テレビ画面に目をやりながら、楓は淡い期待を打ち消すかの様に、水を一口飲んだ。


 イギリスが動いたということは、遠からずEU、欧州全体が、この紛争に頭を突っ込むだろう。現にドイツは、沖縄への航空部隊派遣を打診してきている。

 経済的に余力があると言い難い欧州勢の積極的行動。軍事行動に膨大な予算が必要になるのは、もはや言葉にする必要さえない。

 初動全力は軍事作戦の基本だ。巨大な戦力がダイナミックに動き始めていた。


 本気なのだ。誰もが本気で、東日本の火遊びを「戦争」へと転換しようとしている。


「これは一体、誰が為の戦いなのかしら?」


 分かり切っている。だけど、楓は呟かずにはいられなかった。


 アジア圏、いやもっと大きな物を賭けての代理戦争。


 脳裏を走る幼い少女の姿。建前はあっても、その戦いに正義はない。

 グッと握りしめられる拳。ギザギザに走る傷跡。楓は自分の右手に目をやった。


 多くの物を犠牲にして、今の自分を作り上げた。守る為に力を求めた。求めたはずだった。それなのに・・・、


「亜季・・・私はどうすればいいの?」


 こんな時に限って誰も居ない。頼るべき友人も己の背を預ける恋人も。


「長門・・・」


 一人しかいない室内。小さな嗚咽の声が漏れた。






「不快じゃなかったか?」


「いえ。お父様の言動にはなれておりますので・・・」


「そう言ってくれると助かる」


 その顔に微笑を浮かべながら応える柴田明美の方を見ながら、源田光則もまた笑みを浮かべた。

 自信家でプライドの高い光則ではあったが、人並みの心配りぐらいは心得ている。


 新潟市郊外に設けられた要人用邸宅の一室。客室のベットに腰かける明美の顔は、少しやつれていた。

 ベットサイドに設けられた冷蔵庫からグラスと氷、炭酸水の瓶を取り出し、注ぐ。


「酒気はもう十分だろう」


「はい。先ほど十分頂きましたので・・・ありがとうございます」


 シュと云う気泡の流れる音とが明美の耳を打つ。光則から渡されたグラスを、彼女は礼を言いながら受け取った。

 そのまま一口、グラスを傾ける。明美の喉を炭酸水の心地よい刺激が貫いた。重たい食事に重たい会話。無理やり進められた酒も不快さを募らせるだけ。


 無言でグラスを傾ける明美の姿を見ながら、光則も自分のグラスに炭酸水を注ぐ。


―――よくもああ人を呪えるものだ。


 藤堂大将や明美の父との権力闘争に敗れ、軍中枢を追われたとはいえ、未だ盛んな父親の姿を脳裏に思い浮かべながら、光則は苦笑を浮かべた。


 先ほどまでのやり取りが思い返される。柴田の娘が何の用だ!から始まり、食事が終わるまで延々と続いた嫌味の一大攻勢。父と彼女が顔を合わせるのは、これが初めてではないと云うのに、会う度にこれでは明美も堪らないだろう。サイドテーブルにグラスを置きながら、光則は明美の肩を抱き寄せた。


「本当にすまないと思っている」


 明美の肩口に顔を埋める様にして言う。


「貴方に惹かれた時から・・・いえ、出会った時から苦労させられるのは覚悟していました」


「やっぱり怒っているんだな」


「私だって人間です。顔は笑っていても、心の中では思う所は沢山ある」


 短く切られた彼女の髪が光則の鼻を掠める。 拗ねた様に言いながら明美は顔を背けた。


 親の喧嘩を子供の間まで持ち込んでほしくは無い。まあ、光則を自分の実家に連れて行った時は、敷居さえ跨げなかったのだから彼の父ばかりを責める訳にはいかない。幼き頃は、東日本空軍の礎を築いた偉大な父達の背を眩しく、誇らしげに見上げたものだが、彼らが優秀だったのはあくまでも軍人としてだけだったらしい。父親として見るならば、そこらの幼児にも等しい。理解云々の前に拒絶反応では前に進むことも出来なかった。


―――お父様の馬鹿・・・


 非民主主義国家における軍の発言権は大きい。言葉にあがらうことは出来ても、銃口にあがらうことが出来る者は少ないからだ。

 ボールの上にトレイを乗せ、更にその上でタンゴを踊るが如く不安定な権力基盤。党と軍の勢力図は、日夜猫の目の様に激しく入れ替わりを見せている。

 建国から半世紀。一組織が腐敗するのには十分過ぎる時間といえよう。清廉潔白な組織など西側にだって存在しない。


 そんな中、敵対有力者の息子と逢瀬を重ねることが、父とその組織に影響を与えぬ訳がなかった。

 囁かれる有象無象の言葉。足を引っ張りたい者は無数に、落とし穴は、それこそ星の数ほど掘られている。


 どうすれば良いのだろう?光則のことを諦める。そんなことは出来ない。彼女は彼のことを愛していた。


「でも・・・ひゃっ!」


 室内に響く嬌声。


「あ・貴方は、いきなり何をするんですかッ!」


 悪戯が成功した悪餓鬼の様に、ニヤニヤと笑う光則の方を振り向きながら、明美は怒りの声を上げた。

 ゆ・油断したー!顔が酒気とは別に真っ赤に茹で上がる。短い髪の下、そっぽを向く彼女のうなじを光則が吸い上げたのだった。


「何って・・・口づけしただけだろ。ねんねじゃないんだ。今更、それぐらいで怒るなよ」


「あ・明日だって訓練があるんですよ!跡が残ったらどうすんですか!?」


 飄々とする光則の態度に、明美は思わず立ち上がって叫んだ。立ち上がりながら、首筋に手をやる。


 首筋に残る鬱血した跡。隠すにはマフラーでも巻くしかないが・・・パイロットはともかくレーダー管制士官で巻く者はほとんどいない。かく云う明美もマフラーを巻く習慣を持たない。そんな自分が、いきなりマフラーを巻くというのも不自然なものだ。第343戦闘航空隊は腕はともかく、気風は西寄り気質。特に光則が隊を掌握してからは、その傾向が強い。東日本最強戦闘機部隊も蓋を開けて見れば、扱いづらいベテランの吹き溜まり。そんな愚連隊の中、不自然にマフラーを巻く女ともなれば結果は火をみるより明らかだ。


「そんなに怒るなよ。別に悪いことじゃないだろ?」


 大きく口元を歪めながら、光則は言った。目に愉悦の色を浮かべながら。


「貴方はッ!」


 どうして・・・何時も何時も考え無しに動くのだ!募る苛立ちが、明美を突き動かしていた。

 先ほどまでの彼の父とのやり取り。こんなに愛しているのに、なぜ認められないのだ?光則の態度に怒りを覚えた彼女は、叫びながら右手を振り上げた。


 ベットに腰かけたままの光則の頬を張り倒す。そのつもりだった。だが・・・、


「は・・・放して下さい」


「嫌だ。お前は俺の女だ」


 振り下ろされる右手が光則に掴まれる。そのまま引き寄せらる体。

 アッと思った瞬間には、くるりと体が入れ替わり、悲鳴を上げるもなくベットに押し倒される。


「退いてください」


 己の右腕を掴んだまま、自分の上に馬乗りになる男の目を見ながら、明美は言った。


「断る」


 光則の腕が、明美の胸に触れる。触られた瞬間、ひゅっと明美の口から息が漏れた。


「お前は常に考えすぎる。ああなったらどうしよう?こうなったらどうしよう?確かに堅実だ。だが、それではつまらないだろう」


「考えて何が悪いんですか?私はこんなに本気なのに・・・」


「俺だって本気だ。親父どもには云わせておけばいい。お前と俺には関係ない」


「関係ない訳がないじゃないですか!?」


 叫びながら明美は、光則の手から逃げる様に身体を捩らせた。


「関係ない訳がない。どうして・・・どうして・・・貴方はそんなに・・・」


 明美が体を捩らせる度に、シーツに刻まれる皺が深くなる。彼女は空いている左手で顔を覆った。いつの間にか、自分を見下ろす光則の顔が大きくボヤけていた。


「私達は政敵同士よ。何時までもこんな関係が許される訳がないじゃない」


「誰が許すんだ?誰が誰に許しを請う?」


 声を殺して泣く明美の首筋に顔を埋めながら、光則は言った。


「間もなくこの国は変わる」


 光則の腕の中、明美の体がビクリと大きく震える。


「大きくだ。俺とお前だけじゃない。全てが変わるんだ」


 宣伝省を中心とする国営放送や新聞など、国内メディアは、未だ威勢の良いプロパガンダを流し続けていたが、東日本が追い詰められてつつあるのは誰の目にも明らかだった。

 外交面での失敗を戦争で取り戻すことは難しい。例え、その逆はあったとしても。迫りくる膨大な敵戦力。祖国に、それを防ぎきる力はない。始まれば何もかもが変わる。全てが。


 鉄火より生まれ、鉄火に消える。


 半世紀前の戦争によって生まれた亡霊(東日本)は再び、その身を炎で焼かれようとしていた。


「義務は果たす。だが、その先は・・・」




―――自由だ。


 光則は最後の言葉を飲み込み、恋人を抱く己の腕に力を込めた。










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