Cross heart
―――そんな目で私を見ないで。
その瞳に、悲しみの色を宿した少女が見上げてくる。
―――やめて!もう・・・やめてよ。
知らず知らずの内に自分の胸を抑えていた。呼吸が熱い。過去が現在を苛む様に、一息吸う度にズキズキと痛む。
少女の胸に抱かれた熊の人形。人形の首に巻かれた首輪には、平仮名でリゲルと書かれていた。
見覚えのある字。一目で子供の字と分かる丸々とした文字が躍る。
「たすけて」
少女の口が動いた。既視感。どんなに耳を傍だたせようとも少女の声が聞こえることはない。
だが、何も聞こえないはずなのに、眼前に立つ少女が何を言っているのか不思議と分かった。
「たすけて・・・たすけて」
胸に抱くリゲルを両手で差し出しながら、また少女の口が動く。
聞こえない。何も。こんなに近いのに。こんなに傍にいるのに、少女の声が自分の耳に届くことはない。
ズキリとまた胸が痛む。
「たすけてよ・・・おねえちゃん。むかえにくるっていったじゃない。すぐにくるって」
少女の頬を零れ落ちる涙が、リゲルの頭を濡らした。
―――ごめんなさい。行こうとした。私も・・・すぐ迎えに行こうとしたんだよ!
力一杯叫ぶ。だけど声が出ない。
声帯を切り取られたかの様に、どんなに叫ぼうと声が、言葉がでない。
悲しみの色を強める少女の表情。後悔から、思わず一歩後ずさる。少女の顔が大きく歪んだ。
―――違う。これは拒絶じゃない。貴女のことが嫌いな訳じゃないの
手を伸ばそうとするが、時間の鎖に囚われた体は、少女の手を握ることさえ拒否する。
ウオーンウオーンと遠くで、戦闘機のエンジン音とも犬の遠吠えともつかぬ音が聞こえた。
己の体が、勝手にブルリと震える。怖い。とても。右手に走る鈍痛。段々と、その音は近づいてくる。
―――来ないで・・・来ないで。
記憶が、体が恐怖を覚えている。
「おねえちゃん・・・なんで・・・なんできてくれなかったの?」
また、少女が口を開く。その手にリゲルを抱きしめながら。
ウオーン、ウオーン。音は、いよいよ大きく鳴り始めていた。
一歩二歩・・・少女を前にしながら、勝手に足が後ずさる。
―――駄目。迎えに行かなきゃ。亜季を・・・
木の洞に蹲り、リゲルの頭に顔を埋める少女。
助けないと・・・今度こそ連れ帰るのだ。しかし、想いとは裏腹に身体が言うことを聞かない。絶望が心を覆う。
なぜ?何で云うことを聞いてくれないの。これが定めだから?怖い。情けない。己の全てが。やり直しの効かない世界の中で無様に足掻く。
同じだ。何時もと同じ。暗い感情が己の心の中で鎌首を上げるのが分かった。近づく音に、カサカサと下草を押しのける音が重なり始めた。
終焉は近い。身体が、右腕に刻まれた疵が、フィナーレを教えてくれる。
―――ごめんなさい。
音はすぐ傍まで迫っていた。変わらない。変えることは出来ない。現実から逃げる様に目を閉じる。
「・・・ここにいるよ」
「えッ?」
変わらない。変わる筈ないのに・・・。その時、聞こえない筈の少女の声がはっきりと聞こえた。
「すぐ戻るって、すぐに迎えに来るっていったじゃない。もう・・・10年以上経ってるよ」
聞こえないはずの少女の声が、また耳を打つ
その声は、酷く悲しげで、それなのに・・・どこか嬉しそうな不思議な声色だった。
―――何で?どうして。
過去は変わらない。変わらないからこそ過去なのだ。
「亜季・・・亜季・・・」
少女の声に、呪縛が解けたかの様に身体が動いた。
伸ばされる手。差し出される少女の手の平に自分の手を重ねる。
暖かい。確かな感触。絡み合う指先。握る手にグッと力を込めた。
―――亜季
現実である筈のない虚構の世界で・・・しっかりと握り返してくる少女の手。
やっと捉まえた。いつの間にか、迫っていた音は聞こえなくなっていた。
掠れた声で妹の名を呼ぶ。今度こそ放さない。
「亜季・・・」
伸ばされた手が、何もない空間を掴む。
柔らかな陽光の差し込む室内。消された蛍光灯と無機質なパネルで覆われた天井が視界を覆っていた。
妙に生々しい夢だった。力無く下ろした手には、未だ何かを掴んでいた確かな感触が残る。
楓は確認するかの様に、ゆっくりと拳を握ったり、開いたりを繰り返した。
―――私は・・・
何処かの病室と思わしきベット。人の気配。
「生きてるか?」
「・・・喉が渇いた」
どれ位、寝ていたのだろう。強張った体を起こしながら、楓は答えた。
ベットボードに上体を預け、殺風景な病室の中をゆっくりと見まわす。
幾つかあるベットの仕切りカーテンは纏められたまま。どうやら今、この部屋にいるのは、自分ともう一人だけらしい。
「どうしたのよ?その顔。不細工に磨きが掛ってるわよ」
傍らで、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出す恋人の顔を見ながら、楓は先ほどの自分の言った言葉に付け加えた。
緑のツナギ。フライトスーツ姿のまま、ベットサイドで椅子に座る長門の頬には、大きなガーゼが張られていた。
「起きた途端、絶好調だな・・・。キャノピーの破片でやられた。後、30cmずれていたら足が無かったよ」
乾いた笑みを浮かべながら、長門は答えた。
長門の言葉に、楓は再び、彼の顔に張られたガーゼを見た。
何時もならポンポンと出てくる軽口も出てこない。言葉の代わりに手を伸ばす。
「まだ、痛むんだ。触るなよ」
伸ばされる楓の手を軽く振り払い、変わりにペットボトルを、その手に渡しながら長門は言った。
ガーゼを止めるテープの為か、彼の浮かべる笑みは酷くぎこちない。
「笑いごとじゃないわよ・・・」
手を引っ込めながら、楓は小さな声で呟いた。
30cmも必要ない。10cmもずれれば十分。その傷の場所は、そういう類いのものだった。
軽い切り傷で済んだから良かったものの、ほんの少しずれていたら・・・浮かんだ想像に言葉が出ない。
楓の視線に気付いた長門も笑うのを止め、表情を引き締めた。
気まずい沈黙。春の陽光が差し込む病室には、険悪とまではいかないものの明らかにマイナスな空気が流れ始めていた。
「笑いごとじゃあ無かったよな」
淀んだ空気を振り払うかの様に、先に口を開いたのは長門の方だった。
「いいわよ。因果な商売だもの。覚悟はしていたかな・・・?」
「聞いてるのは俺だぜ」
「生きてた。二人とも。それだけで今は十分じゃない」
誤魔化す様に、長門から目を背けた楓は、彼から渡された水を一口啜った。
「ああ。そうだな。俺もお前も生き残った」
そんな楓の様子に、長門は言いながら頬を緩めた。
「すまない。間に合わなかった」
「ヒーローにはなれなかったわね。お互いに・・・私、何日寝てた?」
「3日。実戦なんてこんなものなんだろう。誰もがヒーローを目指して、何年もかけて己を鍛え、備える。だけど・・・」
そう言いながら長門は、視線を窓の外へと向けた。
陽光が差し込む窓には白いレースのカーテンが揺れていた。その奥に広がる青空。開戦の夜と違い、空には光が満ちていた。
「兵士の性ね」
長門と同じように、窓の外へと視線を向けながら、楓は言葉を繋いだ。
鳴り響く警報音。無慈悲な空対空ミサイルの一撃。
人生の過半を賭けた結晶は脆く儚い。それは兵士としての幸運か。それとも不幸なのか。
己の磨いた業が最大の輝きを発する時が、終焉の時だなんて。
―――線香花火みたい・・・
真っ赤に光って、ポトリと落ちる。あの撃墜された夜の情景が脳裏に蘇った。
不思議と悲しみは無かった。敵に対する憎悪さえもない。あるのは空虚感だけ。
「・・・戦況は?」
楓は小さく問うた。
「良くも悪くも無い。戦いのリングは移りつつある。殴るだけ殴っておいてな・・・」
肩を竦めて見せながら長門は答えた。答えながら、サイドテーブルに置かれた新聞を楓に差し出す。
「二匹目の鰌って訳ね。でも・・・少し派手すぎたんじゃないの?」
紙面をざっと流し読みしながら、楓は溜息混じりに言った。
長門が差し出す新聞の一面には、「制裁」と「謝罪」、「賠償」の文字が交互に踊っていた。
北関東工業地帯における人権問題を軸に、今回の軍事行動を正当化しようとする東日本。
戦況は、長門の言う通り停滞し、戦いの場は外交へと移りつつあるようだった。
いかに東日本軍が決めた初撃が鮮烈なものであっても、それは手段でしかない。
軍事力の行使を否定する西日本は元より、先に手を出した東日本自身、全面戦争を望んでいる訳ではなかった。
自国内権力闘争のガス抜きか、強請たかりの一環か。極論してしまえば、この2点に尽きる。
軍事的成功を外交的成功に繋げる。紙面に踊る文字の中、楓は互いに火花を散らす両国外交官のつばぜり合いを見た様な気がした。
「ああ。その通りだ。奴ら、半島での成功で妙な自信をつけたのかもしれない。だが、今回はアメリカも黙っちゃいないぜ。なんせ同盟国が、ノックダウン寸前の一発を貰ったんだ」
国連決議による軍事制裁。記事には、西側軍事力の象徴ともいえる航空母艦の写真が添えられていた。それも日米空母が仲良く揃ってだ。
この絵を見て、何も感じない軍人はいないだろう。同盟の危機から一転、再び歩み寄りを見せる日米両国。
これに対して、当事国である東日本は無論の事ながら、中国、ロシアが難色を示していた。
東側は、あくまでも両日本における内紛、国内問題として解決すべきだと主張。他国による軍事介入を拒否する姿勢を打ち出していた。
「米軍にとっては、これ幸いな訳だ」
楓は渡された新聞を畳み、長門に返しながら言った。水を飲んだばかりなのに、口の中がカラカラになる様な気がする。
緊迫する東アジア情勢。今回の事件(これだけの軍事衝突がありながら、未だ戦争ではなく事件と称されていた)を切り口に、「積極的」な行動によるパワーバランスの再構成を行いたいアメリカと、このままなし崩し的に、東アジアにおける勢力を維持、拡大したい中国、ロシアの思惑。半島と並んで「アジアの火薬庫」と称される、その名の通り、東西日本の間に起きた揺れは、世界までもを大きく揺り動かそうとしていた。
「国連として動けなくても多国籍軍でという形もある。それに今回の被害者は俺達だ。中国やロシアが拒否権を行使しようが、国際世論さえ味方につけば何とかなる」
「一体誰が望む戦争よ。内輪もめで済ましたいでしょう?東は」
「そりゃそうさ。だからこその初動全力だったんだろ」
「また戦わなくちゃならない」
長門を睨みつける様にしながら楓は言った。
「そうだ。俺達は戦わなくちゃならない」
自分を睨みつける楓の眼を真っ直ぐに見つめ返しながら長門は答えた。
「誰も望んじゃいない。少なくても国内は」
「先に手を出したのは奴らだ」
「これ以上はないわ」
ペットボトルを持つ楓の手は、何かに耐える様に震えていた。
「さすがよ。同じ戦闘機パイロットとして腹が立つほど彼らは強かった。でも、あれが限界。彼らがいかに精強だろうと、これ以上は無理」
撃墜された、その日からずっと寝ていた楓に、西日本軍が被った詳しい被害は知る由も無かったが、大まかなことは予想できた。
東日本軍は強い。だけど、自分が属する西日本軍も弱くはない。先ほど紙面の中を遊弋していた大型航空母艦の姿が、彼女の脳裏を過ぎる。
基準排水量6万1000トン、満水で8万トンを超える「蒼龍」級は、単艦で3個飛行隊48機の戦闘攻撃機を運用できる。
蒼龍級CVが2隻で96機。これに米海軍の空母打撃群が2個も加われば、東日本に対抗すべき手段は無かった。
「戦力はある」
楓と長門、二人の声が重なる。だが、二人が思い描く戦力行使の方向は全く正反対のものであった。
「法改正だけで十分じゃないの?」
「仲間を殺された。一般市民にだって被害は出ている」
「復讐は何も生まないわ。負の連鎖よ」
「政治家みたいなことを言うんだな」
楓の言葉に、苛立った様に長門は言った。
「俺達は盾だ。だが、盾である様に剣でもある。先に手を出したのは東の奴らだ。痛みは、殴られた奴にしか分からない」
制裁。極度の平和主義の為に、有名無実化していた軍事力が持つ抑止力の意味を再認識させる。
彼の云うことは、間違っていない。正しくはないかもしれないけど、間違ってはいない。使わないのと使えないとでは、大きな差異がある。
やられっ放しで終わらない所を見せる必要があった。舐められたら終わり。案山子とばれた軍隊に存在意義はない。
「でも・・・」
楓は言い淀んだ。何故だか視界が歪む。何時のまにか涙がこみ上げていた。
―――妹が東日本で生きているかもしれない。
叫びたかった。感情に任して。
全面戦争になれば、唯では済まない。軍民問わず大きな被害が出るだろう。
東日本にいるかもしれない妹のことを想うと、楓は恐怖に身を震わせた。
こんなはずじゃあなかったのに。上手くいかない。何もかも。
リゲルを抱え泣く妹の姿。手に残る確かな感触。全てを夢と終わらせるには、強い違和感があった。
しかし、それを伝える術がない。この場で夢の話を打ち明けるほど楓は幼くも、また愚かでも無かった。
―――どうでもよいと・・・全てを投げ出されば、どれほど楽になるのだろう
個人である前に、航空自衛軍戦闘機パイロットとしての立場がある。
それは恋人である男を前にしても変わらない。少なくても、今はそういう話をしている。
「楓・・・」
ペットボトルを弄ぶ楓の手を、長門は軽く握りしめた。
「戦いたくない」
「それは俺も同じだ」
握られた手を、そのまま引かれ抱きしめられる。
床に落ちたベットボトルがペコンという情けない音をたて、ベットと床に黒い沁みを広げた。
「なが・・・」
言いかけた楓の口を塞ぐ様に、長門は抱きしめる腕に力を込めた。
「それでも俺達は戦わなきゃならないんだ」
耳元で熱を持って語られる言葉。楓には、その声が悪魔の囁きの様に感じられた。
神が存在しない世界に、悪魔は存在するのか?
割れたステンドグラスの隙間から差し込む光芒が、廃墟の中に天使の梯子を掛ける。
ああ、悪魔の前に天使が居たなと、亜季は長椅子に腰かけたまま、空から差し込む、その光の筋をボーっと眺めた。
もう二度と奏でられることがないであろう蜘蛛の巣の張ったパイプオルガン。崩れ落ちた祭壇に、ひび割れて所々に穴の開いたステンドグラスの大窓。
床には、酒瓶や食べ物の袋が乱雑に散らばり、室内にはすえた臭いまで漂っている。
その教会は、新潟航空基地の北端、海からの風や砂利から滑走路を守る為に植えられた防風林の中に建っていた。
なぜ、こんな場所が基地内に未だ残っているのかは分からない。取り壊す予算をけちったのか、それとも敢えて朽ちるに任せて晒し物にしているのか。
荒れ果てた教会の中、亜季はズルズルと体を滑らせ、そのまま長椅子に寝ころんだ。
視界に誰かが持ち込んだのであろうベットマットが目に入るが、さすがに汚れ、沁みのついたソレを使う気にはなれない。
東日本もまた、その他の共産国の類に漏れず宗教を歓迎している国ではなかった。
ペレストロイカ、ソ連崩壊以降、国家警察をはじめとする公的機関による弾圧こそ止まったものの、未だ宗教に対する否定的な考えは強い。
それでも・・・汚れたベットマットを見ながら亜季は眉を顰めた。神の家で行われる背徳の宴。こういうのを神への冒涜って云うんだろうなと諦め半分で納得する。
―――まあ、隠れ家代わりに使ってる私も他人のことをとやかく言えた訳じゃないけどさ・・・
亜季自身、この教会跡をちょくちょく利用していた。夜は満員御礼のこの場所も、日中、人が寄りつくことはほとんどない。
風雨をしのげ、座る場所もある。匂いは少し気になったが、時間を潰すには良い場所だった。
そして今日も・・・。
パラシュート降下の際、立木に引っ掛け、腕を骨折し、基地に隣接する空軍病院で入院する利恵を見舞ったその帰り道。気がつけば乗員待機室ではなく、ここに足が向かっていた。
少し一人になりたかった。実戦参加したパイロットともなれば誰もが話を聞きたがる。
隊舎も待機室も雑音が多すぎた。軍にプライパシーもデリカシーもない。打ち続く質問攻勢に嫌気も差していた。
今日は相棒の見舞いという口実もある。30分ぐらいなら咎められることもないだろう。開き直った彼女はゴロリと寝返りをうった。
「静かだな・・・」
何時もは喧しいほど響いているジェットエンジンの咆哮も聞こえない。戦闘行動自体が下火になっていた。飛んでいるのは緊急対応の機体ぐらい。
情報管制が解かれていないので詳細は分からなかったが、飛行隊長や仲間の仕入れてくる情報では、どうやら戦争は次の段階に進んだらしい。
救出されて以来、飛んでいない。健康診断とねちっこい保安警備隊の尋問から解放されたら全てが終わっていた。
戦闘機パイロットの基地内待機こそ解かれていないものの、飛行隊に所属する多くの95式も重整備に入っている。
エンジンの交換も含む重整備が、臨戦態勢の状況で行われるはずがない。その事実からも、戦いが外交戦へと移ったという情報は確かな様だった。
連日に渡って流れるニュース番組で云う様に、西日本が譲歩し、祖国に謝罪と賠償を行うのか・・・ここから先、どう転ぶかは一介の兵士である亜季には想像もつかなかった。
―――出来れば・・・戦いたくないな・・・
嵐は過ぎ去ったのか。それとも嵐の前の静けさなのか。先ほどまで心地よかった静けさが急に不安な物へと変わる。
亜季はフライトジャケットのポケットに手を突っ込んだ。固い感触が指に触れる。
ポケットの中の物を取り出し、彼女は差し込む光芒の光にソレをかざした。
鈍い光を反射する認識票。その認識票は、撃墜された夜、西日本空軍パイロットから奪ってきたものだった。
「西村楓」
亜季は、姉の名を声に出して読んでみた。
あの夜、実の姉に銃口を向けた。撃ってもおかしくない状況だった。
姉を殺しかけたという現実に亜季は身を震わせる。再び戦争が始まれば、また戦わなくてはならない。
「おねえちゃんの・・・馬鹿」
苛々と認識票を弄びながら、亜季は憮然と呟いた。あまりの理不尽さに怒りがこみ上げてくる。
―――戦闘機パイロットなんて望んでもなれるものじゃないのに・・・
なぜ姉は、軍人になんかを選んだのだろう。豊かな西日本なら幾らでも道はあっただろうに。
「馬鹿!馬鹿!馬鹿!」
怒りの矛先も解決の糸口も見えなかった。
どうしょうもなかった。今の自分は東日本空軍戦闘機パイロットで、姉は敵国の戦闘機パイロット。
戦場で見舞えれば撃つしかない。いや、撃たねばならない。
「馬鹿ッ!」
一際、大きな声で叫んだ後、亜季は認識票を押し抱くようにして丸まった。
撃たねばならない。でも、撃ちたくない。荒れる感情を無理やり抑え込む様にギュッと身体に力を入れる。
「くぅ・・・」
次はない。あったら自分は・・・食いしばった歯の隙間から声が漏れた。
助けて欲しい。誰でもいいから救ってほしい。神様でも、仏様でも何でもいい。
朽ち果てた教会の中、姉の名前が刻まれた認識票を十字架代わりに抱いて、亜季は祈った。
―――私の前に現れないで・・・、と。