Double
乾いた空気が頬を撫でる。湿気を含んだ海からの風も、ジェットエンジンの発する熱の前では無力らしい。
春の気配と冬の残滓が入り混じり、猫の眼の様に変わる天候も、張り出した高気圧の傘の下、珍しく雲一つない青空を見せていた。
西日本より一歩遅れ、春を迎えつつある新潟。
幾枚ものブレードが回り奏でる高周波が、喧しいほどの音を立てていた。
誘導路を抜け、主滑走路へとタキシングしていく95式の姿を、亜季は目で追った。
米帝や西日本軍が装備する戦闘機とは違い、柔らかな曲線で組み上げられた優美な翼の下には大量の誘導弾が鈴なりにぶら下がっていた。
「・・・短い休みだったわね」
自然と言葉が、彼女の口から漏れ出た。
高周波が爆音へと変わる。ビリビリと大気が鳴動し、音が衝撃となって亜季の体を叩いた。
時間にして数秒もない。大地を蹴った2機の95式が空へと昇る。戦闘上昇。耳鳴りだけを残して、蒼空へと消えていく。
―――今頃、西日本の基地からも同じように戦闘機が上がっているのかな・・・
亜季は、100キロ単位で離れた先でも行われているであろう同じ風景に想いをはせた。
再び開始されたつばぜり合い。だが、今度は向こう側も気の入れ方が違う。互いに殺意を向け合い、元は一つであった空を舞台に生死を賭ける。
戦うことに疑問なんてない。ないはずだった。でも・・・亜季は、未だ空を震わせる95式の鼓動に、己の心まで揺らぐのを感じた。
国家に忠誠を誓い、東日本の為に戦う。名も知らぬ隣人の為に戦う。その為に己を律し、今まで技量を磨いてきた。
―――この国を少しでも良くする為に戦う。みんなを守る為に戦う。でも・・・私の・・・
グッと拳を握る。それは軍人にとって禁忌ともいえる感情の芽生えだった。亜季は、考えを打ち消す様に大きく頭を振った。
「亜季ちゃん・・・?」
自分の名を呼ぶ声に、亜季は空に上がる95式の姿から声の方へと視線を向ける。
数歩先、そこには共に乗機へと向かっていた利恵が、不思議そうな表情を浮かべながら、自分の方を見ていた。
気がつけば、足まで止めて空に見入っていたらしい。
「ごめん。何でもないよ」
怪我から復帰した利恵との久しぶりのランデブ(訓練飛行)ー。今日の主役を蔑ろにする訳にはいかない。
沈んだ気持ちを無理やり切り替える。亜季は謝りながら、再び乗機へと足を向けた。
「なんか最近、亜季ちゃんボーっとしてること多いよ。しっかりしてよ!」
もうーっと牛の様に溜息をつく相棒を黙って小突きながら、95式に歩み寄る。
開戦劈頭に撃墜された機体に変わる新たな乗機。駐機場には、格納庫から引き出されたばかりの大型複座戦闘機が、二人の到着を今か今かと待っていた。
「甲1装備、発進準備よしッ!」
ピンと呼ぶよりは、小旗といった方がしっくりくる安全ピンの束をこちらに見せながら、機付整備員が歩み寄る彼女達の姿を見止めるや敬礼する。
「ご苦労。確認する」
答えながら答礼。亜季は整備員の差し出されるボードを受け取った。そのボードには、今日の装備など機体状態が書かれた用紙が挟まれていた。
ブリーフィング(出発前説明)で受けた説明と同じ数値であることを確認、横から覗きこむ利恵と頷き合う。
機体に掛けられたラッタルを素早く登り、後席へと身を滑り込ませる利恵の姿を見送りながら、亜季は機体の周りをゆっくりと回った。
機首のカナード翼から、空気取り入れ口。大きな主翼の下を抜け、エンジンノズル周りを確認していく。
動翼に軽く触れ、誘導弾の安全ピンは全てが抜かれているのを確認。点検ハッチは全て閉められているか、油染みなど異常な汚れ、破損部はないかを己の目で確かめるのだ。
APU(補助動力装置)の控え目な駆動音が、微睡から覚めた95式の呻り声のように聞こえた。今頃、コクピットに先乗りしている利恵も自分と同じ様なことをやっている。
電子の御使いとして、RIOの専門教育を受けている彼女が、様々な自己診断プログラムを走らせ、機体システムに異常が無いかを調べているのだ。
誘導弾異常なし。推力偏向ノズルも。反対側に回り、同じ様に動翼と誘導弾を確認。最後にカナード翼に軽く触れる。
「利恵ッ!?」
「こちらも異常なし」
声に応える様に、コクピットから突き出される拳は親指が立てられていた。
フンッ!久しぶりだからって恰好つけちゃって・・・米帝みたい。
利恵の返事に、亜季は僅かに口元を歪めながらボードの書類にサインし、整備員に渡した。
後は機体に上がり、動翼確認して終わり。無線通信機の確認は利恵が澄ましているだろうけど・・・空へ上がる為の呪文は意外と長い。
亜季は機体に掛けられたラッタルに手を掛けた。
細く、か細い軽合金製のラッタルが、空へと続く階段の一歩。ラッタルに手を掛けたまま亜季は空を見上げた。
雲一つない晴天。望んで得た自分の場所。
「今日はとっても晴れてるよ。お姉ちゃん」
飛ぶことへの歓喜。例え、それがどんな空であっても・・・。現金な自分が少し嫌になる。
胸のポケットに入れられたドックタグ。晴れ渡った空とは裏腹に未だ彼女の心は厚い雲に覆われていた。
春というより初夏といってもよい陽気。
4月半ばの沖縄の気候は、未だ肌寒さを残した本土とは裏腹に暖かな気温を誇っていた。
その気候を体現するかの様に現地の部隊、基地をシェアしあう海上自衛軍の制服は、既に彼らの特徴でもある真っ白な制服に変わっている。
「暑い・・・」
時計の針は6時を回り、7時に迫ろうとしていたが、未だ日の残滓が残る沖縄の空は明るさを残していた。
基地内に設けられた隊内クラブの中、カウンターにだらしなく顎を乗せながら楓は呟いた。
緑色の飛行服の色が変わるほどではないが、汗で湿った下着が身じろぎする度に肌に張り付き気持ち悪い。
鹿児島から約650キロの位置に存在する沖縄。
関東から飛んできたばかりの身としては、なかなか気候に身体が順応しない。
すぐ隣に東日本という非友好国(今は敵国だが・・・)を抱える西日本にとって、沖縄は軍事地勢状、唯一といってよい聖域であっても暑い寒いは話が別だ。
「どうぞ」
声とともに、かりゆしを纏った初老のマスターがゴトリと音を立ててグラスを置く。
「ありがとう」
楓は礼を言いながらノロノロと上体を起こした。びっしりと水滴の浮かんだグラスを手に取る。
敷かれていたコースターには、店名とご当地モンスターであるシーサーが描かれていた。
―――メテオウイングとは・・・また変わった名前ね。隕石の翼って何よ。
チラリとマスターの方を眺める。店主の変わったセンスに心の中で苦笑いを浮かべながら、本土のビールに比べ薄味に感じるオリオンビールを一気に流し込んだ。
喉が焼ける様な酸味はない。何処か物足りなささえ感じる。
「んッ・・・んッ・・・んー!生き返・・・るには足りないわね・・・。マスター、御代わりッ!」
発泡酒じゃあねーんだぞッ!一人で呆けながら楓は御代わりを注文した。
最近、飲む暇もなかった。苛烈を増す飛行訓練に飲んでいる時間は勿論のことながら、飲みに行く体力自体残っていなかったのだ。
午前午後、時には夜も飛ぶ。1日6時間も飛べば、酒よりベットが恋しくなる。
アルコールの一滴は血の一滴。底なしの呑兵衛という訳ではないが、楓もまた超体育会系に生きる戦闘機パイロットの一人だった。
「今日は飲むぞ・・・飲んでやるッ!」
気勢を上げながら楓は腕時計に目をやった。残された時間を再確認。時間は・・・あるッ!
明日の飛行訓練は夜間のみ。待機室に顔を出すのも昼からでいいと云われていた。アルコール制限を考えても、2230の消灯時間まで十分に飲むことができる。
休みも外出も許されない身としては、この数少ない休息時間を活かさない手はない。
目の前に置かれた豆腐チャンプルー。豆腐と野菜を炒めたものに箸を伸ばし、口一杯にほお張り、ビールで流し込む。
ニンニクとゴマ油によって香ばしく炒められたチャンプルーは、酒の御伴として文句のないシロモノ。グラスも箸も良く動く。
否が応にもピッチが上がる。一杯目は物足りなさからムッとしたが飲みやすい。ミネラルウォーターみたいに飲める。
「ケ・・・フッ・・・最高だわ」
脂っこい料理と薄味のビール。考えてみれば短期決戦には悪くないチョイスだった。
こみ上げてくる満足感。一緒に上がってきたゲップを抑え込みながら楓は一人頬を緩めた。
デブリーフィングが終わるとともに、借り受けた自転車を飛ばし、シャワーを浴びる手間をも惜しんでやって来た甲斐があったというもの。
訓練訓練で疲れ切った体に、アルコールが染み込んでいくのが実感できる。
―――さすがは・・・沖縄。侮れない。
先ほどまで不快極まりなかった気温の高さも、今では酒を上手くする一つのエッセンスに思えてくるから不思議なものだ。
「んッ・・・ん~!マスター、御代わり。それとグルクンのから揚げと卵焼き」
二杯目を撃墜し、更に地上目標をも破壊。次の目標を指示する。
今日は弾も目標も・・・更には燃料も潤沢にある。楓は、だらしなく顔を緩めた。
誰も座っていない隣のスツールを見る。久しぶりの単機飛行。口煩いのもいない。
「どうぞ」
相変わらず愛想の欠片もないマスターが無愛想にグラスを置く。だが、それも気にならない。
モシャモシャとキャベツをほお張る。早くて安ければそれで良い。人間擦れてくると有料スマイルは必要なくなるのだ。
グラスに手を伸ばして一口。口内の油分を洗って、再び料理をモシャモシャ。皿とグラスの往復をひたすら続ける。
敵増援として現れたグルカンも卵焼きも敵ではない。豆腐チャンプルーに止めを刺した余勢を駆って一気に蹴散らす。
料理が出され、胃の中に消えるまで時間にして僅か5分。職業病といってしまえばそのままだが、会話すべき相手もいなければこんなものだ。
「次は~っと・・・」
少し靄のかかった目で、メニューボードを見る。4杯目のオリオンビールを注文し、次の目標の捜索を開始。
ハイピッチと疲労から何時もよりアルコールの回りが早い様な気がした。
「てびち下さーい」
類別・・・豚。目標成分コラーゲン・・・美容に良好。攻撃開始。
次の獲物に狙いを定めた楓が手を振りながら声を上げた、その時だった。
「コラーゲンたっぷり。油脂分もたっぷり。差引ゼロッ!」
「・・・ゲフッ!」
元気の良い声とともに背中に衝撃が走る。楓は本気で息を漏らした。
地上でも後方見張りが必要なのか・・・背中に走った一撃は、口の中が空であって良かったと心底と思うほどのものだった。
飲んでいる時に喰らっていたら、今頃ずぶ濡れになったマスターに店を追い出されているだろう。
自分より更に短く切られた髪に日焼けした肌。
暫く見ない内に、元気な少年の様な出立になっている同期の姿をジロリッと睨みつける。
「久しぶりの挨拶にしちゃあ・・・上等じゃないのよ!?東雲~」
「あら?・・・あらあら・・・楓は同期のことを名前で呼んでくれないの?寂しいなー私」
「うるさいッ!」
ハスキーな声には全く似つかわしくない、両手を胸にクネクネと身体を揺するぶりっ子ポーズをしてみせる東雲梓の頭を叩きながら楓は不機嫌そうに叫んだ。だが、
「よけるなッ!」
「私、痛いのは趣味じゃないのよ」
宙を切る右腕。つれない同期からの一撃を軽やかな躱しながら、梓は楓の隣に腰かけた。
その上、勝手にカウンターに置かれたグラスに手を伸ばし、中身を飲み干す。
「く~沁みる~!」
「沁みるじゃないわよッ!沁みるじゃ・・・」
「同期の間柄じゃない。ケチケチしないでよ。あっ、マスター。ビール一つ!」
楓の抗議も何処吹く風にと、パチンと音を立てて割り箸を割った梓は、タイミングよく出てきた豚足に、これまた勝手に箸を伸ばした。
「ああー私のッ」
醤油と泡盛をベースに時間をかけ、柔らかく煮つけられた豚足は箸でも簡単に崩れる。
沖縄では主流のシンプルな味付けとは違い、肉体労働者(自衛軍人)の為に濃い味付けになった豚足は、酒の摘みとしても、ご飯の御伴としてもどちらでもいける。
抗議の声と伸ばされる手を、澄ました顔と肘でガートしながら、梓は飴色に照かる皮をつるりと剥いで口へと運んだ。
「うん・・・柔らかい。やっぱり沖縄っていえばコレよね」
コラーゲンたっぷりの皮と柔らかいお肉も頂く。ブヨブヨとした舌触り。ゼラチン質が大半だが慣れると悪くない。
骨にしゃぶり付く様にしてジュルジュルと吸う。豚特有の臭みも生姜と泡盛によって中和されまったく気にならなかった。相変わらずマスターは良い仕事をしている。
醤油の辛味に乾いた喉を軽いビールで洗い流す。うん、最高だ。やはり重労働の後はこうでないといけない。
「他人のモノを勝手に奪って浸ってんじゃないわよッ!」
隣で負け犬の遠吠えが聞こえるが無視。
丸い小骨を皿へと出しながら梓は意地の悪い笑みを浮かべた。
―――これぐらい良いじゃない。昼間は好き放題やってくれたんだから。
日中に行われた異機種空戦訓練(DACT)の光景が、梓の脳裏を過ぎる。
「マスター、豚足二つ御代わりね」
梓は新たな注文をしながら、自分の脇の下から見苦しく伸ばされる手をペシリッと叩いた。
晴れていてれば、どこまでも青く澄んだ世界が広がるのに、愚図ると途端に分厚い雨雲に覆われる。
空中に身一つで座っているかの様に感じるF-2改スーパーヴァイパーのコクピットシートに背を預けながら、梓は小さく溜息を吐いた。
南の空は気まぐれだ。蒼空を白いブッシュが彩る。右、左。そして上空。機体を傾け、下方も覗く。
今日の相手は、限定的とはいえステルス機能を持つアドヴァンストイーグル。レーダーばかりに頼る訳にはいかない。
最後は自分の眼が生死を決める。空が戦場になって以来、半世紀以上の歳月が過ぎていたが、未だこのルールは変わってはいなかった。
パイロットスーツの襟で首元が擦れて痛む。横目でレーダー画面を確認しながら索敵を続ける。
想定を受け、スクランブル発進。邀撃を開始。より実戦的な訓練を行う為、分かっているのは機種と機数、訓練空域だけだった。
DCからの指示もない。自分達で探せということなのだろうか・・・。訓練前のブリーフィングでは説明がなかった。
―――指揮管制通信妨害下(C3CM)にあるのか、それとも防空網制圧(SEAD)でレーダーサイトが破壊されたことになっているのか・・・どちらにしても不利なのには変わりない。
「COBRA02 Contact(発見したか)?」
ザッザッとジッパーコードが二回。コードの意味するのは「NEGATIVE(否定)」
「03、04?」
編隊を組む列機に問い掛けるが、3番機、4番機ともに反応は2番機と同じだった。
応答はNEGATIVE、未だ敵機の姿を見つけられない。
梓はコクピット前面、3面設けらえた多機能表示装置に目をやった。
中央下部のパネルに設定してあるレーダー画面。何度かモードを切り替えてみるが反応がない。
薄緑色の光を湛えるレーダー画面には、画面上を右左へと往復するスイープライン以外、何も映し出されていなかった。
スーパーヴァイパーの機首に収められたJ/APG-1は、度重なる改修の末、初期型とは比べ物に為らないほどの対空戦闘能力を持っている。
しかし、そのJ/APG-1の能力を持ってしても敵機を見つけることができない。
―――嫌な予感がする・・・
腰がムズムズする。戦闘機パイロットとしての勘が梓に危険を告げていた。
「03、04 Distance TWO(距離を開け)」
梓は編隊の間隔を大きくするよう指示を出した。
現在、レーダーを回しているのは、COBRA01と02(梓と僚機)のみ。03と04は電波封止を続けている。
典型的なハンター&キラー。猟師と猟犬の役割を分けることにより電波発振を抑え、被探知の可能性を出来る限り下げるのだ。
梓は口元を僅かに歪めた。
何も指示を出していないのに僚機である2番機が機体間隔を狭めてくる。
2機編隊を単機へと見せるフェイク機動。打てる手は全て打つ・・・例え、それが手遅れであったとしても。
最後は自分の眼が決める。空戦におけるルールは変わっていないはずだった。
梓の悪い予感は当っていた。
「索敵範囲外から一方的なミサイル攻撃。イーグルは何時からラプターモドキになったのよ」
カウンターの上には、食い散らかされた豚足の残骸が転がっていた。
赤く火照った頬を膨らませながら、梓は隣に座る楓の方を酒気に淀んだ目で睨みつけた。
「AWCSの支援を受けて接近。最後はIRSTで狙いをつけてグサリッですか!あーあイーグル乗り(イーグルライダー)は何時から臆病者の集まりになったのかなー」
「私達だって好きでこんなことしてる訳じゃないわよ!それに苦労だってしてるのよ。いくらアドヴァンストのRCSが低いって言ってもそれは限られた方位だけだし・・・」
自分の横腹を突く箸を払いながら楓は憮然と答えた。
「へーへーそうですか。そりゃそうですよね。相手の下着の色まで分かってるんだ。入れ放題、やり放題でしょうよッ!」
「ば・・・馬鹿ッ!何言ってんのよ!」
アルコールとは別に、楓の顔が朱に染まる。
「何が違うのよッ!無抵抗な相手を一方的にじゅーりんしちゃってさ!」
「こ、高度な戦術運動の末の成果よ!」
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。動揺を隠す様に楓はグラスの中身を喉に流し込んだ。
「あれはあれで立派な空戦機動よ。空戦機動!」
空になったグラスを梓の方につき出す。
「分かってるわよ。そんなこと。でも心意気が気に喰わないッ!」
レーダーの欠点を付くのは云うほど簡単なことではない。絡み酒を続ける梓もそれは分かっていた。
簡単に出来るのであれば、開発するのにも性能を維持するのにも莫大な予算がかかるステルス戦闘機なんて生まれてこない。
敵機のレーダー特性は当たり。AWCSや部隊間データリンク等の高度な通信インフラに、レーダーに変わる索敵方法も必要となる。
装備とそれを操る兵士の技量。クリアーしなければいけないハードルはどれも高く、容易に準備できる物など一つもない。
氷を放り込み、泡盛とコーヒーを注ぐ。分かっている。分かっているが認められない。
負けず嫌いは戦闘機パイロットの職業病の様なものだ。ムスッとした表情のままグラスを返す。
実際、楓を含めアドヴァンストイーグルを操るパイロット達の腕は相当なものだった。
ステルス能力やIRSTなど新装備の特性を理解し、ステルス戦に適応した戦術に習熟している。
ドックファイトならともかく、自分達の受けた様な本格的なステルス戦闘を行われては、教導飛行隊であっても嬲り殺しを間逃れないだろう。
―――ムカつくッ!
悔しい。絡み酒ぐらいでは怒りが収まらない。
スーパーヴァイパーの空戦能力は低くない。それどころか単純な機動力でいえばイーグルに負けないものを持っている。
そのスーパーヴァイパーが手も無く捻られたのだ。撃墜を教える管制官の声が梓の脳裏に蘇る。
「どんな魔法を使ったのよ?」
各飛行隊に分散配備されていたアドヴァンストイーグルを集中配備し、専門的に運用する楓達。
機械式のパルス・ドップラーレーダーではなく、最新鋭のAESAレーダーを持つヴァイパーの眼をさえも欺くステルス戦闘機部隊。
魔法という言葉に楓の頬がピクリと動いた。
「私達だってグアムでF-22とやりあったことがある。確かにあれはバケモノよ。でも、アドヴァンストは違う」
梓は教えるまで逃がさないとでも云うかの様に楓の腕をガッシリと掴む。
確かにパルス・ドップラーレーダーは、その特性上、真横または垂直方向に高速で進む目標はロストしやすい。
でも、それはフィルタリングの強い低高度での話だ。高度1万フィートにグランド・クラッタはない。
自動、手動問わずにレーダーモードは切り替えながら捜索を行った。自分達の技量もヴァイパーのミッションコンピューターもそこまで愚かではない。
「教えなさいよ。一体貴女達はどうやったの?」
「駄目」
その言葉に、腕を掴む梓の手にギュッと力が入る。
楓は腕を掴まれたままグラスを軽く回した。グラスの中に浮かべられた氷が同じ様に回る。
「貴女の言った通りよ。自機と敵機の性能を知り、後は長所で短所をつくだけ。アドヴァンストだってやり方次第でラプターの真似事ぐらいは出来るってことよ」
「それでも・・・」
「魔法は分からないからこそ魔法でしょ」
楓は梓の方を向き、小さく笑った。
「知ったら・・・単純な現実が残るだけよ。魔法なんて物は何処にもない」
「楓・・・」
梓は笑う楓の顔を見て息を飲んだ。
そこには、先ほどまで陽気に笑い、ふざけ合っていた同期の姿は無かった。
「魔法ね・・・。魔法なんてものが、この世に本当に存在するのなら・・・私は・・・」
酒気に当てられ朱色に染まった頬とは裏腹に、楓の瞳には暗い光が湛えられていた。
―――歴代指導者の中でも最も戦うことに反対していた自分が、この様な決断を下すことなるとは・・・。
その場所は、春の陽気を湛え、穏やかな午後を迎える外とは違い、ピリピリとした張り詰めた空気が流れていた。
決断することの重さ。
西日本首相坂秀雄は、眼前に置かれた口述原稿を見ながら身の震えを抑えることが出来なかった。
全ての根回しは、すでに済んでいる。国民の代弁者たる議会が選択し、最後に自分が決める。
国会議事堂の中での答弁など茶番に過ぎない。一種のショーケース。外面を取り繕うポーズでしかないのだ。
指導者が国民の眼に曝される時、指導者が国民へと声を届ける時、国家という大船は時代の潮流へと大きく舵を切る。
明日ではなく、もっと先の未来の為に。今を生きる者達の為ではなく、その子らが幸福な時を送れる様に。
坂は、自分を納得させるかの様に、もう一度原稿に目を落とした。
不当な軍事的恐喝に屈せず、西日本は同盟国と結束し、北アジアの安定化に努める。その手段の中には、『能動的軍事行動』をも含む。
何度読み直しても変わらない。端的に云えば、原稿は東日本への軍事制裁の表明に他ならなかった。
今だけを考えれば、東日本に対する譲歩もあり得る。だが、その譲歩が、もはや未来に何も生み出さないことは誰の目にも明らかだった。
西日本は、これまでにも十分な誠意と献身的ともいえる譲歩をみせてきたのだ。それにも関わらず東日本は、今回の暴挙に打って出た。
生命より尊いものはない。仮に生命より尊いものがこの地球上に存在するのなら、それは少なくても他人に教えられるものではない。己が見つけるものだ。
殺し合いでは何も変わらない。現状が良い訳ではない。
しかし、力を持って対価を支払わせることで何が変わるというのか。
例え得る物が無くても、失う物が無いのであればそれは是ではないのか。
揺らぐ心。坂は限りなく彷徨う思考をまとめ切れずにいた。
復讐の連鎖。大国が力で持って押さえつけていた冷戦時代の終焉は、争いの尺度を変え、より深い混沌を生んだ。
民族、宗教、歴史観。血は血で抗うしかないのか。争うことは、人の遺伝子に刻み込まれた原初の呪いだとでもいうのか。
助けを求めるかの様に、坂は誰もいない執務室を力無い瞳で眺めた。
何の変哲もない室内。自分が人払いし、一人であることを選んだ場所。
「弱い者だな・・・」
坂は小さく呟いた。
意見は聞く。だが、決断は己自身の手で下そうと決めていたというのに・・・。
これでいいのか?と問いかけたい。誰でもいい。お前は正しいのだと言ってもらいたい。
原稿から目を上げ、坂は瞼を閉じた。瞼を閉じたまま天井を見上げる。
―――10年の平穏が、100年の遺恨を残す。銃弾で平和は作れない。守ることもだ。それは歴史が証明している。
自分の信念は変わらない。いくら考えても答えは出なかった。
未来を築くために、力の放棄を選んだ。話し合いでの解決を望んだ。本当のギリギリまで譲歩も続けた。
話し合う相手がいなければ進まない。一方的な善意は効果を為さない。外務大臣の言葉が、坂の脳裏に蘇る。
戦争を望む声。そして、戦争を拒否する声。どちらが正しいのか。
「認めなくてはならないのか・・・血を流すことを」
己が平和の代償として、礎として人身御供となれと言うのなら喜んでこの身を捧げよう。
決断するのは自分。だが、血を流すのは己ではないのだ。
善意が胸を掻き毟る。平時の政治家であれば美徳となっていただろう人としての善意が坂を苦しめる。
人でない者に国の舵取りはできない。だが、人で在り過ぎる者もまた国の行く末を決めることはできない。
個人の幸福を追及することと、国として社会全体の幸福を追及することは方向性こそ同じであっても、その道が交わることは決してありえない。
大いなる矛盾だった。個では生きれない為に集団を形成したはずが、その集団が、全体の利益の為に個を切り捨てる。
「・・・この椅子に座るまで分からないとはな」
坂は呟きながら、自分の座る椅子の肘掛を撫でた。
国の最高指導者としての重責。この椅子に座り、自分と同じように思い悩んだであろう先達たちの苦悩。
なぜこんな簡単なことが分からない?政治家を志した頃から常に自分の中にあった想いだった。
―――分からなかったのではない。分かり過ぎたからこそ動けなかったのだ。
西日本7500万人の想いが鎖となって、己を縛る。いや、東日本もあわせると1億を越える人間の運命が、坂個人の決断に掛っているといっても過言ではなかった。
戦争になれば、多くの人が死ぬ。北アジアの安定の為に。将来への遺恨を残さぬ為に。綺麗事ならいくらでもいえる。だが、
『西日本の未来の為に死んでくれ』
それが偽りのない本当の言葉だ。国の将来の為とはいえ、自分の子を喜んで差し出す親がいるだろうか。その逆もまた然り。坂自身、二人の子を持つ親だった。
半世紀前に侵した過ちを再びこの国は犯そうとしている。自分は、この罪を甘んじて受け入れることができるのか。大義は此方にあると叫ぶ野党議員の声が不意に脳裏に蘇った。
「フッ・・・フフフ。大義か・・・大義で人を殺せるのか?」
自虐的な笑いがこみ上げる。
机の上に置かれた電波時計が小さく鳴った。時間。
ゆっくりと椅子から立ち上がった坂は執務室の扉へと歩いた。
できるのかではない。受け入れなければならない。
それが、指導者としての在り様。決断の時は、直ぐ傍まで迫っていた。